一 ヘロタイニア勢、イースに侵攻する
イース戦争が惹起したのは、祐司とパーヴォットが王都に到着した年から見ると六十七年前である。交戦したのは、主にリファニア王立水軍艦隊とヘロタイニア人の各部族連合艦隊である。
当時、ヘロタイニア(ヨーロッパ)西部では、各部族がバスチアム総領という指導者の下で擬似的な統一が進んでいた。
ヘロタイニア人社会は血縁関係があると考えられている部族の集合体である。部族長と、その下に位置する万人長、千人長、百人長が貴族階級である。
総領とはヘロタイニア語の直訳では、”全てのヘロタイニア人の第一人者”となる。
ヘロタイニア人は、部族の枠を越えて元をたどれば全て血縁で結ばれると考えている。
そのリーダーは、最も優れたヘロタイニア人である総領とされる。実際は総領は部族長の中から選ばれ、終身であるが、老年や病気の場合は、副総領が実務を行う。
また、総領は世襲できず、一代おかなければ同じ部族の部族長が総領になることはできない。
また、東西に広がって居住するヘロタイニア人は、西の総領、東の総領と二つの総領が並び立っていた。
バスチアム総領は、祖父が西の総領であり、父親が老年の総領に代わって実質的な総領であり、事実上三代に渡って総領を行っていた。
また、バスチアム総領の部族である、アンティキア族は人口百数十万という大部族である。
このことを背景に、野心家のバスチアムは、東西の総領を束ねた大総領に自ら就任するか、自分の子をその地位に付けたいと考えていた。
大総領は二百年以上選出されていなかった。東西の総領と大総領は世襲できないが、自分が大総領になれば、子は西の総領と東の総領を兼ねる。孫の代に再び大総領となり、さらに次の代は再び東西の総領を兼ねさせれば総領職の世襲ができると考えていた。
その大総領になるには、輝かしい軍事的栄光と現在のヘロタイニア人の苦境を救う成果が必要であった。
ヘロタイニア地域の苦境とは自然と異邦人との戦いである。
ヘロタイニアは現在のヨーロッパと比べてかなり寒冷で、北部のスカンジナビア半島は山岳地域が氷河に覆われ、その氷河の末端は現在では海水をたたえて天然の良港になっているフィヨルドの過半を埋めていた。
現在の北欧と呼ばれる地域は限りなく寒帯に近い場所で、狩猟を行う人間以外に住むことはできない。
また、アルプスでは大規模な山岳氷河が発達して、現在のスイスからオーストリアの西半分が氷河に覆われている。
スッコトランドから北フランス、デンマークのあるユトランド半島、そして、ドイツからポーランド、ヨーロッパロシアに続く北ヨーロッパ平原はツンドラ気候である。
それらの地域は、細々とトナカイと寒冷に耐える羊を遊牧する人々が疎らに住んでいるに過ぎない。
ヘロタイニアでヘロタイニア人という集団がまとまって住んでいるのは、現在のアイルランド、イングランド、フランス、イベリア半島の北半分、イタリア半島、そしてバルカン半島にかけての地域である。
ヘロタイニア人は統一国家の創立には失敗しており、部族連合体という形をとっていた。それぞれの地域のヘロタイニア人の利害関係は異なっており、互いに武力を行使した内部争いを避けることはできていたが総力を結集した行動は取れていなかった。
これらのヘロタイニア人居住地域は、いずれも亜寒帯気候で夏はあるが、気温は二十度を上回ることは少なく、冬は零下十度を簡単に下回る。
イベリア半島南岸は、現在の地中海沿岸で見られる地中海性気候の冷涼版といった気候の地域である。
そこには、ネファリアから移り住んだ浅黒い肌を持つアサルデ人の国であるブラブス王国がある。住民の大半は”言葉”のブラブス方言を母語としており、リファニアの人々とはコミュニケーションが可能である。
