五話
「ど、どうなさったのですか?」
「突然すまない。連絡をしようかとおもったのだが」
そういいながらにこやかに笑みをたたえるクリストフに、侍女たちが戸惑うように視線を交わす。
彼女たちが落ち着かないの無理はない。
この家には今、両親がいないのだ。
レオノーラの父は城へ出かけてしまっているし、母はというと友人の家に茶会に呼ばれていて残っているのはレオノーラただ一人。
その肝心のレオノーラだって、女主を代行できるような器量があるわけでもない。
何しろデビューしたての小娘なのだ。
おろおろする彼女に助け船を出したのは、長年家に仕えている執事だった。
「レオノーラ様。ここで立ち話というのもなんですし、サンルームにご案内してはいかがでしょう」
「ああ! そうね!」
レオノーラはぽんと手をたたき、そしてクリストフに笑いかける。
「クリストフ様、サンルームにご案内いたしますわ」
「ありがとう」
クリストフはくすくすと笑いながら、執事に上着を渡すとレオノーラに促されサンルームへとむかった。
レオノーラの家のサンルームは母自慢の場所ともあって、そこから見える景色はとても美しい。だが、それとてクリストフの家の庭にはくらべるまでもないが。
クリストフに椅子をすすめ、レオノーラは向かいに座る。
そこではた、と気が付く。
「……あ! お茶! お菓子とか!!」
客が来たというのにテーブルはがらんとしたまま。
慌てて立ち上がろうとするレオノーラを、侍女たちが慌てて押しとどめる。
「お嬢様! 今、ご用意しておりますので!」
「そ、そう? ありがとう」
再び腰を下ろすレオノーラは、頬が赤くなるのを止められなかった。
お粗末すぎる。
母が聞いたら叱責ものだ。
年ごろの娘であれば、咄嗟の来客をもてなすぐらいできて当たり前。何しろ、いつ結婚という話になるかわからず、結婚をすれば女主人として屋敷を切り盛りできなくてはならない。
それはレオノーラだって同じはずだった。
しかし、レオノーラにはそういった器量はほとんどなかった。前世の記憶があったところで、何の役にもたたない。ゲームのストーリーを知っていても、だ。
しょんぼりとうつむくレオノーラの耳に、クリストフの小さな笑い声が聞こえてきた。
そろりと視線をあげると、彼女を見つめるクリストフのやわらかな視線とぶつかった。
「ああ、すまない。今日、突然来たのには訳があってね」
そういいながら、クリストフは懐から何やら取り出しテーブルの上に置く。
それを見つめたレオノーラはぎょっと目を見開き、顔をみるみる赤く染めた。
「く、クリストフ様! そ、それは!!」
礼儀もかなぐりすて、レオノーラは咄嗟にその手紙へと手を延ばす。
だが、彼女の指が手紙に触れる直前、それは引き戻された。ぱっと視線をあげるレオノーラにクリストフはくすくすと笑いながら引き戻した手紙をひらひらと揺らす。
「これは僕のものですよ?」
「か、返していただけませんか?」
「なぜ?」
首をかしげる彼に、レオノーラは唇をかむ。
思わず筆が乗ってしまい一気に書き上げたものの、どうして読み返さなかったのかつくづく悔やまれる。あれはまるで
「……情熱的な手紙だったというのに」
クリストフがおかしそうに笑いながらつぶやく横で、レオノーラは苦虫をかみしめたような顔をする。
物は言いようだ。あれを情熱的といったクリストフは思いやりがあるというべきか、それとも度量が広いというべきか。
どちらにしても、全キャラクターの当て馬をやすやすとこなした男だ。
レオノーラのあの、前世での思いを詰め込んだ「真夜中の恋文」ぐらいでは驚くこともないだろう。だが
「……あれは、ええと、……、筆が滑ったと申しますか」
「筆が滑った」
クリストフはますますおかしそうに笑う。
「では、あれはつい書いてしまったものだと?」
「つい、といいますか……」
まさか前世での思いをぶつけてしまったともいえず。
口ごもるレオノーラに、クリストフは笑みを瞳に残したまま小さくため息を落とす。
「勢いとは残念です。あのような情熱的なお手紙をいただいたことがうれしくて、いてもたってもいられず」
軽く目を伏せるクリストフの横顔に、サンルームに差し込む陽光が照らす。
それはかつて見たスチルのどれよりも美しく、レオノーラには見えた。
「直接、貴女に会って私の口からこの手紙の返事をしたくて、失礼とは思ったのですがこちらに伺ったわけです」
「……まあ」
思わず口をあけたレオノーラの背後で、戸口にたたずむ侍女たちのうっとりとしたため息が聞こえる。
おそらく彼女たちの頬は庭先で咲き誇る大輪の花のように染まっていることだろう。
