八話
クリストフからの返事は辺境の地からにしてはずいぶん早いものだった。
「ほーら、レオノーラ、見てごらんなさい! 私の言った通りでしょう? クリストフ様からお手紙と、そして贈り物まで届いていてよ」
満足げな母とは対照的に、執事とレオノーラは戸惑ったように顔を見合わせる。
あのハンカチを見てないのだろうか。
執事もまた心のなかでひっそりとレオノーラの刺繍を思い出していた。
――お嬢様! かわいらしい熊ではありませんか!
――ローレンス、熊ではないわ。それは獅子よ
むっつりと答えるレオノーラに、ローレンスが平身低頭謝ったのは言うまでもない。
だが、別にローレンスに悪気はなかったのだ。
何しろあの茶色だか、黄土色だかわからない色の固まりを、獅子だと判ずるほうが無理があるというものだ。
そのことは誰よりもレオノーラがわかっていた。
それでも熊も同じぐらい強いからと自分を慰めた。
もしかしたら熊が気に入ってくれたのだろうか。
ううーんと唸るレオノーラに、母が手紙を開けるように促す。
「ほら! ごらんなさい。クリストフ様はあなたの贈り物を気に入ってくださったのよ。レオノーラ、すぐにお返事なさい」
「え? すぐ?」
前世のような交通網が充実し、一日二日で遠くまで手紙が届くようなシステムがあるわけではない。馬と人の手を使い、幾日もかけてようやく届く。それを頻繁にやるなど。
眉をひそめるレオノーラだが、母はすっかり有頂天だ。
早くとせっつかれ、レオノーラはしぶしぶ手紙を開ける。
と、ふわりとすがすがしい芳香が立ち込めた。そろりと便箋をあけると、そこには一枚の葉が挟まれていた。
「おや。レオラの葉ですな」
感心したようなローレンスの言葉に、レオノーラは首をかしげる。
聞いたことのない名前だったからだ。
「レオラって木?」
「ええ」
ローレンスがうなずく。
「この辺りでは見かけませんが、北の方で自生している木ですな。香木の一種で、実は葉が一番香りが強いそうですよ」
「そうなの」
クリストフのいる場所は北方の国境だ。
青くすがすがしい香りを吸い込みながら、レオノーラは手紙を読む。
そこにはハンカチと手紙のお礼がまず書かれており、それから北方でも暮らしぶりがつづられていた。
文面のいたるところに彼らしい、やさしさとそして生真面目さが感じられた。
「……おかしいわ」
手紙を二度ほど読みかえしたレオノーラが思わず漏らした言葉に、母が眉を寄せた。
「どうかしたの? クリストフ様になにかあったの?」
「え? ああ、いえ、そうではありません」
そういってごまかしたレオノーラに、母は重ねて返事をすぐに書くようにと促した。
それにおざなりの返事を返したレオノーラは、手紙と一緒に送られてきた小箱を手にとり自分の部屋へと戻る。
そしてもう一度手紙を読み返す。だが、幾度読み返してみても、彼からの文面には迷惑そうな雰囲気は微塵も感じられなかった。
「……やっぱり、おかしいわ」
レオノーラは広げた手紙を前に、首をかしげる。
ゲームの中でのクリストフといえば、ヒロインに婚約は自分の意思ではないと繰り返し告げていた。婚約は伯爵家に生まれた者の義務であり、自分の本心は別のところにある、と。そういっていたはずなのに。
手紙の文面から感じられるのは、本心から喜んでいるような姿であった。
「もしかしてあの刺繍が気に入った、とか?」
人の趣味というものはわからないものだ。
もしかしたらあの奇妙な物体がクリストフの琴線に触れたとか。一瞬、浮かんだ考えを、レオノーラはすぐさま振り払う。
「真面目なのよね、たぶん……」
たとえ本心でなくても、義務であったとしてもクリストフならばきっと誠意をもって尽くしてくれるだろう。
だが、その結果彼は自分の心を殺すことになるのだ。
レオノーラは小さくため息を落としながら、送られてきた小箱を開ける。
と、そこにあったのは葉がデザインされた銀でつくられたブローチだった。
