一話
華やかな音楽を遠くに聞きながら、バルコニーで一人たたずむ少女は小さく息を吐く。
足元には窓からこぼれる光が差し込み、当たりを包み込むような闇を払う。
見上げた頭上には砕いたガラスのような小さな光が散らばる。
窓を挟んだ向こうにでは軽やかな音楽、そしてにぎやかな人の声であふれているというのに、少女の周りはまるで別の世界のようだ。
かすかに聞こえてくる音楽すら寂しさをより一層引き立たせる。
そこに重なるように聞こえる吹き抜ける夜風に揺れる木々のざわめき。
それ以外は何も聞こえない。
――聖なる乙女
遥か昔、この世界に遣わされたという女神の代理人。
授けられた聖なる力で、人々を救うという聖女。それがどうして自分なのだろうか。
少女は再び息を吐き、そして目をつむった。と、その時だ。
「ああ、こちらにいらっしゃったのですね」
ふいに聞こえた声に、少女は振り返る。と、あらわれたの、少女が会いたい人――ではなかった。
内心の落胆をごまかすように、少女は笑みを浮かべる。
「なあんだ」
「なんだ、じゃありませんよ。随分探しましたよ」
「ごめん」
謝っているようには到底思えないような軽い言葉に、男は苦笑いを浮かべる。
「前も申し上げたはずですが」
「え? なんかいったっけ?」
えへへ、と笑う少女に、男はゆっくりと近づく。
「あなたはたった一人の大切な方です。どこかに行くなら、一言おっしゃっていたきたいと」
「えー、そうだっけ?」
少女はくくっと笑い、それから小さく息を吐く。
「……ちょっと、一人になりたくてさぁ」
「……何かありましたか?」
すっと笑みを消し、静かに見つめる男に、少女は慌ててかぶりを振る。
「なんでもないよ! ただ……」
「……ただ?」
少女は視線を足元に落とす。
「ただ、ちょっとばかりつかれちゃっただけ」
そう。ただ疲れただけだ。
自分には不釣り合いだといわれ続けることも。
豪奢な衣装をまとうことも。
華やかな場所でおかしくもないのに笑みを浮かべ続けることも。
そして、聖なる乙女として期待されることも。
と、少女の視界がゆらゆらと揺れた。それはまるで深い深い水の中にいるような景色。少女は慌てて目をしばたかせ、揺れる視界をもとに戻そうとした。
と、その瞬間。ふいに少女の体が引き寄せられる。
「……え」
小さくつぶやいたその声が、男の腕の中に消える。
抱きしめられている、と気が付いたのはずいぶんたってのことだった。
「え、あ……あの」
「……申し訳ありません」
絞り出すような男の声に、少女は目をしばかせる。
と、その瞬間、かろうじて目の際にひっかかっていた小さな雫がころり、と一つ。頬をつたい零れ落ちた。だが、この暗がりではこんな小さな雫。気が付くものなどいないだろう。だが、男はそれに気が付いたかのように、少女を強く抱きしめる。
「……僕が……、あなたの力になれたらいいのに」
ぽつりとつぶやいたその声に、少女は黙り込む。
男の真意を少女は理解していた。だが、返したのは沈黙だけ。それが何よりも雄弁な答えだった。
それでも彼は、彼女を守り続けた。
彼の思いが決して報われたないとわかっていても。
だからこそ、思ったのかもしれない。「……彼を、幸せにしたい」と。
しかし、この「彼」というのが一体どんな人なのか。
友人なのか、それとも恋人なのか。親しい人なのか、はたまた他人なのかもわからない。
そしてあのシーンがなんだったのか。
どこで見たのか。それすらもわからない。
けれどもはっきりしていることが一つだけあった。彼女にとって「彼」は、とても大切な人であったということ。
だからこそ願ったのだろう。
何一つ、届くことのなかった彼の思いが、ほんの僅かでもいい。報われてほしい、と。
だが、どこの誰だかわからない人を幸せにするなんて、しょせんは夢物語。
万が一、わかったとしても人の運命などたやすく変えることなどできるわけがない。
だから、それはただの妄想のはず、だったのに――
――あ、これ。あのゲームのワンシーンだ
レオノーラがそのことに気が付いたのは、一点の曇りもなく晴れ渡ったなんでもないような日のことだった。
