九 臨時水夫トルルの戦い ④
マエルの死体を埋葬して二日後に、いよいよ大潮の日がやってきた。浜に打ち上げられた丸太を二本、深く地面に突き刺して、そこに太いロープを渡して、全員で船を左右から海の方に引っ張り出す。
半ば浮力で浮き上がった船体は少しづつ移動して大きな波が引いたときに時に完全に浜から離れた。そこで、船を固定して、一日半をかけて荷を船に運び込んだ。
名も知らないドムエノーデ(ファロー)諸島の無人島を離れた”ジャジーネ号”は、損傷した船体を完全とはいかないまでも補修するために、一旦、小規模とはいえ港のあるサデバデ(シェトランド)諸島までもどすことにした。
南に進路を取った”ジャジーネ号”は三日で、サデバデ(シェトランド)諸島の、タンピコーネルという小さな港についた。
ここで、本格的な修理をするために、再び荷を一旦陸揚げしてから、船を港の近くある船舶補修用の設備のある浜に揚げた。
損傷は一部分なので修理は、五日で終了した。ただ、荷の揚げて再び、積み込む作業をしたので、タンピコーネルには十二日も停泊するはめになった。
この間も、”ジャジーネ号”に乗った女達のリーダー格は、商売をさせろとフレドリド船長に、やかましく言った。
フレドリド船長は、”ジャジーネ号”の船内では断固としてそのような行為は認めなかったので、リーダー格の女は、港に一軒だけあった女郎屋に自分で話をつけて船が停泊している間だけ臨時で、自分達を雇わせた。
トルルは、マエルの件があって幾ばくもたたないのにと思っていたが、リーダー格の女に言わせれば、若くて稼げる間に稼がないといけないので時間は無駄にしたくないということだった。
補修が終わり、ようやく本来の安全性を取り戻した”ジャジーネ号”は、再び、北に進む。
暦は五月の半ばになったが、風は耳が千切れるほど冷たく、海が少し荒れて甲板に水しぶきがかかるような状態で操船作業をするのは地獄の責め苦のようだった。
ドムエノーデ(ファロー)諸島の無人島で座礁するという災悪に見舞われた”ジャジーネ号”は、さらに運がなかった。
船の修理をしたタンピコネールを出港してから八日目の朝、そろそろ進路を西に向けようかという頃である。いつまでたっても、巫術師のギガムスレントが部屋から出てこないのでフレドリド船長自ら部屋の戸を開けた。
ギガムスレントはベッドで冷たくなっていた。顔はやや苦悶の表情があった。現代の医者なら急性心不全とでも診断したであろう。
ヘロタイニア地域の知識では単なる突然死である。
水夫達の間では、年甲斐もなく調子にのるからだと言う声ばかりで同情するような雰囲気ではなかった。
ギガムスレントは、ドムエノーデ(ファロー)諸島の無人島で、フレドリド船長が女達に商売をすることを許可すると毎日のように女を抱いた。そして、酒を飲み日に二度、女を抱くこともあった。
ギガムスレントは船の幹部船員待遇なのでリーダー格の女が対応することになっていたが、それでは、飽き足らないのかマエルを含む水夫担当の女も味見をしていた。
船が海に出たので、船長は女達に商売を切り上げることを命じた。しかし、ギガムスレントは、フレドリド船長に隠れて毎夜のように女を船室に呼び込んでいた。
狭い船内のことであるので、たちまち水夫に知られたが、巫術師が機嫌を悪くすると自分達も困るので誰もフレドリド船長に注進する者はいなかった。
かなりの年齢でありながら房事過多で、寒風の中、一日数時間表に出て体力を消耗する巫術を行えば自殺行為に等しい。
フレドリド船長は、少し困った顔をしたが、水夫達が動揺しないようにできるだけ冷静に水葬を行うことを命じた。
すぐに、ギガムスレントの死体は布で巻かれて、フレドリド船長が弔いの祈りを唱えるなか海に投げ込まれた。
風向は北からの風が大半なので、”ジャジーネ号”は、苦労しながら西への進路を保った。
”ジャジーネ号”が西に向かって半日航行したところで、風向きが変わった。季節の変化を告げる南風が吹き出したのだ。
これは、西へ向かいさらに南に進路を取ってイースに向かおうとする”ジャジーネ号”には都合の悪い風である。
本来ならば、南風の吹く前に現在航行しているイース北東海域を突破する予定だったが、座礁によって南風の吹き出す時期になってしまった。そして、そのような時にこそ苦境を救ってくれる巫術師は海の中である。