ブラブス王国は、イベリア半島南岸以外にも、リファニア世界では草原と疎林からなっている現在のモロッコからアルジェリア沿岸あたりにまで版図を持っており数百万の人口を有する大国である。
しかし、ブラブス王国の王家はイベリア半島南部のみが直轄地で、王国全体では宗教的行事だけを行い、部族長会で選ばれた宰相が数年ごとに交代しながら政治を行ってという体制だった。
リファニアの封建制以上に地域の独立性が高い、部族の集合体という体制の国で、国家が一丸となって行動することはなかった。
人種的な優位性を信望するヘロタイニア人とは、ブラブス王国は数百年という単位で敵対関係にある。そして、わずかずつではあるが、ブラブス王国はイベリア半島内部を侵食しつつある。
もともと、イベリア半島はアサデル人の居住地域であったが、五百年ほど前にヘロタイニア人の北からの大移動という圧力を受けてイベリア半島にあったアサルデ人の都市国家群は壊滅になり、一時は、アサルデ人はイベリア半島最南端にまで追い詰められた。
なんとか踏みとどまったアサルデ人は、国土奪回を旗印に現在はイベリア半島南部を回復していた。
皮肉なことに、史実ではイスラム勢力にイベリア半島北端に追い詰められたキリスト教勢力がレコンキスタ(国土回復)を旗印にイベリア半島を南下再征服したのと真逆な構図がリファニア世界では展開していた。
ヘロタイニア人という共通の脅威があるために、リファニア王国とブラブス王国は”古き同盟”と呼ばれる歴史的な紐帯関係にある。
イベリア半島北部とイタリア半島のヘロタイニア人からすれば、年々厳しさを増す苛酷な自然環境から逃れて南に進出を企図していた。
しかし、北アフリカ沿岸にはブラブス王国に代表されるアサルデ人の国がいくつもあり、アサルデ人勢力が強固に根付いているために南へ移動することは容易なことではない。
バルカン半島のヘロタイニア人は、現在のエジプトや、比較的温暖で雨の多くなった現在のシリア沿岸からパレスチナといった地中海東岸に進出を狙っている。
そこにもアサルデ人による都市国家の連合体という形のヒスラエワ同盟があり、長年、東部のヘロタイニアと抗争を繰り返している。
数百年間もアサルデ人地域への侵攻が繰り返されていたが、一歩進んで二歩下がるといった調子で現在の小アジア半島の中央がヘロタイニア人とアサルデ人の境界になっている。
リファニアに執着していたのは現在のイングランドからフランスにかけての地域のヘロタイニア人である。
リファニア南東沿岸に勢力圏を持つヘロタイニア人は、この地域の出身者が過半を占めており、同根の部族がヘロタイニアとリファニアに並立している場合も多い。
ここで、ヘロタイニア人の苦境を救い、個人的野心を成就させたいバスチアム総領に目をつけられたのがイース(アイスランド)である。
イース(アイスランド)は、現在は亜寒帯気候で夏季でも十数度という気温である。リファニア世界のイースはさらに気候が厳しい。
島の東半分と山岳地域である南西部の一部は氷河に覆われており、西半分のうち北ぐは冬季にはまったく凍り付いてしまうツンドラで、夏季に気温は十度をようやく越える。
主に住民が生活しているのは島の西部の九州ほどの大きさの地域である。
そのイース西部に、わずかなじゃがいもを育て、幸いにも豊富な漁獲量を持つ漁猟を生業とするヨーロッパ系の要素の強いリファニアに多いノード人が三万人を少し超えるほど住んでいる。
この人々はアイスランドの史実と同様に直接民主制を行い、外敵には内陸に隠れ住んでも徹底抗戦をする気概を持っていた。
そして、イースはリファニア王国の一部ではないが、リファニアもイースの住民もリファニアという文化圏の一部であるという意識はありヘロタイニア人には決して友好的ではなかった。
イースには、長年の取り決めで、穀物やジャガイモ、布をイースに引き渡すことでリファニア北東沿岸から、毎年、数十隻の船が鮭とニシンの漁獲のためにやってくることを認めていた。
