七話
「……え、刺しゅう、ですか?」
思わず目をむくレオノーラに、母は笑みを浮かべる。
「ええ、そうよ。次の手紙と一緒に刺繍入りのハンカチを贈りなさい。それがいいわ」
「……はあ」
嫌だと言い出せる雰囲気ではなかった。
レオノーラは母の有無を言わせぬ物言いに、ただただ力なくうなずく。
だが、刺しゅうといっても正直な話、レオノーラの腕前はお世辞にも良いとはいいがたいものだった。
母に言われて一応は習っているものの、まるで進歩がない。要するに不器用なのだ。
教えてくれる侍女たちにはずいぶん前に匙をなげられているなど、どうしているだろう。
だからといって、やらないなどといったら母の逆鱗に触れることは目に見えている。
「……レオノーラ様?」
無意識にため息をついていたのだろう。部屋へと向かう途中、レオノーラに声をかけてきたのは長年家に仕えている執事のローレンスだった。
先代から仕えてくれていることもあって、父も母も彼には一目置いている。
レオノーラとしてもすでになくなった祖父のようにおもっていた。
心配そうに見つめる彼に、レオノーラは慌ててかぶりを振る。
「ああ、なんでもないわ。ごめんなさい、こんなところで立ち止まってしまって」
「いいえ」
ローレンスは首を振る。深いしわが刻まれた目じりを緩め、ローレンスは心配そうにレオノーラを見つめた。
「何かご心配なことでも?」
「心配というか……、お母さまのことでちょっとね」
肩をすくめるレオノーラに、ローレンスはああ、と小さくつぶやいた。
「奥方様が何かおっしゃっておいででしたか?」
「ええ、たっぷりね」
レオノーラは肩をすくめる。
「アルガン伯の話を聞いたせいね。お母さまったらクリストフ様に手紙と一緒にハンカチを贈れっていうのよ」
「ハンカチ、ですか?」
ハンカチなんて婚約者への贈り物としてはあまりに地味で当たり前すぎると思ったのだろう。怪訝そうな執事にレオノーラは小さく笑って見せた。
「ただのハンカチじゃないわよ。今、流行りの刺繍入りのハンカチですって」
「ああ」
執事はようやく合点がいったようにうなずく。
名前や特別な紋様の刺繍が施されたハンカチは王都でずいぶん流行っているのを何度か聞いたのだろう。
紋様の組み合わせでいろいろなメッセージや意味合いを持たせるというところが、若い娘たちの興味を引いているのだろう。
古今東西、恋人同士だけに伝わる秘密の暗号というものはたいそう興味をひくものらしい。
「よろしいのではありませんか? 良い店をいくつか調べておきましょうか? ああ、そういえば奥方様が贔屓にされている仕立て屋など」
「ローレンス、違うわ」
「え?」
首をかしげる執事に、レオノーラは眉を顰める。
「お母さまのことよ? 仕立て屋のハンカチでいいわけないでしょう?」
「え? では……」
ローレンスの顔が一瞬にして曇る。
「まさか」
「……そうよ、そのまさか」
レオノーラは大きく頷いて見せる。
その瞬間、執事の顔が激しくこわばる。まるでお家の一大事とでもいうような表情だ。
大げさな、と一瞬おもったものの、レオノーラは自分の刺繍の腕前を顧みると大げさでもないことはすぐにわかった。
もちろん、前世ではごくごく普通に学業を修めているのだから通り一遍のこと。例えば雑巾を縫うとか、ぎりぎり巾着を縫うとかまではできた。
だが、それ以上のこと――この場合は細やかな刺繍などとなると、まったくもってお話にならない出来栄えなのだ。
特にレオノーラの母の言う「刺繍入りのハンカチ」であるが、これが素人にはハードルの高い代物なのだ。
名前まではいい。飾り文字までならレオノーラでもぎりぎりなんとか――出来栄えばともかくとして――なりそうな気はするが、様々な意味あいを持たせた図柄。
例えば永遠の愛を意味する蔦の絡まる花とか、仲睦まじいようすをあらわした対の鳥などは、レオノーラからしてみたら逆立ちしたってできそうもない代物であった。
そもそもレオノーラは絵心がない上に、不器用なのだ。
だからこそ、彼女を知る人物であれば、とてもではないが無理難題だとわかる。
だが、レオノーラの母はあえてそれをやれというのだ。
「……奥方様はお嬢様をかっていらっしゃるから」
フォローのつもりだろうか。おずおずという執事に、レオノーラは鼻で笑う。
「何にも知らないの間違いでしょ」
この世界における貴族の子育てというものは、母親が世話することはほとんどない。
侍女や執事。幼いころならば乳母が日中ほとんどの世話を行っている。
だからこそ、母親が娘であるレオノーラの刺繍の腕前のような些末なことを知らなくても当然といえば当然なのだ。だが
「……でも、私が作ったものを贈ったら、かえって婚約を破棄されるかも」
貴族の娘に求められるのは、頑丈な雑巾が縫えることではない。
美しい刺繍をさせることのほうが十倍も百倍も評価されるのだ。
「お嬢様、そのようなことはありませんよ」
やれやれというようにため息を落とすレオノーラに、執事は優しくほほ笑みかける。
「どのようなものでもお嬢様が一生懸命に作られたものであれば、お相手の方にちゃんと伝わるものですよ」
「そうかしら……?」
レオノーラはつぶやく。
クリストフからしてみたら、うまいこと婚約から逃れられるチャンスになるのかもしれない。そうして自由になって彼が幸せになれるのだとしたら、自分の刺繍だって少しは報われるのかもしれない。
そんなことを思いながら、レオノーラは言われるがままハンカチに刺繍を刺した。
執事や侍女たちと共に簡単かつそれなりの意味合いが通りつつ、それなりの見栄えがする図案を選び、刺しゅうが得意な侍女に教えてもらいながらなんとか作りあげた。
しかし、やはりというべきか。
出来栄えは予想の範疇を超えるものではなかった。
レオノーラとしてはやり終えたという充実感でいっぱいではあったが、母からみたらとてもではないが合格点には至らないものだということは想像できた。
とにかく母親に見つかる前にと、レオノーラはまたしても真っ当な手紙と一緒に辺境地にいるであろうクリストフにハンカチを贈ったのだった。
こんな代物では、婚約破棄されたところで文句も言えないだろう。
レオノーラはひっそりと覚悟を決めていたが、結果は予想外のものだった。