航海士が夜になって天測を行うと予定よりまだ半度ほど南にいた。これは、思ったより北に流されておらず”ジャジーネ号”は、一日半ほどそのままの進路で航行を続けた。
徐々に短くなる夜の帳が降りかけた頃、見張りの水夫から、前方にいくつもの氷の塊が見えると知らせがあった。まばらになった流氷である。
それから、星が見えだすまで待つと、あわてて航海士が揺れる船の上で苦労しながら雲間に見え隠れする北極星に高さから、昨夜の天測は誤りで予定より二度半も北にずれていることがわかった。
どうやら、北極星も真の天の北を周囲を回るので、時刻によって北の角度をずらしてやる必要があるが、航海士は、その補正を間違ったか、天測の時に霞がかかった水平線を捉え損ねていたらしい。
フレドリド船長が全員に当直をかけて必死で船が流氷に近づかないように操船したが潮流の関係からか流氷のほうがしだいに船に近づいてきた。
半日の苦闘末にとうとう”ジャジーネ号”は流氷の流れる海域に入ってしまった。流氷は海全体を覆うモノではなく、家ほどの大きさに割れた流氷が密集して流れていた。その流氷が船体にぶつかり不気味な音をたてた。
フレドリド船長は全ての帆を畳ませて、潮流に乗って流氷といっしょに流れていくことにした。流氷と同じ速度で流れていれば流氷によるダメージは少ないからである。
船が流されるままになったので、大概の水夫は,見張り以外の仕事がほとんどなくなった。しかし、トルルは、大きな流氷が接近した時に船を横にずらすために梶櫂から離れることはできなかった。
そんな、ここは滅多にないことであるし、流されるままの船では舵櫂もほとんど効かなかったが、万が一のために部署につかされていた。
流氷に囲まれて六日目にようやく風向きが南から西にかわった。
フレドリド船長は、帆をはらませて西風を受けると船を出来るだけ南に航行させた。船体が流氷にぶつかる音を聞きながら一日で、”ジャジーネ号”は流氷のある海域から脱出した。
”ジャジーネ号”の前に次なる問題が現れる。
緯度はわかるが、流氷に捕まっている間に東西にどれほど移動したのかが不明だった。このまま南下して、イースに行き当たればいいが、イースのある緯度まで南下してもイースに行き当たらないと、イースの東西どちらにいるのかわからないのだ。
イースの東にいると仮定して、西にむかった場合に、もし、本当はイースの西にいたらリファニアの東岸に達してしまう。リファニアの沿岸が全てリファニア水軍で見張られていることはないだろうが、極めて危険である。
フレドリド船長は、流氷がかなり南下していたことから、現在の海域はイースの北か東であると結論づけた。
イースの東西では、イースとヘロタイニア地域間の方が、イースとリファニア間より流氷が南下しているという知識からである。
フレドリド船長の目論見通りに二日目には南に陸地が見えてきた。”ジャジーネ号”はイースの北にいたのである。
陸地を確認すると、フレドリド船長は再び、船を北上させた。霧が出て、リファニアの軍船から身を隠せるようになるまでイースに近づくのは危険である。
”ジャジーネ号”は行きつ戻りつをしながら、三日待った。四日目に霧が立ちこめだした。”ジャジーネ号”はイースに接近した。霧の中に陸地を見つけると、慎重に東の方向に進む。
一度、霧の切れ間に船が見えた。それが、リファニア軍船かどうかはわからなかったが、フレドリド船長はすぐに、その船が見えた方向とは逆の方向に”ジャジーネ号”を向かわせた。
そのように、慎重に進む”ジャジーネ号”はイース北岸から東岸に回り込み、いよいよ、リファニア軍船が網を張っているであろうイース南岸海域に入る。
今までは、リファニア軍船が警戒していない海域を通過してきたが、ヘロタイニア船が目指すのは、ヘロタイニア水軍が根拠地にしているイースのすぐ南に位置するカフ(ヘイマエイ)島であるから、リファニア軍船はその手前に展開しているだろう。目的地の近づくに従って逃げる海域が無くなってくる。
ただ、最終目的地のカフ(ヘイマエイ)島周辺は、ヘロタイニア水軍が制海権を有しているはずである。
