はじまり
とある中学の一階の隅に「相談室Ⅱ」という古ぼけた看板がぶら下がった教室がある。
そこは不登校になってしまった少年少女がクラス復帰の為に使う教室である―――はずだった。
「佐原です、よろしく」
面倒くさそうに簡潔な自己紹介を吐き捨てると、彼女は目の前に居る四人の少女を見据えて小さくため息を吐いた。
佐原の隣に立つ女教師から見れば、ヤンキー気質で思春期真っ只中の佐原が相談室に居る少女の姿を見て嫌気がさしただけに見えるだろう。
何せ今いるメンバーは、見るからに大人しい。一人だけ九十年代にはよく見た「コギャル」みたいな子はいるが、人の話も聞かずに爪を弄り続けている時点で彼女の癪に障ったのかもしれない。
相談室にいる子は皆、根本が繊細だ。ようやく学校に来れるようになった子達が、また心が折れるような事が無ければいいが……と女教師は心の中で祈りながら佐原を黒板の真ん前の席につかせ、そのまま休み時間のチャイムが鳴る前に相談室を後にした。
相談室は休み時間に入っても終始無音だった。筆箱を探るわけでも、授業の用意をするわけでもなく、ただ全員が授業中でもないのにじっと座って俯いている。
そんな張り詰めた空気の中で口を開いたのは、佐原だった。
「そんなに殺気立つならよォ、相手してやってもいいぜ?」
そう彼女は俯いたまま吐き捨てて、机に足を乗っけると椅子を揺らしながら両隣と両斜め後ろに居る少女らに向けて煽った。
「何が不登校、何が引きこもりだ? クソみてえな茶番だなァ。人殺しの、その中でもド屑の見本市じゃねえか」
ようやくここで「品物が一個増えたね」と斜め後ろに居た童顔の少女がクスクスと笑いながら呟いた。
その子猫のような爛々とした目に苛立ちを感じた佐原は先程よりも強く舌打ちをすると「アンタが先鋒か?」と眉間に深くシワを寄せて問いかけた。
「やだ、やらないよぉ。殺気立ってんのはそっちじゃーん」
「かもな、これだけの状況じゃ滾りはするさ。……それよりアンタ、タイの色間違えてねぇ?」
「は?」
「紺って三年だろ? 一年は白だぜ」
佐原の言葉を聞いて、彼女はワナワナと肩を震わせながら立ち上がった。
明らかな佐原の挑発に彼女が乗りつつあるのに気づいたのか、座って佐原を横目で見ていた他メンツが慌てて彼女に声をかけようとしたが、遅かった。
「コイツ!!年下のくせにっ!!!!」
その激昂を聞いて佐原は「かかった」と言わんばかりに一度笑みを浮かべるとそのまま揺らしていた椅子から身体を離し、机の上で身体を翻しながら胸元にある銃を取り出そうとした。
が、確かに椅子から腰が離れ、机に右手を置いて全体重をかけ前転をしようとしたその刹那。
まるで軽トラックに跳ねられたかのような衝撃を受け、佐原の身体は黒板に叩きつけられた。
突然背中に襲ってきた痛みに顔を歪めることもなく、黒板から身体が離れ少しだけ埃が落ちている床に着地する刹那も佐原はしっかりと敵対心むき出しにしている彼女の姿を捉えた。
「捺を馬鹿するなっ……捺は、捺は強いんだ……!」
まるでうわ言のように呟きながら口の端から威嚇するように荒い息を漏らす、捺、と言った彼女は一歩も動いていなかった。
(初っ端から本気かよ……つーか『ソレ』って隠すべきなんじゃねえのか)
見た目に反してなかなか凶暴な猫だ。
銃なんかで戦えるか……とほんの一秒にも満たない佐原の迷いを捺のそばに駆け寄ろうとしていた同じく紺色のタイをつけた少女は見逃さなかった。
佐原の視界の隅で、彼女が手を伸ばした姿が見えた。まずい、と佐原が視界の中心を捺から彼女に動かした瞬間、目の前が突然眩しくなり思わず目を腕で覆った。だがその閃光は目を塞いでも消えずに視界に留まり続け、視界を真っ白に染めあげる。
佐原は奪われた視界の中で胸元をまさぐり銃を取り出すが、その腕も捻られて呆気なく手からこぼれ落ちた。
「クソッ!」 と吐くが誰も答えることはなく、そのまま手錠をつけられ佐原は放置され、ただ教室の隅で小さく「落ち着いて」だとか「大丈夫」などといった励ます声が聞こえ続けて十分が経過した。眩しさは微弱になったものの視界が奪われたままの佐原は完全に殺意が失せていた。
(くっそ、何だこれ。マジでガキの馴れ合いじゃねえか)
自分もまだ中一のガキだという事は棚に上げて不貞腐れていた佐原にようやくつけられていた手錠を外され、視界も少しずつ戻ってきた。
