4.千春(下)
春香の心が入った千春の身体が、非常階段から落ちてくる。
道路から見上げているわたしは、ただ叫ぶことしかできない。
「いやあぁ! 春香ぁ!」
――そのあとは、何がどうなったのか解らなくて。
気が付けば、私は黒と紫が渦巻く不思議な空間にいた。
ここには、昨日も来た。――アイツに会った。
「悪魔ぁ! 話が違うじゃない!」
わたしの怒鳴り声が、反響してわんわんと自分にも返ってくる。
やがてその声は上の方に吸い込まれて、どこからともなく黒いローブを来た男が現れた。
……いや、本当のところは男かどうかも分からない。ただ、背がヌボッと高くてガタイが良くて、声がとても低かったから。
「契約は、完璧だ」
「どこが!? だって、春香……春香が!」
そう、そうだ。
春香は病院に運び込まれた。……けれど、脳挫傷、だって。昏睡状態だ。もう二度と、目を覚まさないかもしれない。
「対価を支払ってもらおう。寿命十年分……」
「だから! 話が違うでしょ!」
「何を言っている。もう忘れたか?」
黒いローブから長い爪をした毛むくじゃらの指が現れた。親指と中指が重なり合い、パチン!と甲高い音が鳴る。
* * *
黒と紫が渦巻く空間。黒いローブの男と制服姿のわたしがいる。
『はぁ、悪魔~?』
『我は偉大なる侯爵サヴノック様の使い魔。娘、望みを言え』
『魂を獲られるんでしょ。嫌よ』
『サヴノック様が気まぐれでお前を選んだ。寿命十年分でいい』
『……』
『それならいいかも、と考えたか。承諾したものとみなす』
『言ってないのに……』
わたしの呟きは、軽く無視された。ローブの男が毛むくじゃらの両腕を出し、天に掲げる。
『お前には望みがあるだろう? 喉から手が出るほど欲する――されど、決して叶えられはしない望みが』
男の声が空を舞い上がり……一本の黒い槍となって、わたしの胸を貫く。
自分の心臓が抉り出されるような気味悪さと、溜まった膿がかきだされるような心地よさを感じて……。
一瞬、グラリとしたわたしの口をついて出た言葉は。
『春香を……誰にも渡したくない』
* * *
翌朝、春香に起こされたら、わたしは春香になっていた。
寿命十年分じゃねぇ。一時だけ春香の身体を自分の物にするぐらいしかできないわよねー。
……そんな風に思ってたんだけど。
「“春香のすべてを自分のものに”」
悪魔の声がビッビッというノイズとともにわたしの耳に届く。
「そう願ったのは、間違いなくお前だ」
「なってないじゃない……」
「春香の身体を手に入れた。そして春香の心は、お前の身体の中に閉じ込められている。――すべては、お前の物になった」
「……!」
とんでもないことを言われ、目の前で火花が散った。
頭がグラングランする。
「じゃあ、春香はもう……!」
「その通りだ。永遠に、お前のもの」
「こんなの違う! これじゃ春香は、死んだも同然……!」
「気に入らぬか。……元に戻すことならできるぞ?」
「元に……?」
春香の身体に、春香の心を。
千春の身体に、千春の心を。
まるで詩を朗読するかのように、ローブの男が節をつけつつ吟じる。
「そうなれば、眠りにつくのはお前。春香の身体と心は自由になり……お前の物にはならない」
「……!」
ククク、という耳障りな笑い声が脳内に響き渡る。
「娘。――さぁ、どうする?」
わたし達を、元に戻してもらうか。
わたしが、春香として生きるのか。
どちらの選択を選んでも、真っ暗な未来しか見えない。
昨日、わたしが使い魔の誘いに乗った時から――決まっていた。
だけど……。