ここに飛び込むための最もリファニア軍船が少ないであろうコースをフレドリド船長は模索していた。
フレドリド船長の考えは、警戒の薄いであろうイースの北の海域から、リファニア軍船が哨戒している内側に潜り込み沿岸から見えるか見えないかのコースでカフ(ヘイマエイ)島に接近するつもりだった。
フレドリド船長は、霧が少し薄くなってきたので沿岸から少し離れた小島の陰に船を移すと気長に霧が濃くなるのを待った。
フレドリド船長は、小島のいただきに水夫を派遣して見張りをさせたが三日ほど見張っても、いかなる船も付近を通過しなかった。フレドリド船長はすでに、リファニア軍船の哨戒線の内側に入ったと判断した。
しかし、四日目に霧が濃くなるまでは動かなかった。霧が濃くなると沿岸がかろうじて見える距離で”ジャジーネ号”は西に進路をかえてカフ(ヘイマエイ)島に向かった。
あくまでも、慎重なフレドリド船長は、四日をかけたが、とうとうカフ(ヘイマエイ)島の見える地点まで、”ジャジーネ号”を到達させた。
霧が急激に濃くなりカフ(ヘイマエイ)島が見えなくなったが”ジャジーネ号”は、カフ(ヘイマエイ)島の方向に進む。
霧の薄くなった場所からカフ(ヘイマエイ)島が姿を現した。ヘロタイニア水軍が投錨している入り江は島の北にあり、すぐに水路が見つかった。
深い霧の中を、”ジャジーネ号”は、”キツネ”入り江と名付けられたカフ(ヘイマエイ)島の北の入り江に静かに入った。
”ジャジーネ号”がその水路に入ると、入り江の中の霧は薄かった。数十隻の軍船が偉容を整えて停泊していた。
突然、船長が「入り江を出ろ」と叫ぶ。
幾隻かの軍船に翻っている旗は、見慣れたヘロタイニア水軍の旗ではなかった。旗の意味を悟った水夫が「リファニア軍船だ」とトルルの横で言った。
”ジャジーネ号”は、狭い入り江で回頭して外洋の逃れようとするが、すでに入り江の出口には三隻のリファニア軍船が待ち構えていた。そして、”ジャジーネ号”を目指して、十数隻のボーボートが漕ぎ寄せてきた。
フレドリド船長は、悔しそうに「奴らは、間抜けなオレ達が入り江に入ってどうしようもなくまるまで待っていたんだ」と言った。
近寄ってきたボートから、なまりのあるヘロタイニア語で、「停船しろ。停船しないと”雷”をお見舞いする」と何度も同じことが聞こえてきた。
トルルが見ると、何隻かのボートの舳先には、マントを翻した男女がいた。このような場所に出てくる女性は巫術師しかいないことはトルルにもわかった。
”ジャジーネ号”は全ての帆を下ろして停止した。すぐに、ボートが”ジャジーネ号”に取り付いて、リファニア兵が乗船してきた。
フレドリド船長と幹部は、すぐさま、ボートで連行された。三人の女達を発見したリファニア兵は大層驚いたが、女達も別のボートで早々に連行されて言った。残ったトルル以下の水夫は甲板に跪かされた。
リファニア兵達は、水夫を後ろ手にして縛り始めた。トルルは、このまま海に投げ込まれて殺されるのだろうと思った。
その時、トルルは、ファレスリーの港で、アサルデ人奴隷の老人にもらったメダルのことを思い出した。
苦難になった時は出して拝めと言われていたが、今までの災悪の時には思い出さなかったのがふと頭によぎったのだ。
トルルは、服の裏に糸で十時に縫い付けていたメダルを糸を力任せに切って手にした。そしてメダルを両手で持って頭を下げて拝みだした。
やがて、リファニア兵が目の前にやってきた。
リファニア兵は、トルルの持っているメダルを取り上げようとした。トルルは必死で抵抗する。リファニア兵が何事が怒鳴ってトルルを殴りつけた。
それでも、トルルはメダルを話さずに拝み続けていた。リファニア兵の長らしい男が、やってきて、トルルを殴った兵士に何事かを聞いていた。
兵士の長は、二人の兵士にトルルを押さえつけさすと、トルルの持っていたメダルを取り上げた。そして、そのメダルを持ったて長は去って行った。トルルは兵士達に後ろ手に縛られた。
しばらくすると兵士の長が、戻ってきてトルルの縛めを兵士に解かせた。そして、トルルだけが、二人の兵士に両脇を抱えられて座り込まされた捕虜の集団から、船長室に連れ込まれた。