まだぼやけた視界の中で佐原は目を擦りながら立ち上がると、目の前には捺とそれを取り囲む女子全員が居た。
「謝って」
「は?」
「傷ついた、謝って」
明らかに目を赤くさせている捺は佐原に詰め寄った。
「謝って」
「……お前、頭大丈夫か? 殺し屋が何言ってんだよ」
「ここでは普通の女子中学生なの!」
全く理解できない佐原に「まあまあ、悪いこと言ったならちゃんと謝らないと、ね?」とコギャルが佐原の肩に長い爪を乗せると、そのまま耳打ちした。
「なっちゃん泣くと大変なのよ、アタシらもアンタも一向に話進まなくなっちゃうの」
「放っておけばいいじゃん」
「ここではそうもいかないの。適当でいいから」
ね、と優しく微笑む割に佐原の背中には硬いものが押し付けられてた。
床に転がったはずの佐原の銃はいつの間にかない。
「怖い先輩ッスね」
「私はまだ優しいよ。ほら、早く」
今日三度目の舌打ちを仕掛けたが、それだけで目の前の捺が機嫌を損ねそうだったので佐原は渋々諦めて「すいませんっした」と蚊の鳴くような声で呟いた。
だがその態度も気に入らない捺は「もっと大きな声で」と迫った。
「すいませんでしたァ」
「もっと!」
「はいはい! 申し訳ございませんでした!」
捺に言われるがまま勢いよく頭を下げた佐原は、そのまま足元にある『何か』を掴むと勢いよく腕を振りかぶった腕を捺に振り下ろした。
だが、捺から一歩離れていた少女が佐原のその大振りの腕の中にサッと潜りその手首を弾くと、そのまま黒髪を揺らしてナイフを持った手を佐原に突き出してきた。
まるで舞踊のように鮮やかに、そして俊敏な動きに呼応するように佐原もその手の中にあった『何か』をそのまま手放すとナイフを避けながら少女の手首を掴み、少女の肘を曲げてはいけない方向へ曲げながら、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「よォ吉永……テメェも学生ごっこか?」
「アンタと同じクチよ。それより私の腕なんて折ったら分かってるわよね」
「分かってるさお姫様。アンタらの兵隊なんざ、返り討ちにしてやるがな」
互いに睨み合いながら次の一手のタイミングを伺っていたその時「止めなさ〜い!」とすっかり放置されていた捺が叫んだ。
「はいはい離れて! 喧嘩はダメ!」
明らかに殺意が飛び交っていた二人の間を捺は遠慮なく割って入り、吉永の腕を握っていた佐原の腕を強引に引き剥がした。その力は捺の小さな体から出ているとは思えないほど強く、思わず佐原は「痛ってえ!」と叫ぶが捺は何故か逆にドヤ顔で「先輩をバカにした罰です」と腕を組みながら言った。
そしていよいよこの空気感にバカバカしくなりつつある佐原に捺は人差し指で勢いよく指さすと 「ちょっと佐原ちゃんは先輩を敬う気持ちが足りなさすぎる!」と唐突に宣言した。
「敬うだぁ?」
「ここはただの中学! そして私は先輩! という事で今日から佐原ちゃんは私のことを捺先輩と呼びなさい」
「は?」
「敬語、先輩呼びは中学では必須でしょ?」
「いやすいません、年功序列が大嫌いなんで嫌です」
「ダメ! じゃなきゃ同盟には入れません!」
同盟。
その言葉に佐原の苦笑いが一瞬で消えた。
その同盟のために佐原は普段一切行くことのなかった学校に足を運び、教師との面倒な話を進めてようやく相談室に通う事になったのだ。
「あー……アンタを先輩呼びしなきゃ、同盟の話すら聞けねぇってことか」
「そういう事」
「……苗字じゃダメ?」
「捺先輩一択」
頭沸いてるんじゃねーのか、と頭の中で佐原が呟いた時「あのー」とコギャルが声をかけた。
「それより、これ先に何とかしてくれない?」
彼女は苦笑いを浮かべながら、銃を持った自分の手に巻き付くヘドロのような『黒い物体』 を突っついた。
「あ、忘れてた」と悪びれもなく言った佐原が指を一つ鳴らすと、それは佐原の影の中に溶ける。
「えーっ!? 何それ凄い!? どうなってんの!?」
そうはしゃぎながら佐原の胸元に飛び込んできた捺は明らかに目が子猫が玩具を見つけた時のように輝いていた。
「好かれたわね」と言った吉永の嘲笑をかき消すようにチャイムが鳴った。
いつになったら話が進むんだ、と佐原は肩を落としたが、彼女はまだ知らない。
この出会いが彼女の、いや彼女らのとんでもない青春の一歩目すらまだ踏み出していないことを。