三 悪神ゾドンの庭
ホルドフリート万人隊長は、崖の上で半数の兵に荷を捨てさせた。数十キロに達する荷と防具、武器を背負って多数の負傷者の担架を担うは無理があった。
ホルドフリート万人隊長は、根拠地までまっすぐに行けば二日行程であるのと、追撃中に捨てさせた荷を回収すれば飢えずに帰還できると判断したのだ。
二リーグほど戻って荷を回収しよとしたが、その荷はどこにもなかった。
実はホルドフリート万人隊長は、もう一つイース側の部隊がいることを察知できていなかった。
この部隊は、百数十の荷車で構成されており、味方に食糧を供給したり、負傷者が出たときに回収を行うのが目的の後方支援の部隊だった。
二リーグほど離れた丘陵の陰に隠れていた部隊は敵兵が残していった荷をかっさらうと、たちまち姿をくらませた。
ホルドフリート万人隊長は、あわてて崖の上に残した荷を回収してくるように命令した。
数百の兵士が崖に舞い戻ると荷はなくなっていた。そして、崖の下には投げ落とされた荷が少しばかり残っており、半リーグほど先を荷を満載した荷馬車の群が大急ぎで離れていくのを目撃した。
兵士達は先程の矢の急襲のことでおびえていたが、指揮官は崖の下に残った僅かな荷を回収させた。
結局、ホルドフリート万人隊長の率いる部隊は、二日行程かかる本拠地まで一食半ほどの食糧が残るだけだった。また、半数の兵士には寝るための毛布がなかった。
ここで、ホルドフリート万人隊長とその麾下の軍勢は不撓不屈の精神力を発揮する。
まず、ホルドフリート万人隊長は自軍の様子は逐一敵に見張られていて筒抜けだと判断した。
そこで、最初に現地点から西に向かって行軍を開始した。幾ばくも行かないうちに日が暮れた。
ホルドフリート万人隊長は野営の準備を命じて、腹一杯食べるように兵士に命じて全ての食糧を消費した。
そして、二刻半ほど兵士を眠らせて、真夜中に近い時間に根拠地に向けてまっすぐに行軍を開始した。
敵に、自分の軍勢が西に進んで大きく迂回をして根拠地にもどると誤認させた上で一気に根拠地を目指す作戦である。
時折、雲間から見える、わずかな下弦の月の明かりを頼りに三列縦隊の細長い隊形になって、担架に乗せられた負傷者が時折出すうめき声以外の声はするが、全ての兵士は黙って進んだ。
夜が明けてくると、ホルドフリート万人隊長は、ただ一乗の戦車を偵察に出した。前方に敵勢がいないという報告を受けると、戦車に根拠地にもどり様子を知らせよと命じた。
昼近くなって疲労で脱落する兵士が出だした頃に、ホルドフリート万人隊長は小休止を命じた。
前方に軍勢が待ち構えている報告で全軍に緊張が走った。
前方にいたのは昨日、勝手に撤退した部隊だった。ホルドフリート万人隊長の元に、撤退した部隊の指揮官がやってきた。
ホルドフリート万人隊長が叱責しようとすると、守りやすい地形の場所まで撤退してホルドフリート万人隊長の部隊を待っていただけだと弁明した。
たしかに撤退した部隊は、片側が二メートルほどの崖で遮断された、大きな丘陵の陰におり、荒野の中では防御を行うのには適した場所だった。
ホルドフリート万人隊長は怒りを抑えて、撤退した軍から食糧を出させて兵士に半日ぶりの食事をさせた。
そして、一刻ばかりの休息の後で、撤退した部隊も含めて根拠地へ向かいだした。
これは、有力な敵勢が根拠地に接近しているという情報のための行動だったが、ホルドフリート万人隊長の軍勢が陥った落とし穴への第一歩だった。午後、遅くなってからでは幾ばくも進めない。
それならば、居心地の良い場所で一夜を過ごすべきだった。
軍勢は三リーグ半ばかり行った場所で、新たな野営をすることになった。そこは、西に見える氷河をいただいた山々が指呼の距離に見えるような場所だった。
イースの荒野は時として高度さえ見誤えさせる。いつの間にか、軍勢は数百メートルンほどの高さの場所に来ていた。
イースの天候は急変する。それも、僅かに高度が上がっただけで、その変化はより大きくなる。