そこには、兵士とは明らかに服装が異なる男が三人いた。男達は、フレドリド船長の航海日誌を読んでいた。その男達にトルルを連れてきた兵士が何事かを話した。男達はトルルの持っていたメダルを見ると口々に興奮したように話し始めた。
一人の男ががヘロタイニア語でトルルに、メダルはどうして手に入れてたのかと聞いた。どうやら通訳のようだった。
トルルがファレスリーの港で荷役作業をしていた時に、アサルデ人の老人からもらった話を正直に話した。
その話を、今度は通訳がリファニアの”言葉”で、男達の長らしい男に話す。
さらに、男達はどうしてこの船の水夫になったかをトルルに聞いた。
これもトルルは包み隠さずに言った。そして、その事情が書いてある手紙があるはずだと話した。男達は、フレドリド船長の机の引き出しからなんなくその手紙を見つけた。
トルルは、船長室の呼ばれた二人の兵士と通訳の男に伴われて、自分が寝起きしていた場所につれていかれた。通訳の男は自分の荷物を持てと言った。
トルルは僅かばかりの自分の荷物を掻き集めた。そして、一人だけボートの乗せられて、ひときわ大きなリファニアの軍船に乗船さされた。
そして、長時間の尋問を受けた。尋問の最後に通訳が、アサルデ人の老人からもらったメダルをトルルに返してくれた。通訳は、そのメダルはトルルの命の綱なので大切して拝みなさいと言った。
くたくたになったトルルは個室に監禁された。監禁と言っても三食、りっぱな食事が出てドアをノックすれば便所はいつでもいけた。また、日に一刻ばかりは監視付だが甲板に出て新鮮な空気も吸えた。
大きなリファニア軍船は、トルルを乗せてから三日後に出港した。
軍船は十日でリファニア王国の王都タチに到着した。
トルルは甲板に連れ出された。トルルは、王都タチの壮大さに驚き入った。ファレスリーの港がとんでもなく大きな港で、ファレスリーの街がこんな繁華な場所があるのかと思ったトルルであるから、ファレスリーと比べて、その十数倍の規模である王都タチを見たトルルは最初は口をあんぐりと開けていた。
トルルは下船すると馬車に乗せられて大きな神殿につれていかれた。トルルは後で知ることになるが、この神殿は王都第一のヘルゴラルド神殿だった。
ヘルゴラルド神殿の奥深い場所にある小さな建物に連れていかれた。小さな建物といっても、ヘルゴラルド神殿の建物はどれもかなりの大きさがあるので、大きな二階建ての民家ほど大きさがあった。
トルルがその建物の客間のような場所で待っていると、りっぱな神官服を着た老神官が二人の神官を伴って入ってきた。
りっぱな神官服を着た老神官は、「貴方が真の信仰を持ったが故に、貴方にまたお会いできました」と言った。
トルルが何のことかわからずにいると、りっばな神官服の老神官は上着を脱いで供のように従っている神官からみすぼらしい服を受け取った。
老神官はその服を着て見せると、トルルの方を見て微笑んだ。
トルルは腰を抜かさんばかりに驚いた。老神官はトルルがファレスリーの港で荷役の仕事をしている時に、自分が使っていたアサルデ人奴隷だった。
通訳が話してくれたところでは、老神官はリファニアでも著名な神学者であり、勉学のために、ブラブス王国に滞在していた。ところが、リファニアに帰還する船が嵐のために、ヘロタイニア人支配地に漂着して奴隷とされてしまった。
身代金を払って帰還した乗客から、この話が、リファニアに伝わると大騒ぎになった。老神官を取り換えしたいが、身分が発覚すると異教の教えの広める不逞の輩として処刑されてしまう恐れがあるので下手に、ヘロタイニア側と交渉ができずリファニア側では途方にくれていた。
老神官は身を偽ってひたすら神々にこの苦難を救ってくれるように祈っていたところ、ファレスリーの港でトルルが親身に世話をしてくれた。
神意を感じた老神官は、トルルにも神々の加護があるようにと、隠し持っていた守護神のメダルをトルルに与えた。
老神官は、ブラブス王国とヘイロタニアの物資引き替えのために、解放されてブラブス王国からリファニアに帰還した。
そして、老神官は王宮を通じてリファニア王立軍と王立水軍にもし自分のメダルを持っている者が見つかったら礼をしたいので連れて来て欲しいと依頼していた。
トルルは、話を聞き終わると、自分はどうなるのかと老神官に聞いた。