「これもレオラの葉だわ」
磨き上げられた銀の葉。それが陽光にきらりと輝く。
それをすかすように見上げていたレオノーラは、ふっと視線を窓の外へと向けた。差し込む日差しに、銀でつくられた葉脈をきらきらと輝かせた。
その晩、レオノーラは再び彼に手紙を書いた。
レオラの葉のお礼と、そしてハンカチのあまり布でつくった守り袋だ。
中には月の女神の涙と呼ばれる小さな白い花の押し花をいれた。
月の女神とはこの国でもっとも愛されている神様で、彼女の花と呼ばれるのは夜にも薫り高い匂いを放つ小さな花。このあたりではミレーと呼ばれている花だ。
その香りが魔を払い、そして災いを遠ざけるというのが昔からの言い伝えだ。
同じような言い伝えが辺境にもあり、寒い地方のためか花ではなく葉に変わっているとどこかで聞いたことがあった。
おそらくそれがレオラの葉なのだろう。
彼からもらったものはレオノーラの宝箱に入れ、そして変わりに家の庭にあるミレーの花をその袋に入れた。その袋にさした刺繍の図柄は、自分で考えた。だから難しい図柄も華やかな飾り文字もない。ただ一つだけ。ふるくから伝わる守りの図柄を刺した。
もちろん、出来栄えはやはり想像の範疇。
それを手紙と一緒に彼へと送った。
布と葉が彼を守るとも思っていない。だが、魔法という力がこの世界にあるならば、少しは何かの役に立てるかもしれないとおもったのだ。
それだって、レオノーラの自己満足かもしれない。
だけど、彼から送られたレオラの葉を見て、何かしなくてはいられなかった。
安穏とした地にいるレオノーラよりも、クリストフの方がずっとレオラの葉が必要なのに。
そうして贈られたレオノーラの手紙と守り袋は、すぐにクリストフの元に届けられた。
そして数日後、またしてもクリストフからの手紙がきた。
そうして始まった手紙のやりとりは、なんと半年間続いた。
内容は乙女ゲームでよくあるような甘いだけのものではない。生真面目な彼らしく、日常の出来事を細かにつづったものばかりだった。
そんなやり取りが終わったのは、半年を過ぎたころ。
日課になりつつあったやり取りがふいに途切れた。
そのことに気が付いたレオノーラは動揺した。数日前に辺境の地で暴動が起きたと連絡がきたばかりだったからだ。
「嘘でしょ」
「……かなり激しい暴動だったとか」
執事のローランドが珍しく表情を曇らせたことに、レオノーラは絶句する
「そんな……」
「……お嬢様、大丈夫ですよ。あちらには騎士の方々が大勢いらっしゃるそうですから」
ローランドの言葉に、レオノーラは無意識に胸元に手をやる。
と指先が触れたのは冷たく硬い感覚。レオラの葉のブローチだ。それを握り締め、レオノーラは小さく息を吐く。
だが、不思議なことにどんなに大きく口を開こうとも息苦しさははれない。
目を伏せるレオノーラの肩に、ローランドが手を置いた。それは慰めているようにも、誤魔化しているようにもレオノーラには感じた。
いつもはそんなローランドのやさしさに救われることが多かった。
だが、今のレオノーラにはそんなやさしささえも気持ちを和らげることはなかった。
だってそうだろう。ゲームで言えば、まだスタート時点でもない。
それなのに彼は――。
「……失礼します! お嬢様!」
突然、部屋に飛び込んできたのは年若い侍女だった。
屋敷に勤め始めてまだ一年と少し。行儀見習いという名目でやってきた娘だった。
落ち着いた態度で周囲からもかわいがられていた娘が、その行儀をかなぐり捨て、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「何事ですか。騒々しい」
ローレンスが眉を顰める。だが、侍女はそれどころではない。
ぜいぜいと息をきらせ、侍女はまっすぐにレオノーラを見つめる。
「お、お嬢様! 驚かないでくださいね!」
「どうかしたの?」