当たり前か。クリストフのような端正な顔立ちの男性から甘い言葉を囁かれば誰だって冷静でいられるわけがない。
だが――彼のやわらかくほほ笑む唇の端が小さく震えているのに、レオノーラは気が付いてしまった。
ああ、そうかとレオノーラは思う。口ではうまいことをいっているが、なんてことはない。彼はただ、面白がっているだけなのだと。
思わず頬を膨らませ、レオノーラは視線を逸らす。
「……面白かったですか?」
「え?」
首をわずかにかしげるクリストフに、レオノーラはきっと振り返る。
「あのような手紙、さぞ迷惑でしたでしょう? き、気持ち悪いですよね!」
「レオノーラ?」
クリストフが慌てたように腰を浮かせる。
だが、それでも一度たかが外れたレオノーラの言葉は止まらない。
「で、でも、ずっと前から思っていたんです! でも、会えるなんて思ってもいなかったから、ずっとあきらめていて……、だから、こんなチャンスは二度とないって思ったらつい、筆が止まらなくて。でも」
レオノーラは目を伏せ、膝の上においた手を固く握りしめる。
「でも、あんなことしなければよかった! 出さなければよかっ」
「レオノーラ」
耳もとに聞こえるクリストフの言葉に、レオノーラははっとする。
そろりと横を向くと、いつの間に移動したのだろうか。
レオノーラの隣にクリストフが腰を下ろし、硬く握りしめた彼女の手を優しく包み込んでいた。
どうして手を握っているのか。いや、そもそもどうして隣に座っているのか。
ぽかんとする彼女に、クリストフは優しくほほ笑む。
「からかったように見えたなら謝ります。ですが、嬉しかったのは僕の本心です」
「うれしい?」
あれが?
あの手紙が?
レオノーラは眉を顰める。
あの手紙は、冷静に考えればドン引きするような内容だった。何しろ、前世で最も好きだったキャラクターへの思いをぶつけたような内容だったからだ。
その相手は確かにクリストフだ。
だが、当のクリストフとしてはいくら親同士が知り合いとはいえ、あの場が初対面だったはず。それなのにまるでずっと前から知っているような内容だ。
気持ち悪いことこの上ないではないか。
それをどうしてうれしいとなるのか。
怪訝そうに見つめるレオノーラに気が付いたのだろう。
クリストフが少しバツの悪そうな顔をした。
「……最初はおどろきましたよ。初めて出会ったはずなのに、君はまるで長いこと付き合った友人のようだった」
長いこと付き合った友人とはクリストフ入っているが、友人だってあんな文章を書かないのは、レオノーラだってわかっている。
「……気持ち悪いですよね」
「そういう意味じゃないよ、レオノーラ」
クリストフは握っていた彼女の手にわずかに力を籠める。
「本当に、うれしかったんだよ。君が僕のことをあれほど強く思ってくれたことに」
「え? うれしかった?」
「ああ」
クリストフは静かに頷く。
「僕たちの結婚は政略的な意味合いが強いことはよくわかっている。だけど、あの手紙を読んで思ったんだ。君とはそれだけではない。もっと違った関係になれると」
「違う、関係」
ぽつりとつぶやくレオノーラに、クリストフが静かに頷く。
「ああ、義務だけで結婚するのではない。もっとちゃんと心を寄せ合い、向き合っていけるんじゃないかって」
「クリストフ様……」
レオノーラは目をこれでもかと見開き、クリストフを見つめる。
彼もわかっているのだ。
この結婚が決して甘いふわふわとした砂糖菓子のようなものではないことが。
お互い、背負うものがあるが故の結婚だ。だが、クリストフはそこに義務だけではない。違ったものを見出そうとしてくれているのだ。
「……あの、それでは」
「君があれほどまでに僕のことを思ってくれているならば、僕も同じぐらい君を大切にしたい」
クリストフは握りしめたレオノーラの手を、ゆっくりと自分の口元へと運ぶ。
そしてレオノーラの指先にかすかに、触れるだけの口づけを落とした。
きっと前世の記憶がなかったならば、クリストフの言葉や口づけに純粋に胸を躍らせていたことだろう。だが、今のレオノーラは違う。
彼の言っていることの意味が、わかってしまったのだ。
――クララ、僕には決められた婚約者がいる。君を思う気持ちは本当だ。だが、僕は家を裏切れない。
レオノーラの脳裏に、クリストフの言葉がよみがえる。
それは、ゲームの中でのクリストフのセリフの一つだ。
彼はどのルートでも決してヒロインであるクララとは結ばれない。
ヒロインに好きな相手がいることも大きい。が、クリストフを選ぶという選択肢がそもそも存在しない。
ゲームのわき役だからといってしまえばそれまでだが、今の彼を見ると理由はそれだけではないことがわかる。
