可愛かった弟は今何処に
急に引っ張られる手。
何が起きたか分からないまま、白い手袋をした大きな手が私を連れて扉の前に向かう。
乱れた様子は一才なく優雅な動作だというのに私は何処か焦っているような感じに思えた。
「レイナルド卿?」
普段と異なる様子に見えるローズ公爵をリゼル様も気になったらしく名前を呼ばれる。
「……それでは今日は終わりでよろしいかな? どうも長旅で疲れが溜まっているみたいだ」
「……それはお大事に。次の打ち合わせはどうする?」
アルベルトが問う。
「明日の朝、私から君の元に行こう。二人で時間を見計らってリゼル様の元に参りましょう。明日のご予定は?」
「特に大きな用事は入っていないけれど……」
「ではそのように」
穏やかな笑みを浮かべたままレイナルドが扉のドアノブに手を置いた。
この笑顔、作り笑いだとは思うのだけれども。
(何を考えているのか全然分からない……)
何故なら、幼い頃のレイナルドはこんな事しなかったし、こんな感情が読みきれない笑顔を浮かべたことはない。
(ああ、でも)
ローズマリーに構って欲しくて強引に手を引っ張っていたことがあったなぁ。
まるで今のように。
(あれ?)
「それでは失礼するよ」
「ああ」
「おやすみレイナルド卿。マリー嬢」
アルベルトとリゼル様から声を掛けられ、私は慌てて頭を下げた。
「お先に失礼致します」
私の挨拶と共に扉がゆっくりと閉まった。
「貴女の部屋は用意してある。王宮でも見たことがあるかもしれないね」
「はぁ……」
案内されながらも手は相変わらず繋がれたままなのだけれども、まるで当たり前のように自然のため言葉にして指摘するのも憚られる。
ただ、繋がれた手のひらが手袋越しだというのにひどく温かく感じた。
見上げた先のローズ公爵はいつも通りだった。
(さっきの違和感は何だったの……?)
会話を聞く上では問題ないと思っていた。
ローズ公爵は今、悪政を振り翳す派閥同士の障壁を解消するために動いていることは分かる。
そして、その件を婚約者騒動でより混乱を招いている状況に終止符を打つために手を打っているということも。
(何かが抜けている気がする)
けれど私には分からない。
政力争いに関わらずに生きてきたマリーには、ローズマリーの頃のように情勢を把握できるような情報も持っていない。
ただ感じたのは、ローズ公爵への違和感だった。
「この部屋だ」
考え事をしている間に到着していたらしい。
慌てて顔を上げて私は息を呑んだ。
見知った調度品の数々。少し古くなってはいるものの品の良い壁紙。
忘れもしない、ここはかつてローズマリーが使っていた部屋だ。
「ここは……」
「君も侍女生活の中で聞いているだろうが、ここは王太子の婚約者が使用する部屋とされている」
「はい……」
聞いているも何も、ローズマリーは領地を離れてからずっとここを使っていたのだから。
中に入ってから入り口のランプを灯せば中の装飾までよく見えた。
多少装飾が変わっているとはいえ、家具の置かれた場所まで全て同じだった。
「…………」
美しく整えられた高級な部屋だというのに、今の私には辛い思い出が蘇る場所でしかない。
孤独の日々。
ひたすら勉学に励めと机に座らされた。
会いに訪れる人もいない部屋。
冷めた感情しか見せない侍女達。
「マリー?」
「……ありがとうございます。とても……綺麗な部屋ですね」
私は気を沈めながらどうにか声を発したけれど、うまく伝えられなかったらしい。
ローズ公爵が私の頬に触れた。
「何故辛そうな顔をしている?」
「…………それは」
ローズ公爵は目を逸らした私を問い詰めることはせず、中を先に進んでいく。
辺りを見渡し不快な場所が無いか探すように確認をして、また戻ってきた。
「この部屋では気に召さないのではないか?」
「そんなことは」
「王太子妃候補の部屋に萎縮しているのか。それとも……」
ローズ公爵の瞳が冷えた様子に変わる。