リファニアからの漁船は沖合で漁獲した魚をイースで干し魚、燻製、塩漬けにしてリファニアに持ち帰っていた。
また、漁民以外にもイース人が漁獲した魚を買い付けにくるリファニア商人の船も数十隻はイースにやってくる。
漁民の中には、イースに伴侶を見つけて住み着く者もいてリファニアとイースの交流は活発であった。
ヘロタイニア人からすればイースは漁業資源は魅力的であるが、イース自体の土地の生産性が低く、居住可能な地域も限定されている。
また、リファニアとは矜恃を開いてつき合うが、ヘロタイニア人には冷淡な態度を取ることが多く、自分達の自治を拒む者には徹底して抗戦する気概を持っているイース人を苦労して支配してもほとんど得るべきものがないために、ヘロタイニアもイースは無視している状態だった。
しかし、バスチアム総領はイースの一部を占拠してリファニアへの恒久的な中継基地を設けようと意図した。
これには、数百年に及ぶ伐採によるヘロタイニアの船材に適した森林資源枯渇という背景がある。本来のヨーロッパは中世まで深い森林に覆われた地域だった。
しかし、その大森林地帯になるべき地域は、リファニア世界では、柳など寒冷に強い樹木がわずかに見られるツンドラである。
ヨーロッパの船材といばオーク(ヨーロッパナラ)であるが、この樹木はリファニア世界では、イングランド南部沿岸、南フランスとピレネー山脈南側斜面、北イタリアにしか見られない。
それより北ではカラマツが優勢となっている。リファニア世界のカラマツは、より耐寒性を獲得したかわりに非常に柔らかい木質の木となっており船材にするにはかなり脆弱な樹木である。
勢い、外洋に出る船の舟材はオーク一辺倒となる。ところが、このオークが少なくとも伐採や運搬が容易な地域では急激に減少していた。
その最大の原因は森林の回復力を上回る伐採である。
ネファリアのアサルデ人とは対立しているヘロタイニア人ではあるが、ネファリアでは不足する木材と毛皮、そして女性をアサルデ人に売ることで穀物を得ていた。
この輸出用の産業は数百年の歴史があり、毎年、ネファリアからもたらされる穀物はヘロタイニアの穀物生産の二割から三割にも達していた。
そのため、本来、ヘロタイニアの生産力で維持できる以上の人口がヘロタイニアには存在していた。
そして、飢餓を逃れるには対立するアサルデ人に、継続的に用材を売るしかなく、その用材の一部はアサルデ人の軍船になり、ヘロタイニア人の侵攻を益々困難にするという悪循環に陥っていた。
残り少ない木材資源では、ほんの二三十年という樹齢の木が利用されるために、大型船の建造は困難になっていた。
その上に、オークを好むアサルデ人に優先的にオークを売るために、価格が高騰し絶対数が不足する船材用のオークは、本来なら船材に適さないカラマツで代用されるようになってきていた。
「千年巫女の代理人」でアッカナンが、ヘロタイニア人の船が小型であることや、衝角でつかれれば木っ端微塵になるというようなことを言ったのはこのような背景がある。
事実、数十年前から一対一では、ヘロタイニアの軍船はリファニアの軍船に勝てなくなってきていた。
勢い、ヘロタイニア側は多数の小型船で損害が出ても、リファニア船に乗り移って拿捕するという戦法に頼るようになった。
ここで問題になるのが、外洋の航行能力である。ヘロタイニアの脆弱な造りの小型船では、ヘロタイニアから一気にリファニアに行くことが危険を伴う行為になっていた。
かつてはヘロタイニア人から無視されていたイースが、中継基地として望まれるようになった。
イースはリファニア寄りに位置するが、ヘロタイニアから見ればリファニアへの中継地である。