もちろん、眼前に広がっている光景が現実離れした突拍子もない景色というわけではない。いや、どちらかといえばありきたりな、どこにでもあるような光景だった。
手入れが行き届いた芝生。寸分の隙もなく整えられた生垣。その向こう側に見えるのは薔薇が絡まった青銅製のアーチ。そして、その奥からだろうか。聞こえてくる水音は噴水からだろう。
所謂、美しく整えられた庭園の一角といえばいいだろうか。
確かにこういったきちんと整えられた庭園というものはそこかしこにあるわけではないが、都心の大きな公園や歴史があるような街とかにならばあるものだ。
そう、問題は場所ではない。
問題は目の前にいる人。
レオノーラは茫然と目の前に座る彼を見つめる。
光の加減だろうか。青みがかった銀色の髪。きらきらと輝くような癖のないやわらかそうな髪から見えるのは、静かな海のようなブルーグレイの瞳。薄く形良い唇に浮かんでいるのはやわらかな笑み。そして
「……あれ?」
レオノーラはわずかに首をかしげる。
記憶の中の彼がまとっている服装はもう少し堅苦しい感じだった。今のような、落ち着いた感じのものとはわずかに違っていたが、見つめる表情は同じ。
「同じ?」
レオノーラはぽつり、とつぶやきながら目をしばたかせる。
おかしい。彼と会うのはこれが初めてのはず。けれども、なぜ違うとか、同じとか思うのだろうか。
「……あの?」
首をかしげる彼に、レオノーラは慌てて笑みを浮かべる。
「ご、ごめんなさい! え、っとなんでしたっけ?」
「いや、大丈夫だよ」
失礼な態度だったにもかかわらず、彼は不愉快そうな態度はこれっぽっちもない。優しく穏やかな笑みをその唇に浮かべ、見つめる視線はどこまでも甘い。
まるでやわらかな春の日差しのようだ。
それを見て、レオノーラは確信する。
――間違いない。ここは私が好きだったゲームの、エターナル・サクリファイスの世界だ
と。
「エターナル・サクリファス」とは、女性向けの恋愛アドベンチャーゲーム。
通称、乙女ゲームと呼ばれているものだ。
このゲームの発売当時、乙女ゲームというジャンルはすでに過渡期を迎えていた。
王道といわれるものは大方出尽くされ、イケメンがただイケメンが甘い言葉を言うだけではユーザーは満足できなくなっていた。
何しろ日々生まれる数多のコンテンツを押しのけ生き残るには、突出した特徴が必要だった。
より目立つもの。
より話題性のとんだものが求められるのはある意味、当然の流れだった。
そんな時代に生まれたのが「エターナル・サクリファイス」通称「エタサク」だ。
エタサクは大手のゲーム会社が潤沢な資金をつぎ込み、有名なイラストレーターや人気声優を使ったものではない。
制作会社は中堅どころで、今まで乙女ゲームなんてものを作ったことのないゲームメーカーだったのだ。
もともと、そのメーカーが作るものはゲーム性もストーリーも難解なものが多く、どちらかというと玄人受けのするものが多かった。
それがどうして乙女ゲームを作ることになったのか。
発表された当時、ネットでは様々な憶測を呼んだ。
大手ゲームメーカーに買収されるのではないかとか、他社の人気ゲームにあやかろうとしたとか。スタッフの中に作りたいという人がいたのか。はたまたただの気まぐれか。
深層が何だとしても、発売されたこのゲームは予想以上の人気を博した。
理由としては制作会社の得意分野である深いストーリー性とゲーム性もさることながら、それ以上に話題に上ったのはとあるキャラクターの――クリストフの存在だった。
「レオノーラ」
かけられた声に、レオノーラははっとする。
と、周囲の視線がこちらにむけられていることに気が付いたレオノーラはとっさに笑みを浮かべた。
「申し訳ございません。あまりに素敵な方だったので、つい」
「レオノーラったら……」
小さくため息をつく母の横で、レオノーラは誤魔化すように笑みを浮かべる。だが、その視線は先ほどから目の前の彼から一度も離れることはない。それも仕方ないことだろう。レオノーラとしてみれば、まったくもって想像すらしていなかった光景が目の前に広がっているのだから。