老神官は、ヘロタイニアに帰りたければ帰ればよい。ここにいたければわたしが生活がなりたつようにしようと言った。
それから、自分をトルルに引き合わせてくれたのは、自分の守護神であり、トルルを救ってくれたのもその守護神であると言った。
トルルは、その守護神の名を聞いた。老神官は主神ノーマの化身であるバーミ神の名を語った。
トルルは自分達の神様には名前がないと言った。老神官は、トルル達の神の名は、アスラだと言った。ヘロタイニア地域では神は尊き存在のために名を口にすることが憚られているので一般の人間が知らないだけだと説明した。
老神官は神は愚かな人間に自分をあわしてくださる。地によって名を変えても神の存在は普遍である。神の名は人間が信仰しやすいようい神が名乗られている仮の名に過ぎない。
だから、誰でも自分が納得する神を、納得する名でよんで信仰すればいいと老神官は諭すようにトルルに言った。
しばらく、考え込んでいたトルルは、自分が祈って助けてもらった神のバーミ神を信仰したい。でも、その神はヘロタイニアではアスラ神と言われる神であるのだろうかと老神官に聞いた。
老神官は黙って首をたてに振った。リファニアの”宗教”では、ヘロタイニア地域のアスラ神はノーマ神の化身の一つとされている。リファニアではアスラ神を信仰しても不信心ではない。
また、アスラ神が色々な化身の姿をとるとして、アスラ神は唯一神であるということを信仰してもリファニアでは問題にならない。
ただ、口に出してアスラ神以外の神を否定して、他の神を信仰する人々を異端異教として排撃することは許されない。
トルルは、今まで信仰してきた神がバーミ神という名で自分を助けてくれたのだと理解した。そして、自分と家族におこった境遇を老神官に話して自分はヘロタイニアには戻れない身になったことを告げた。
老神官は、トルルにリファニアで身を過ごせるように力を貸そうと言った。そして、トルルに信者証明を出してくれた。
信者証明はリファニア国民であるという証明のようなものであるから、リファニアに到着した敵性地域住民に即日で出すなど統治する人間が聞けば、いい顔はしない。
リファニアの支配階級も住民の統治に信者証明を利用してはいるが、あくまでも信者証明は”宗教”機関が発行するものであるので文句は言えない。
トルルは、ヘルゴラルド神殿の下働きになった。そして、一人の神官補が専属で”言葉”を教えてくれた。トルルは二年ほどで”言葉”を習得すると、老神官の口利きで、神殿専属の船の水夫になった。
また、老神官はリファニア娘との縁談まで世話をしてくれた。その娘は神殿で働いていた孤児だった。
その孤児はリファニア南西沿岸の廃棄されたヘロタイニア人の村でリファニア軍に保護されて、従軍していた神官補の世話で、ヘルゴラルド神殿が面倒を見ていたという娘だった。
故郷に捨てられたヘロタイニア人という似たよう境遇の二人は、寄り添うように王都タチで暮らした。
トルルはヘロタイニア地域の出身だといって、悪く言われることはなかった。むしろ、リファニア人と同じ働きをしたら慣れない場所で頑張っていると誉められた。
トルルは、リファニアの様々な地、そして、イースやキレナイト(北アメリカ)にも行った。数年するとトルルは、古参水夫扱いになり家族を養えるほどの給金をもらうようになった。そして、老神官は死んだ時に、トルルにまとまった金を残してくれた。
トルルは、その金と、老神官を崇拝していたというという、ある商人が出してくれた金、今までの貯蓄を併せて小ぶりな中古の船を買った。トルルは自ら船長となり、リファニア沿岸で荷を引き受けては運ぶ商売を始めた。
あまり儲けは多くは無かったが、食っていくには困らないほどには利益があった。その間に三人の子供もできた。
そのトルルの生活を変えたのがヘロタイニア人地域との交易だった。これは、金を出してくれた商人からの助言だった。
トルルはリファニアでは不良品扱いの武具を売買する許可を王都の官憲からもらった。このような品をヘロタイニア人に無許可で売るのは厳罰になる。また、なかなか許可も出ない。
しかし、トルルの場合は何故かすぐに許可が出た。