ヘロタイニア人には一度に大軍をリファニアに送る能力はないので、バスチアムはイースに恒久的な地歩と、多数の船舶の停泊が可能な入り江を確保して本格的なリファニア侵攻軍を、イースで編成しようと計画した。
バスチアムは、隷下にある各部族、友好関係にある部族に船と兵の提供を求めた。この調整に長く時間がかかり、イース侵攻計画は、友好関係にあるアサルデ人国家や商人の情報によってリファニア、イースにもたらされた。
イースでは、ヘロタイニア人の侵攻を受けた場合に備えて、北部と内陸に避難村が造られ食糧の備蓄が行われた。
ほとんどのイース人が住んでいる海岸部の村落はいつでも避難できるように準備をした。さらに、侵攻してきた相手に物資を利用されないように家財道具と漁具、保存食料を洞窟や自分達で掘った穴になどに隠し始めた。
ヘロタイニアの動静についてのリファニアの動きは緩慢としていた。外征はリファニア王の行う行為であるが、王家単独でヘロタイニアに先制攻撃をかける程の戦力や経済的基盤はなかった。
また、領主層を糾合してリファニア全土の力を結集することも現実には無理な相談である。
そのため、リファニア王家は取りあえず相手が出て来たから具体的に対処する以外にはなかった。
それでも、リファニア王家はイースに対する影響力を保持するために、七百の軍勢と穀物、万が一の侵攻があった時のために、イースに滞在するリファニア人の不法行為を監視するという名目で通報用の軍船を常駐させた。後でこの処置が大きな影響を産むことになる。
リファニア国王ロセニアル王十四年、リファニア暦六百五十六年、九月二十日、百隻近い軍船と数十隻の商船で構成されたヘロタイニア人の艦隊がイース南部に到着した。
艦隊が水平線に現れると、南岸地域のイース人は手筈通りに、村落に残していた最低限の家財道具、食糧を持って内陸へ避難を開始した。
ヘロタイニア軍が上陸したのは、砂浜のある南部沿岸である。
この事態に、イースの民会はリファニア王へ救援を要請した。そして、リファニア王に当てた親書の最後には、イース全土がヘロタイニアの軍門に下れば、リファニアとネファリア(アフリカ)間の航路は、ヘロタイニア海賊の狩猟場になるだろうという言葉を付け加え、イースの民は全滅してでもリファニア王への忠誠と信義を守るとしめくくった。
この時、リファニア王立水軍の軍船が二隻イースにいた。
イースの特使を伴って、一隻が神々の加護による順風によって異例の速さで王都に舞い戻ったのは、十月一日である。
ヘロタイニア人はイース全土を占拠することも、ましてやイースの住民を根絶やしにする意志はなかったが、イースからのリファニア王に対する親書と、イース側が意図的に送った妙齢の女性特使が涙ながらに訴える救援要請はリファニア側の対応に大きな影響を与えた。
自分達の同族と認識している人々が、自分達のために徹底抗戦を行うという意志表明は、尚武の気質のあるリファニア人を奮い立たせずにはおかなかった。
当時のリファニア王は 現在のオラヴィ王の曽祖伯叔父母「曾祖父の兄弟」にあたるロセニアル王である。
当時、四十代後半のロセニアル王はイース救援を決断はしていたが、王家だけの戦いではなくリファニア全体を捲き込み、王家の財政的負担を軽減する方策を優先するほどには政治に長けていた。
ロセニアル王自らが起草したという檄文が領主に届けられただけでなく、リファニアの街々の辻に掲げられた。
その檄文には、ヘロタイニア人は四百艘(本当は百艘程度)の軍船でイースに奇襲攻撃を仕掛けて、上陸するとイース人の男性を虐殺し、女性子供は体を縛り付けて船外につり下げてヘロタイニアに連行した。
水も食糧も与えられず、体に食い込むロープによる苦しさのあまりに泣き叫ぶ女子供の泣き声は、数リーグも離れたリファニア水軍の軍船にも届き、涙を流しながらリファニア兵は切歯扼腕して復讐を誓った書かれていた。
