七色橋話
空に七つの橋がある。
橋の下には雲海が広がり、雲の間には万感の想いが込められた品々がふわふわと浮いていた。
長年愛用された餌皿や首輪、遊び尽くされたネズミのオモチャ、お気に入りだったクッション、「絶対に忘れないよ」と白いペンで手書きされた真っ赤なアルバム等々。
橋のこちら側は無機質で冷たいコンクリート床だが、あちら側は青々とした猫草、じゃれっ気をそそる猫じゃらし、そして猫にとって究極の娯楽であるマタタビの生える豊かな大地へと繋がっている。
遠目から見ても、そこは猫にとってのパラダイスだと分かった。
常に新鮮な水が飲みやすい高さから流れ落ち、鰹節の花が咲き、様々な味のドライフードが小山を作り、同じくチキン、小エビ、マグロなど選びたい放題のウェットフードの小皿が時間毎に現れるのだから。
「もう痛いお注射しなくていいんだねぇ……」
七つの橋のひとつ、赤い橋の中央に佇む中年女性が呟く。
彼女の愛する白黒猫のミミは長らく糖尿病と闘っていた。
毎日のインスリン注射に耐え、気の乗らない療法食生活も続けたが、しかし症状は一向に改善されなかった。
今、緑の大地でミミがペロペロと一心不乱に自分を舐めている。
その姿は毛艶も良く、ふっくらとして、まるで病を感じさせない。
中年女性は愛猫の穏やかな様子に泣いた顔で微笑むと、決意を持って橋から引き返し、コンクリート床の向こうに消えていった。
オレンジ色の橋に立つ土方風な男性も、同じ頃にお別れの覚悟を決めたようだ。
「おーい、よかったなー! もう苦しくないからなー! よく頑張った! ありがとう! 最っ高の猫だったよ! ずっとずっと俺の飼い猫だ!」
末期の腎不全で背骨が浮き出るほど痩せて、もう立ち上がることのできなかったパニ子が猫じゃらし相手に本気になっている。
それだけで男性は悲しくて嬉しいのだ。
続いて黄色の橋では祖母、両親、姉、男の子の一家が揃っていた。
男の子が必死で鍵尻尾の武蔵を呼んでいるが、背後の両親の表情は複雑だ。
「武蔵! もうちょっとだ! 頑張れ! おいで! おいで!」
緑の大地から離れた武蔵の体は一家に近づく程、ボロボロになっていく。
顔半分は痛々しく潰れ、後ろ両足を引きずり、鍵尻尾は無残に折れ曲がっている。
それでも武蔵は、ある雪の日に野良から飼い猫に昇格してくれた優しい家族の元へ戻ろうと息を切らしていた。
「だから、あたし言ったのに! 外飼いは危険だって! 大きい道路があるから出しちゃ駄目だって!」
高校生の姉が泣きながら訴える。
「お医者さんは命だけは助かるって言うてるから、だから、むーちゃん帰っておいで。ね、おばあちゃん、寂しいんよ、むーちゃんがいないと」
轢かれた武蔵を獣医に運んだ祖母もハンカチを目に押し当てている。
「でも……これからも手術とか通院とか色々あるんですよね? 今助かっても、あの子も痛い思いするだけじゃないんですか?」
必然的に自分へ回ってくるであろう今後の世話を考えながら、母親が言葉を選んで言った。
「……」
現実的な妻を見て、涙にくれる母を見て、エールを送る子供達を見て、一家の大黒柱は最後に傷だらけの武蔵を見る。
生きてほしい。だが、辛いだけの生ならば終わらせてやらねばならない。
なにしろ、雪の日にこっそり武蔵を招き入れたのは当の父親なのだ。
彼はなかなか答えを出せずに立ち尽くしたままだった。
一方、緑色の橋では中学生の男子ふたりが悪戦苦闘していた。
「チッチ、チッチ」
「ほーれ、チビちゃん! チッチッチー」
ふたりの制服はびしょ濡れで、唇は青ざめている。
「だー! 奥行っちゃ駄目だって! 死んじゃうって!」
「戻ってこーい! こっち! こっち!」
橋の向こうのキジの子猫は呼びかけを無視して、楽しそうに周囲をうろちょろしている。