「ど、どうしたもこうしたもありません! あの、来てます!」
よほど興奮しているのか叫ぶ侍女に、執事があからさまに顔をしかめた。
「来てる? 一体誰が来ているというのですか?」
その執事の落ち着き払った声に、侍女は振り返る。
「来ているんです! クリストフ様が!!」
「え?」
思わず立ち上がったレオノーラは、その勢いのまま部屋を飛び出す。
開け放ったドアはそのままに、レオノーラは玄関ホールへと続く階段へと向かう。ゆるくカーブをした階段に差し掛かったところで、レオノーラは立ち止まる。
大きな玄関ホール。二階まで吹き抜けになっている。両開きの玄関ドアの上には、大きな窓があり、そこからホールのちょうど真ん中に日差しが差し込む。
まぶしいほどの光の真ん中。
そこに旅姿の男が一人、たたずんでいるのが見えた。
薄汚れていてその上にまとっている外套のすそはわずかにほつれているのが見える。ずいぶん長い旅路だったようだ。
その薄汚れた外套をそのままに、彼は懐かしそうに辺りを見回していた。
それをレオノーラは階段上からじっと見つめる。
一歩足を踏み出し瞬きをした瞬間、階下の彼は幻のように消えてしまうのではないか。そう思うと、レオノーラは身動きがとれなかった。
と、当たりを見回していた彼の視線が、ゆっくりと階段を上がりそしてその上にたたずむレオノーラをとらえる。
その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。
「……レオノーラ」
半年ぶりに聞く声だ。
前世の時であれば、便利なものはいくつもあった。
電話にメール、メッセージアプリなど。遥かな彼方にあったとしても、存在ぐらいは感じられた。だが、ここは違う。
馬で一日。人の脚なら二日、三日かかるほどの距離ともなれば、気配はおろか、その人が何をしているのかすらわからない。唯一、手紙だけが彼を知る方法となる。
だが、それだってすべてではない。
だからこそ、一つの言葉、一つの文字をじっと見つめる。
それがわかった今だからこそ、彼の声がどれほど聴きたかったのかわかった。
「クリストフ……、さま」
レオノーラの声はかすれ、見つめる視界がわずかに揺れる。
と、その瞬間、階下にいたクリストフがはじかれるように駆けだした。
いつもならば礼儀を重んじ、決して感情を表に出すことはない彼が、だ。
階段を駆け上がり、立ち止まったままのレオノーラの前で立ち止まる。
息を切らせた彼を、レオノーラはじっと見つめる。はた目から見たら、きっとひどい恰好だと思うだろう。
美しい金髪はくすみ、頬にはうっすらと汚れがついたままだ。
袖はほつれ、お世辞にも騎士というには程遠い。だが、見つめる瞳はあの時のままだ。
クリストフは立ちすくんだままのレオノーラの手を取る。
「……戻ったよ、レオノーラ」
その瞬間、レオノーラの瞳から大粒の涙がこぼれる。
「レオノーラ、泣かないで」
「だって……」
理由は考えるまでもない。彼が無事だったこと。半年ぶりに声が聴けたこと。もっとたくさんある。
だが、それらを言葉にするのはひどく難しい気がした。
レオノーラは目をわずかに伏せる。と、その瞳にたまっていた涙が頬を伝いいくつも流れ落ちる。
クリストフはその涙をぬぐおうとして指を延ばし、そして手を引き戻した。
「クリストフ様?」
視線をあげたレオノーラに、クリストフは少し困ったように眉を寄せた。
「すまない。君の涙をぬぐってあげたいが、私の手は……」
そういってクリストフはのろのろと手を下げようとする。
だが、レオノーラは掴まれている手と逆のそれで彼の手をつかみ、そして頬に寄せる。
瞬間、クリストフの瞳が大きく見開かれた。
「レオノーラ」
「……無事でよかった」
レオノーラのささやきに、クリストフはわずかに顔をしかめ。それからすぐに笑みを浮かべた。
王都に戻ってきたクリストフはそれからしばらくしたのち、正式に騎士になった。