その夜の野営は悲惨だった。この年の最初の本格的な寒波がやってきたのだ。夜半前から急に風が強くなりみぞれ混じりの雨が降り出した。そして、雨はしだいに雪にかわっていった。
最初の高度の低い丘陵なら、風は強いが雨はほとんど降らず、ましてや雪などにはあわなかっただろう。
夜露を防ぐのは個人で携行する一人がようやく入れる簡易な麻の小テントしかない。それも、全軍で持っているのは三分の二の兵士だけである。
そのテントも強風で次々に吹き飛ばされる。兵士達は岩陰に集まってできるだけ体を接して互いの体温で暖を取るしかなかった。
一刻ばかりの悪戦苦闘のあとで、ホルドフリート万人隊長は苦渋の決断をした。再度の夜間行軍である。
前夜はまだ暗いとはいえ月明かりがあったが、二日目の夜間行軍は、不気味な風の音がする全くの闇の中である。
ホルドフリート万人隊長は、敵のことは構わずに松明をつけさせるが、松明の本数が少ない上に、松明はすぐに強風と雨で消えてしまった。残った数少ない松明の明かりだけではとうてい、軍勢が進めなかった。
ホルドフリート万人隊長は、やむを得ず巫術師に”照明術”を連続してかけさえることにした。
従軍するような巫術師ならばたいがいは”照明術”はできる。本来は、部屋の中を二三時間明るくしていられるのが”照明術”である。明るくなるのは、空気そののもで、術をかけると連鎖反応的にしばらくは明るさが持続する。
ただ、大気の動きが激しい戸外では、”照明術”はあまり有効な術ではない。大気は明るさの連鎖反応を持続さることが出来ずにすぐに拡散されてしまうからだ。
それでも、風に流されて移動はするが十秒ほどはほのかに一帯が明るくなる。そして、光る煙のようなモノが風の方向に移動して、やがて、文字どおり雲散霧消して消えてしまう。
ホルドフリート万人隊長は、行軍中は集団になっている巫術師を分散させて、軍勢全体が明かりの恩恵を受けられるようにした。
ホルドフリート万人隊長は、先の地形を偵察させていた。それによると、二リーグほどすすむとかなり大きな丘陵があり、それを越えると根拠地にもどる道に出るという報告を受けていた。
偵察に出た兵士が先導になって進んだ。高度がしだいに下がってきて雪はみぞれが混じる氷雨になった。
先導役の兵士は強風と顔に叩きつけられる雨と闇の為にやや西寄りに進んでしまった。そして、根拠地への道に辿り着くための目印となる丘陵を見落として次の丘陵に入り込んだ。
この時、一本の矢が軍勢に打ち込まれてた。
ホルドフリート万人隊長の軍勢の動きを見張っていたイース人の猟師が軍勢に接近し過ぎたのと、”照明術”で明るい煙のような光の塊が、風上から接近した筈の猟師の方に地形の関係からか流れたために、一瞬だが行軍する兵士に猟師は姿を見られた。
猟師は恐怖のあまりに一本の矢を打ち込んでから深い闇の中に逃れた。
それを追って数名の兵士が列を離れた。
矢は誰にも当たらなかったが、「敵襲、明かりを消せ」という声を矢を打ち込まれたあたりにいた兵士から口々に叫び伝言ゲームのように伝えられていく。
松明が消され、巫術師は”照明術”をやめた。軍勢は闇の中に閉じ込められた。それでも、止まっていると、敵が襲ってくるという恐怖心から急ぎ足で先を進む。
一人の若い巫術師が、風の音を吶喊してくる兵士の声と聞き間違った。若い巫術師は咄嗟に”雷”を放った。
リファニア世界のどこの軍隊でも、余程、緊急時でなければ巫術師が”雷”を放つときは敵の攻撃と誤認しないように兵士に知らされる。
”雷”はイースの猟師の追っていた兵士達の前方に落下した。
「”雷”だ」「敵は巫術師がいる」
兵士達は驚いて行軍している仲間達のところにもどって言った。
”雷”が落下したことは先頭にいたホルドフリート万人隊長も認識していた。
「行軍隊形を崩さずに早く丘を越えろ」という命令が、ホルドフリート万人隊長から出る。
兵士達は闇の中を速歩で歩き出した。前を歩く者を見失い隊列が乱れる。