こんなに温かくて、お腹も満たされているのは母猫が生きていた頃以来なのだ。
ここを離れて食べ物のない世界に戻りたくないし、もう増水した川へも落ちたくはない。
激しい流れから子猫を救ったふたりの声が、小さな耳に届くかは誰にも分からなかった。
水色の橋には静かな怒りが満ちている。
何者かに顔から腹まで薬品をかけられ、爛れた皮膚の激痛に耐えながら道端に縮こまっていた茶トラの野良猫がいた。
今は緑の大地で腹を見せ、ゴロンゴロンと幸せそうに転がっているが、地上にいた時の姿は悲惨そのものだった。
手遅れだと知っていて、それでもその茶トラを獣医へ連れて行った女性が誓う。
「苦しかったね、辛かったね、痛かったね。早く助けてあげられなくてごめんね。必ず、こんなことした奴は見つけ出すから……約束するから、だから……」
獣医師は早く楽にさせてあげたほうがいいと言った。
女性は拳をギュッと握りしめ、爛れていない本来の、マズルのぷっくりした可愛い顔を見つめる。
「だから……ごめんね……」
自分がこの子にできるのは謝ることだけだ。
他の猫に被害が出ないよう警察へも行くし、地域の猫ボランティアへ相談もするし、監視カメラの設置など対策も講じよう。
けれど、この子にはもう謝ることしかできないのだ。
悔しさの涙を流し怒りに震えながら、女性は橋を後にした。
「よし、よし、よし」
藍色の橋の真ん中でスーツの男性が思わずガッツポーズをする。
その三毛猫を道路脇で見つけたのは猛暑日で、最初はこのクソ暑い中、優雅に昼寝してるなーと呑気に思ったのだ。
近付いてようやく見開かれた目、だらっと伸びた舌を確認し、非常にヤバい状態であることに気が付いた。
猫にも熱射病があるんだと、この時初めて知ったのだ。
尻尾をピンと立て、悠々と橋の向こうへ進む後ろ姿に男性は必死でミネラルウォーターをチャプチャプ振ってアピールした。
なにを思ったか猫が引き返し、最初に出会った状態(目を見開き、舌を出し、力なく横たわる)に戻ると、ペットボトルの蓋に注いだ中身をゆっくりと口に垂らしてやる。
虚ろだった猫の目に生気が蘇ったのが嬉しくて、思わずガッツポーズを決めてしまったのだ。
だが、猫の欲しがるままに水を与えながら微妙な考えが頭を過ぎる。
さて、今はいいけど、明日からも続く猛暑予報にこいつをどうしたらいいんだろう?
こいつはもしかしたら、明日から水がくるのを待つかもしれないぞ。
ほら、猫って一度、餌をやると場所を覚えるって聞くし。
毎日、水をやりにこれるわけがない。
いや、絶対にできないわけじゃないが、やるのか? 俺が? 冗談だろ?
今日だけは助けたから、それでよくないか? 明日は別の人の番だろう。
いや、でも……うーん……。
そこで吹っ切れないのは彼が猫好きの家庭で育ったからだ。
意識の表面に出ていなくとも、男性にも猫好きの要素が十分にあった。
「あー、まず靖子に電話すっか」
靖子とは実家で三匹の猫と暮らす母である。
この親子が出す結論によって、三毛猫の未来は大きく変わるだろう。
七つの橋の最後は紫色の橋だ。
老女がゆっくり、ゆっくりと橋を渡り、猫達のパラダイスへ向かっていく。
他の六色の橋は中央に見えない壁があり、人間がそこから先に進むことができなかったが、この老女のように条件を満たせば壁は越えられるのだ。
緑の大地には歴代の飼い猫が勢揃いしている。
懐かしい毛皮に触れたくて、彼女は足を急がせた。
「あぁ、言い伝えは本当だったんだ。嬉しいねぇ。待っててくれたんだね。これからはずーっと一緒だよ」
もし、あなたになくしてしまった飼い猫がいたのなら虹の橋の向こうでその子はきっと待っているから、あなたがいつか行った時、また大好きなことを伝えてほしい。