トルルはヘロタイニア語ができることと、リファニアで艱難辛苦して成功したヘロタイニア人という触れ込みで、リファニアのヘロタイニア人から、武具を引き替えに相応の毛皮と鯨油を仕込んではヘロタイニアに渡って売りさばいた。
ただ、ヘロタイニアに向かうときは二つの条件が課せられた。一つは船から舵を撤去して代わりに舵櫂で操船を行うこと。万が一、トルルの船が押収されたり難破して舵の機構が漏れるのを防ぐためである。
二つ目は、必ず当局が連れてきた二人の水夫を乗せること。そして、帰りはヘロタイニア人の別の二人の水夫を連れ帰ることだった。
ここまで、来るとトルルも自分の預かり知らない仕事の一端に組み込まれていることは理解できたが、それを問い詰めたり、知ろうとするほどには愚かではなかった。
トルルが最初に、ヘロタイニアに戻った地は、ヘロタイニアに二度と戻ってこれないかも知れないと出港時に思ったファレスリーだった。
トルルがファレスリーを離れて十七年がたっていた。
トルルはファレスリーの港が昔とまったくかわっていないことに驚いた。王都タチでは十年もたてば、倉庫が新しくなったり埠頭が改修されて多少は風景が変わっていく。
トルルは四回目のヘロタイニアへの渡航の時に、思い切って生まれ故郷の近くの港に寄港した。そこから、生まれ故郷の近くの街で荷を売るという口実で、丁度、街への道の途中にある自分の村まで行ってみた。
トルルが村に戻ったのは二十三年ぶりだった。
神殿も、どの家も見覚えがあった。そして、見慣れた王都タチの近郊の村と比べて自分の村がみすぼらしく見えた。
王都タチ近郊の農家は石造りと木造の混合で、しっかりした印象があり屋根は木の瓦やスレートの瓦が使われている。
それに比べて、村の家の屋根は藁葺きで、それもかなり古く雨漏りがする家も多い。
道で行き交う人は誰も、トルルだと見破ることはなかった。写真のない時代には、次第に人の顔の記憶は失われていく。
そして、見た目はトルルは身なりのいい商人である。そして、三台の荷馬車と五人の手下を引き連れているとなると昔のトルルを思い出す者などいなかった。
トルルは、自分の家のあった場所に行った。そこは空き地になっており、数本の木が茂っていた。
トルルは嘆息すると気を取り直して、数件先の家まで行って馬の水と秣を所望して銅貨を数枚、家から出て来た老婆に渡した。
トルルは銅貨を老婆に渡す時に、その老婆が子までもうけたかつての婚約者のリャシカだと気がついた。
トルルの妻は、リャシカと同い年であるが十数歳以上、リャシカが老けて見えた。
愛らしい娘だったリャシカが、まだ、四十代前半のはずなのに老婆のような姿になったのにはワケがあった。
トルルが居たときより、ヘロタイニア地域の農村は疲弊していた。イース戦争が終わった後も、毎年のようにブラブス王国はじめ、アサルデ人の国々とは慢性的な戦争状態が続いていた。
また、ヘロタイニア人同士の戦いも毎年のように起こった。イース戦争を境にヘロタイニア人地域は戦乱の世になっていたのだ。
このため、どの農村からも多くの男が自分の部族のためにという大義名分で徴発されていた。
残った家族のために、村が共同で男がいなくなった家の農地を耕すというヘロタイニアの習慣は、すでに限界が来ていた。残された者は過重な労働に身に鞭打って働く必要があった。
トルルはリャシカに「お婆さん」と声をかけて家族のことを聞いてみた。トルルが気前よく金を出したのでリャシカは、数年前に夫に死なれてから一人暮らしで大変だとこぼした。
トルルはリャシカが結婚したと聞いて少し安堵した。咎人の婚約者と言うことで、結婚できなかったのではないかと内心心配していたからだ。
トルルがお子さんはと聞くと、結婚してからは二度死産して子供ができなかった。結婚する前に別の男と子をなしたが、親に引き取られて、今は実家を継いでいる。そして、自分の子なのにろくに訪ねてもこないとリャシカはぼやいた。
トルルはリャシカと別れしなに、美味いモノでも食べてくれと銀貨を一枚渡した。
リャシカは、見え透いた世辞を何遍も言った。トルルはその言葉を聞くたびに、リャシカと過ごした時間が消えていくように感じた。
トルルは逃げ出すように自分が生まれ育った村を後にした。そして、リファニアの王都タチにある自分の家に早く帰りたいと思った。
この時、トルルの戦いは終わった。