――やはりあの彼だ
見間違えるはずがない。何しろ、レオノーラが――レオノーラが前世で誰よりも慕っていた相手なのだから。
いや、慕っていたというのは語弊がある。
推しキャラ、といえば一番しっくりくるだろうか。
彼の名前はクリストフ・ルーシュ。
家はレヴィナス地方の領主をしている伯爵家。肩の上で揺れる陽光のような黄金色の髪に、青みがかかった灰色の瞳は、わずかに下がり気味で右側の瞳の端にはまるで涙のようなほくろが一つあるのが特徴だ。
薄く笑みを刻んだ唇は形がよく、鼻梁はすっと取っている。
どこをどう見ても美しいという言葉がぴったりくる容姿。一度みたら、おそらく忘れることはできないだろう。
だが、残念ながらその相手は友人でも、恋人でもなく、ましてや現実の人間でもない。
彼はいわゆる二次元の人物。かの有名なエターナル・サクリファスの登場人物だったのだ。
――でも、まさか、そんなこと……、あるはずがない
レオノーラは心の中で何度も否定する。
だって、そうだろう。
そもそもクリストフはゲームのキャラクターだ。液晶画面の向こうでしか存在しないはずの相手が、どうして目の前にいるのだろうか。
夢か。はたまた幻か。
いや、もしかしたら幻覚かもしれない。
そうレオノーラが思い込もうとしたのだって無理はない。だが――考え込んだレオノーラの耳に、ふいにやわらかな笑い声が飛び込んできた。
「こんなところで話をしていても退屈でしょう」
笑いながらこちらを見つめるのはクリストフの母。現レヴィナス伯爵夫人だった。
下がり気味の瞳や、黄金色の髪などはクリストフによく似ていた。
「クリストフ、お天気も良いし、レオノーラさんにお庭を案内してさしあげてはどうかしら?」
「え?」
伯爵夫人の誘いの真っ先に答えたのは、当のクリストフではなく、なぜかレオノーラだった。思わず出してしまったのだろう。
レオノーラはややあってしまったというように顔をしかめ、しおしおとうなだれた。
その横にいた彼女の母が大仰に、ため息を落とすのはそれと同時のことだった。
「レオノーラったら、もう!」
「え……あのう、……」
まさか、この世界がゲームの中の世界だと気が付いたからだ、なんて言えるはずもなく。
もごもごと口ごもるレオノーラの耳に、くすりと小さな笑みが飛び込んできた。
ちらりと視線をあげると、きょとんとする伯爵夫人の隣。たった今、カップをソーサーに戻したばかりのクリストフが口元に笑みをたたえていた。
やわらかな彼の笑みを横目に、レオノーラの母はちらりと隣に座る娘を見つめる。
だが、当の娘はというと先ほどから淑女らしさなどどこへやら。しょんぼりしているようにみせかけながらも、きょろきょろとあたりを見回している有様だ。
レオノーラの母が再び口を開きかけたところで、クリストフが再びやわらかくほほ笑んだ。
「夫人、レオノーラ様にお見せしたいものがあります。お嬢様をお誘いしてもよろしいでしょうか?」
「……え、ええ、ですが」
レオノーラの母は口ごもる。
それはそうだろう。自分が横にいれば失態も隠しようがあるが、娘一人ではそれもかなわない。
かといって誘われれば断るわけにはいかない。
何しろ相手は、上手く言えば婚約者になるかもしれない相手だ。
問うような母の視線に、レオノーラはひたすら視線を膝へと落とす。
ややあって、母が小さく息を吐き、頷いた。それを見たクリストフが静かに立ち上がった。
「さあ、どうぞ」
差し出された手を、レオノーラは一瞬驚いたように見つめる。
そして次に彼の顔をしげしげと見つめた。
「……レオノーラ!」
母の声に、はっとしたレオノーラは慌てたように立ち上がる。
差し出されていた手も忘れて。
気が付いたのは、立ち上がった後のことだ。
とても失礼なことをしてしまった。
さあと顔を青ざめさせるレオノーラに、クリストフは怒るでもなくひどくおかしそうにくすくすと笑った。
そして茫然とする彼女の手を自分の腕に絡める。
「ご案内いたします、お嬢様」