「幽霊でも出てくると思っているのかな? ここはグレイ王の元婚約者だったローズマリー・ユベールが最期まで過ごしていた場所だからと?」
彼の口からローズマリーの名前が出たことに私は動揺してしまう。それを是と捉えたのか、ローズ公爵は笑う。
「幽霊など存在しないよ。いや……むしろ、いてくれたら良かったのにな」
「公爵……」
「君は知っているだろう? ローズマリー・ユベールは私の姉だ」
ローズ公爵は中に入り閉まっていた窓の扉を開ける。暫く開けていなかったのか僅かに軋んでいた。
「姉は投獄される直前までここで暮らしていた。厳しい妃教育を長年ここでしていた」
窓の外を眺めながらローズ公爵は続ける。
「エディグマ嬢。貴女も私の姉が殺人を企てたと考えているのかな?」
「いいえ」
私は、一度だって誰かを殺めようなどと考えたことはなかった。
だからこそ断言すれば少しだけ声に出してローズ公爵が笑う。
「真っ直ぐすぎる回答だ。……私もそう思っている。姉は誰かを殺すような考えよりも、誰かを救うことを常に考えるような美しい人だった」
何処か懐かしさを感じるローズ公爵の言葉。
(そういえば昔もレイナルドがよく私を褒めてくれてたものね……)
姉様は素敵です。
姉様はお優しいです。
姉様は誰よりも美しいです。
姉が心配するほど姉を崇拝しているに近かったレイナルド。
それが、たった一人の愛情を与えてくれる姉への思慕だと分かっていたローズマリーもまた、愛するレイナルドの言葉を嬉しく聞いていた思い出。
(今聞くと恥ずかしいわ……)
「だからというわけではないが、この部屋に対し恐怖を抱く理由にはならないはずだ。それでも幽霊が怖いというのなら、別の部屋を用意するが」
「あ……いえ! とんでもございません!」
すっかり幽霊が怖いと思われている。
そう。
元々この部屋は幽霊話が噂されていることがある。
(亡きローズマリー嬢が夜な夜な泣いているとかなんとか……)
王宮に入って聞かされたけれど、何てことはない嫌がらせを受けている侍女の泣き場所になっているだけだと思う。
「大丈夫です。少し……部屋の高級さに萎縮してしまいました」
何せ男爵令嬢として生まれ育った今、こんなに広くて上級品ばかりの品の中で暮らすことに慣れていない。
汚してしまったら侍女のお給金でも支払えない額になりそう……
「そうか。なら良かった。必要な物は侍女を呼ぼう」
「それでしたら自分で」
侍女として働いていたのだから、何が何処にあるかは把握している。
そう思って口を開いたけれど、ローズ公爵の人差し指が私の唇を塞いだ。
翡翠色の瞳が近い。
「……貴女は今、リゼル王子の婚約者であることを忘れてはならない」
「…………はい」
そうだった。
「出来れば貴女がこの場にいることをまだ公にはしたくない。大人しくしててもらえるかな?」
「かしこまりました」
僅かに背を屈めて私の傍から見下ろしてくるローズ公爵の様子に、私は徐々に頬が赤らむことを止められなかった。
こうして男性の大人として意識してしまうような行為は避けてほしい……!
「侍女は私が一名用意しておこう。何か質問は?」
「いえ…………ございません」
「そう? それでは、明日の朝迎えに来る」
幼い頃とは比べ物にならないほど大人びた表情をしたローズ公爵のお顔がようやく離れ、私は激しい動悸をどうにか落ち着かせることが出来た。
「はい。お休みなさいませ」
扉の前に向かうローズ公爵に向けて深く頭を下げる。
暫くして扉が閉まる音がした。
私はそのままズルズルと床に座り込んだ。
嗚呼。
心臓の音が煩い。
(レイナルド……! あんなに可愛かったレイナルドが……!)
思い浮かべるのは柔らかな微笑み。
美少年たる美しく可愛い弟の笑顔。
(なんであんなに色気が出てきちゃったの……!?)
幼い頃の可愛かったレイナルドが。
粉々に砕け散ってしまった気がして。
私は柔らかな絨毯の上に頭を預けたのだった。
次話は閑話でレイナルド視点予定です