おそらく彼の生真面目さ。誠実さのせいだ。
どれほどクララを思ったとしても、彼は一度交わしたレオノーラとの婚約を踏みにじるような不誠実なことはできなかったのだ。
――ああ、どうしよう
せっかく、クリストフを幸せにしようと思ったというのに。まさか、こんなことが後々彼の行動を縛る原因になるなんて。
だからといって今更婚約を破棄なんてできない。
レオノーラが茫然と彼を見つめていたその時だ。
「失礼いたします」
軽い咳払いと共に、執事が現れた。
ちらと向けた視線の先にはクリストフに握りしめられた手がある。執事は一瞬、眉間にしわを寄せたが、すぐさまそれを押し隠し笑みを浮かべる。
「お茶をお持ちいたしました」
「あ、ありがとう」
慌てて手を離すレオノーラの横にきた執事は、にこにこと笑みをうかべたままクリストフを見つめる。
もの言いたげな視線に、クリストフは軽く首をすくめる。
「わかっているよ。僕もロワリエ伯ににらまれたくはない」
「結構でございます」
執事は満足げに頷くと、カップをクリストフとレオノーラの前に置いた。
そして彼が出てくのを待って、クリストフは小さく息を吐いた。
「……やれやれ、ただ挨拶に来るだけのつもりだったんだけどな」
「まあ」
思わず失敗してしまったというようなそぶりを見せるクリストフに、レオノーラは思わず吹き出す。すると彼は小さく笑みを浮かべた。
「本当だよ。君の家の方にはいい印象を持ってもらうつもりだったんだよ」
「大丈夫です。みんな、クリストフ様のことは信頼しております」
「信頼……、ね」
クリストフは肩をすくめる。
「そういわれると逆に複雑な気持ちになるな」
苦笑いを浮かべ、クリストフはカップを持つ。
そして美しいしぐさで一口茶を飲んだ。そしてカップをソーサーに戻しながら、彼はふいに何か思い出したように「ああ、そうだ」とつぶやいた。
「手紙のお礼のほかにもう一つ、君に伝えたいことがあったんだ」
「まあ、なんですか?」
菓子を手にとったまま首をかしげるレオノーラに、クリストフは先ほどまで浮かべていた笑みを曇らせる。
「僕が騎士見習いだということは知っているよね?」
レオノーラはうなずく。
「ええ。母から聞いております」
「なら話が早い。僕は近々王都を離れる」
「え?」
目を丸くするレオノーラの手から焼き菓子が零れ落ちる。
「王都を離れる? どうしてですの?」
顔をこわばらせるレオノーラにクリストフはなだめるような笑みを向ける。
「僕も一応、見習いとはいえ騎士だからね。命令されたら断ることはできない。行き先は辺境にある砦だ」
「辺境……」
昔、隣国とは長らく戦がつづいていたという。とはいえ、ずいぶん前に停戦が交わされ、かつてほどの緊張関係はない。
だが、それでも未だに国境でのいざこざは減らない。治安維持という名目で、王都からは定期的に騎士が派遣されている。そのことは、レオノーラも一応知っていた。
だが、そのことにクリストフがかかわるなんて、夢にも思っていなかった。
レオノーラは空になった手を握り締める。
「……国境は争いが絶えないと聞きます」
「まあ、王都よりは、ね」
クリストフの言葉に、レオノーラはひゅっと息をのむ。
この世界が決してただの甘い、ゲームの世界ではないことが改めて感じられたのだ。
前世よりも治安は決していいわけではない。戦いという出来事はすぐ近くにあり、この世界においてはそれが日常なのだ。
レオノーラは声が震えそうになるのを必死でこらえる。
「いつまでそちらに?」
「1年かな」
「1年……」
それが長いのか短いのか、レオノーラには皆目見当がつかなかった。
だが、彼がここを離れしばらく会えないことだけはわかった。
「あの……」
レオノーラはおずおずと口を開く。
「また、手紙を書いてよろしいでしょうか?」
「手紙?」
わずかな驚愕と、そして笑みを含んだようなクリストフの声に、レオノーラは慌てて言葉を続ける。
「も、もちろんあのような、礼儀知らずな手紙は書きません! もっとまともな……、普通の手紙を書きます。ですから」
「ありがとう、レオノーラ」
クリストフはにこやかにほほ笑む。
「君からの手紙ならば、どのようなものでも嬉しいよ」
「クリストフ様」
「ああ、もちろん」
クリストフの唇に笑みがふっと浮かぶ。
「僕としては、この間のような手紙のほうがうれしいのですが」
「……っ!」
目を丸くするレオノーラに、クリストフはくすくすと笑った。
それからクリストフは茶を飲みほし、家を後にした。レオノーラに、もう一度会いに来ると残して。
それから数日後、レオノーラは母からクリストフが国境へと旅立ったと告げられた。