悪天候の中を、算をしだいに乱しながら夜間行軍する軍勢は、雨でぬかるんだ丘陵の斜面を足を滑らせながら登り、イース人が”悪神ゾドンの庭”と呼ぶ場所に迷い込んだ。”悪神ゾドンの庭”とは固有の地名ではなく、入り込むと危険な場所のことである。
ホルドフリート万人隊長の軍勢が入り込んだ”悪神ゾドンの庭”は、塹壕のように深く掘り込まれた雨裂が続く場所と、その先にある湿地帯だった。
丘を越えた進む兵士達は次々に水が流れている雨裂に落ち込んだ。
雨裂に、一度、落ち込むと更に深い闇の中である。雨裂は二メートルから深い場所で三メートル程もあった。
下が軟弱なので死ぬようことはないが多少の怪我はする。そして、何が起こったかわからない兵士の何人かが剣を抜いた。
「敵の落とし穴だ。敵が底にいる」
一人の兵士が叫んだ言葉は、次々と兵士の間に伝わって多くの兵士が同様のことを叫びだした。雨裂の中に落ち込んだ兵士はパニックになった。
少し考えれば、落とし穴があったとしても、そこに敵がいることなどない。低体温症になりかけて冷静な判断ができなくなった兵士は闇雲に剣を振り回す。
同志打ちが始まった。
雨裂を流れる水は血に染まっていくが闇の中ではそれが見えない。ただ、血の匂いとうめき声、鼻先をかすめる剣の風音が兵士を益々パニックに陥れていった。
ようやく、滑りやすく直角に近い雨裂を登ってきた兵士は槍で突かれた。目の前に急に現れた人影に恐怖した兵士が突いたのだ。
「伏兵だ。穴から敵兵が湧いている」
つい先日、敵の伏兵にやられている兵士は悪夢が脳裏の蘇る。先にやらなければ、やられるのだと兵士達は思い込んだ。
「逃げろ。殺されるぞ」
ついに、潰走の因となる一言が叫ばれた。
軍勢は完全に統制を失って雨裂のある斜面を走り降った。そして、更に多くの兵士がしだいに水量をまして、中々上に這い上がることのできない雨裂に落ち込む。
運良く雨裂に落ち込まずに逃げた兵士を待っていたのは湿地帯である。最初はワケもわからずに湿地に数歩入り込む。ところが軟弱な泥に足を取られてしまう。気がつけば腰まで水の中である。
湿地帯は幅こそ一リーグほどあったが、対岸までは二百メートル程である。昼間ならばゆっくり足を動かして対岸を目指せばそう恐ろしい場所ではない。だが寒風とみぞれまじりの雨が吹き付ける闇夜の中ではそれがわからない。
「底なし沼だ。助けてくれ」「敵が前からきた」
沼に入った兵士は必死で岸に戻ろうとする。そこへ、どんどんと別の兵士が入り込んでくる。湿地から岸へ必死に戻ってくる兵士の様子を感じた岸辺の兵士は、敵兵の来襲と誤認して槍や剣で攻撃した。
「岸にまで敵がきてる。前に進め」
その声を聞いた岸辺に兵士達は、自分達のことを言われているとは思わないのでどんどんと湿地帯に逃げ出した。
湿地の中でもあちらこちらで同士討ちが起こった。また、方向を見失って湿地で低体温と疲労のために動けなくなり、腰まで水につかるほどの中で頭だけ水面に顔を出してしゃがみむ兵士も続出した。
ようやく混乱が収まったのは微かに夜が明けだしてからだった。
強風はまだ吹いているが雨が上がってかすかに太陽の光が差しだすと、ホルドフリート万人隊長の軍勢に起こった惨状が目の前に明らかになった。
湿地の中には数百の死体があった。血を流して俯せている者もいるが、大半は水のなかでしゃがみこんだまま死んでいた。数日後、イース軍は湿地とその岸辺から千百七十余の死体を回収した。
雨裂の中の死体は、これもイース軍が回収したところ四百八十余あった。雨裂の死体も武器によって致命傷を負った者もいたが、過半は動けなくなって凍死したようだった。
自身が斜面で滑って捻挫を負い、片足を引きずるようなホルドフリート万人隊長が朝になって把握した兵士は七百人ほどだった。
ようやく焚き火で暖まった軍勢は、牛歩の歩みで根拠地を目指す行軍を再開した。
途中で、三百人ほどの迷い兵を回収して、軍勢が根拠地に辿り着いたのは、その日の夕刻だった。
ホルドフリート万人隊長が根拠地に戻り西から接近中の敵の軍勢のことを問いただすと、二日前にどこかに消えたかのようにいなくなってしまったという報告を受けた。