そして、ヘロタイニア兵士は神殿に火をかけて、必死にご神体を守ろうとする神官を腹を割いて内蔵を抉りだしたとも書かれていた。
いくつかの神殿を略奪して、抵抗した神官を殺害したのは事実だが、他は伝聞による作り話に近い。また、大半の住民は避難して捕まったのは極少数のイース人だけである。
檄文の締めくくりには、ヘロタイニア人はイースを完全に征服した後で、数万の大軍でリファニアに攻め込み同様の行いをリファニア全土で行うであろう。
今は残ったイースの住民が抵抗を続けている。この同胞たる英雄的なイース人を助けリファニア本土を守る戦いに自分でできることで参加するべきと書いてあった。
元来、リファニアに居住するヘロタイニア人との抗争が日常化して、そのヘロタイニア人を駆逐できていないという事実の元に、さらに数万の凶悪なヘロタイニア人の軍勢がリファニアに迫りつつあるという話はリファニア全土にある種の恐慌をもたらした。
そしてリファニア内部の戦いでは完全に中立を保ち、勝者に賛辞を送ることが仕事のような”宗教”組織が聖戦を唱えた。
”宗教”組織にすれば、自分達を認めないヘロタイニア人のロメオル教は、武力を行使してでも追い払う相手である。各地の神殿では、神官がロセニアル王の檄文を越えるような扇動を行った。
さらに、正確な情報量の少ない中世段階のリファニアでは、まるで見てきたようなヘロタイニア人の鬼畜振りがまことしやかに語られた。
数十年たった今でもリファニアの民衆は、それらの話を真実だと思っている。
例えば、焼け落ちた神殿跡に自分達の神殿を建立するおりに、捕らえた数十人のイース人妊婦の腹をさいて胎児を生け贄にするために火に投げ込んだ。
そして、おぞましい儀式が終わるとその胎児の肉を美味そうにヘロタイニア人兵士が喰らった。
あるいは、捕らえた領主(イースには領主は存在しない)の娘である見目麗しい姉妹を数万の全軍で犯した。
姉妹は三日目に死んだが死んでも姉妹は犯し続けられて、最後の兵士が犯した時には、姉妹は腐乱死体になっていた。
ヘロタイニア人の指揮官達は、捕らえたイース人の女性を獣の如く犯した後で、指を切断して尻から太い木の串を刺しいて口までとどかし、その断末魔のうめき声を音楽のように聞きながら食事をするというような話もある。
最もリファニアの住民に嫌悪感をもたらした話は、捕らえた老若男女のイース人を丸太に縛り付けて一斉に火炙りにしたという話である。
リファニアでは、死体はまず仮墓所に土葬する。そして、数年して骨を掘りだして、庶民はその地の神殿の敷地に正式に葬られる。御布施次第で神殿に近い場所になる。有力者は神殿の壁や、床下に納骨される。
この改葬の例外が野戦における戦死者である。攻城戦の場合は、空間的な制約もあって改葬が行われることが多いが、野戦はほぼ例外なく戦死者は斃れた戦場に埋葬される。
野戦での勝者は義務として敗者の戦死者を葬る義務がある。
人間の体は神々が大地からつくったものであるから、肉体は大地に還すという考えと、まれに黄泉の国から来るのが早すぎるとして追い返される者がいるので、しばらくは、霊魂の受け皿として肉体を置いておくためである。
大地に体を還すこともなく、万が一の霊魂の帰還場所としての肉体を焼くことはリファニア人からすれば恐ろしい所業なのである。
そのうえ、火は神々が、生けとし生けるモノの中で、人間のみに与えてくれた贈り物として神聖視されている。
その火で人が人を焼くなどとは神々への冒涜とリファニアの人間は考えている。そのため、どのような大罪人でも、リファニアでは火刑を行うことはない。
リファニアでは宗教的な思想から生きた人間を火で焼いて殺すなどと言うことは、二重の意味で神々への冒涜であり、人間としては行うことの許されない所業なのである。
前述したように幾人かの逃げ遅れたイース人が捕まったの事実はあるが、ほんどの話は与太話である。