ホルドフリート万人隊長はこの消えた軍勢へ対処するために無理な行軍を行い軍勢を壊滅させてしまったことになる。三日ほどの間に、落後した兵士がグループや単独で、五百人ほどもどってきた。
五千で出立した軍勢は、ほとんど戦いをしないのに、三千五百の兵士を失ったことになる。
イースの荒野でイース軍が回収したヘロタイニア兵士の死体は四百、捕縛した者は八百三十余名である。イース軍が確認した死体と捕虜、”ドロバルドの崖の戦い”の戦死者を併せて三千弱なので残りの五百はイースの荒野に飲み込まれたとしか言いようがない。
根拠地に戻った日に、ヘロタイニア艦隊の惨状をホルドフリート万人隊長は目にしていた。
ホルドフリート万人隊長の軍勢を苦しめた嵐は、沖合に停泊していたヘロタイニア軍船をも痛めつけていた。
地中海では経験することのない、強風と波浪により数隻にヘロタイニア軍船が走碇を起こして別の軍船と衝突した。
その結果、二隻の軍船が大破して水船状態になり廃棄するしかなくなり、十隻がかなり大きな損傷を受けて当面は航海できる状態ではなくなった。
その他にも多くの軍船が帆や帆柱といった走行装置を損傷していずれもがやっかいな修理が必要な状態だった。
さらに、浜に引き上げて船体の修理を行っていた四隻の軍船は全て沖合に流された。そのうち二隻は根拠地から二リーグほど行った浜に横倒しで打ち上げられて海に戻すにはかなりの工夫が要る状態になった。
残りの二隻は転覆して漂流しているのが見つかり回収された。この二隻は船として修復は諦めて、根拠地に建設中の砦の材料にするために解体されることになった。
そして、ヘロタイニア軍の悲劇はまだ続いた。根拠地に戻って、取りあえずの部隊の再編成が終わるとホルドフリート万人隊長が、剣で首を突いて自害したのである。
ヘロタイニア人の文化は、恩義に報いることが第一であり、恩義に報いることのできない人間はその責任を取らなければならない。
ホルドフリート万人隊長は、一介の兵士からその軍事的才能をバスチアム総領に見込まれて一軍の将となった人物である。
ホルドフリート万人隊長は、バスチアム総領の直轄部隊の指揮を取り、その過半をむなしくイースの荒野に失った。
ヘロタイニア人の基準からすれば一死をもって報うべき事柄である。
このホルドフリート万人隊長を死に追い遣ったイース軍の正体はイース人の婦女子と老人である。
ホルドフリート万人隊長の軍勢を翻弄した軍勢のうち、リファニア王立軍の主力と、イースの成人男性で構成されたまともな軍勢は、”ドロバルドの崖の戦い”を行った軍勢だけである。
その他の軍勢はリファニア水軍の海兵がいざという時の援護のために分散配備された囮の軍勢である。
その主役はイースの成人女性と大柄な子供、体力はあるが軍務は荷が勝ちすぎる老人である。
彼らは遠目にはチェーンメイルのように見える荒い織り方のベスト、ヘルメットのように見える防寒用品の耳当てのある帽子、尖った金属棒を付けた槍のような軽い棒といった見かけだけの武装をしていた。
こんような見せかけの軍勢なら人口二万数千のイースでも一万という軍勢が組織できる。彼らの任務は歩き回ってヘロタイニア軍を翻弄することである。
ヘロタイニアはリファニア以上に男尊女卑で、社会の構成員とは成人男性であると考えられている社会である。
女子供が戦場に出てくるなどとは想像の埒外である。ヘロタイニアの斥候兵の中にはこの囮の軍勢にかなり接近した者もいるがイース軍は小柄な兵士や、女のような仕草をする女々しい軍勢であるとしか受け取らなかった。
この作戦は上手く機能して、前述のようにホルドフリート万人隊長の軍勢を壊滅に追いやる大きな要素となった。
リファニアとイースでは、この一連のイース軍とヘロタイニア軍の動きを”イースの鬼ごっこ”と呼ぶ。
蛇足であるが、いつの頃からかヘロタイニア軍が壊滅した”悪神ゾドンの庭”のある丘陵の頂上には腕白小僧を連想させる悪戯な目をした小さな悪神ゾドンの石像が置かれている。