第74話〜選択〜
【カイロキシア中部街道 ― 宮都方面】
帝国軍の縦隊は、朝靄の中を無言で進んでいた。
重装歩兵を先頭に、補給車列、魔導師部隊、そして後方に弓兵。
隊列は無駄なく引き締まり、行軍に私情は一切混じらない。
すでにこの街道沿いの村々には、帝国の軍旗が立っていた。
昨日まではカイロキシアの色だった旗竿が、何事もなかったかのように塗り替えられている。
「……静かだな」
先行する斥候が、低く呟く。
実際、街道沿いに人影はほとんど無い。
家々の扉は閉ざされ、窓も板で打ち付けられている。
逃げ遅れた者は、道の脇にひざまずき、帝国兵の通過を待つだけだった。
泣き声は、もう聞こえない。
【宮都近郊・外縁都市/帝国軍占領統治区】
宮都を囲む外縁都市の一つは、すでに帝国軍の管理下に置かれていた。
市門は破壊されることなく開かれている。
その前に設けられたのは、簡素だが厳格な検問所だった。
通行証の無い者は通さない。
だが、それ以上のことはしない。
「入城希望者、次。」
帝国兵の声は低く、抑揚がない。
剣は鞘に収められたままだ。
検問所の脇では、数名の帝国軍士官が簡易机を囲んで地図を広げていた。
「市内人口は推定18000。」
「現在確認できている残留者は、その7割程度です。」
報告を受けた中隊長格の士官が、指で地図をなぞる。
「混乱は?」
「略奪や暴動は無し。
治安は……むしろ安定しています」
その言葉に、別の士官が小さく息を吐いた。
「王政府が消えたおかげだな。
指示が無い分、騒ぎようも無い」
「皮肉だが、事実だ」
中隊長は淡々と続ける。
「上からの命令は明確だ。
損害が出ていない以上、住民に手を出すな」
「捕虜の扱いも同様ですか?」
「当然だ。
無用に拘束するな。
反抗しない者を敵に回す意味はない」
その言葉は、情ではなく計算だった。
少し離れた場所では、帝国の行政官が天幕を張り、帳簿を広げている。
「税の徴収は停止」
「代わりに、労役の割り当てのみ行う」
行政官が確認するように告げると、士官は頷いた。
「食糧の配給は三日に一度。
量は最低限だが、欠かすな」
「了解しました」
「飢えさせるな。
恨みは、あとから必ず返ってくる」
行政官はそう言って、筆を進める。
検問所の外では、通行を許可された市民が静かに市内へ戻っていく。
「……意外と、何もされないな」
小声でそう呟いた市民の声が、士官の耳に届く。
別の兵が眉をひそめるが、中隊長は制した。
「聞こえなかったことにしろ」
「しかし……」
「我々は征服者ではない」
中隊長は低く言う。
「ここは、いずれ帝国の領土になる。
その時に、住民が生きていなければ意味が無い」
兵は黙って頷いた。
市内では、すでに帝国軍の巡回が始まっている。
歩調は揃えられ、必要以上に目立つ行動は取らない。
剣を抜く者はいない。
それでも、市民の視線は確かに彼らを追っていた。
「……帝国の方が、まだ秩序がある」
誰かの囁きが、路地に落ちる。
それを聞いて、帝国兵が振り返ることはない。
秩序は、誇るものではない。
維持するものだと、彼らは知っている。
占領は、血を流さずに進んでいる。
それは慈悲ではなく――
次の統治を見据えた、冷静な選択だった。
【宮都周辺・避難路】
宮都へ向かう道とは逆に、南と西へ伸びる街道は、人で溢れていた。
馬車、徒歩、荷車。
積まれているのは家財というより、持ち出せたものの残骸だ。
誰もが無言で進み、立ち止まる者だけが周囲の流れから浮いていく。
「……新政府は、何か言ってるのか?」
列の中ほどで、疲れ切った声が上がる。
「布告は出た」
隣を歩く男が吐き捨てるように答えた。
「“秩序を維持せよ”“落ち着いて行動せよ”だとさ」
「それだけ?」
「それだけだ」
短いやり取りだったが、周囲の耳は確かにそれを拾っていた。
失笑とも、ため息ともつかない空気が広がる。
「守るとも、導くとも言わない」
「逃げるなとも、残れとも言わない」
誰かが呟く。
「……何もしないってことか」
それが、この場にいる全員の共通認識だった。
避難民の列の前方から、引き返してくる一団が現れた。
荷車を引く者、馬を連れた者。
その表情は、進んでいる者たちよりも、はっきりと暗い。
「戻ってきたのか?」
「何があった?」
声を掛けられた男が、力なく首を振った。
「エリナスだ……」
「国境が閉じられた」
その言葉が、列の中を静かに、しかし確実に駆け抜けていく。
「閉鎖……?」
「どういうことだ?」
「誰も通さないそうだ。
理由も説明も無い。
兵が出ていて、それ以上先へは行かせないと。
反抗した奴もいたが、その場で殺されたよ。」
一瞬、誰も声を出せなかった。
西へ向かう避難路は、最後の希望だった。
中立国エリナスに逃げ込めば、少なくとも戦争からは距離を取れる。
そう信じて、ここを選んだ者は多い。
「……じゃあ、どこへ行けばいいんだよ」
若い男が、震える声で言った。
「宮都へ戻れってのか?」
「戻って、何がある?」
答えは無い。
列の後方では、別の会話が始まっていた。
「なら南へ向かうしかない」
「今からか?」
「今から南へ回れば……」
だが、その言葉は途中で途切れる。
「無理だ」
年配の男が静かに否定した。
「南へ行けば、行軍中の帝国軍と鉢合わせる」
「追いつかれる、ってことか……」
「追いつかれる以前に、挟まれる」
沈黙が落ちる。
西は閉ざされ、
南は間に合わない。
北と東は、もはや語るまでもない。
「八方塞がりじゃないか……」
誰かが呟いたその言葉を、否定できる者はいなかった。
避難民たちは、ようやく理解し始めていた。
彼らが逃げているのは、帝国軍ではない。
まだ見ぬ敵でも、戦争そのものでもない。
――何も決めず、何も示さず、何もしない新しい統治者たちからだ。
「新しい政府になれば、何か変わると思っていたのに…。」
「少なくとも、我々へ道くらい示してくれるんじゃないかと期待した俺がバカだった。」
だが、示された道は無い。
あるのは、閉ざされた国境と、間に合わない選択肢だけだ。
列は、なおも進む。
進む理由が失われたまま、それでも足を止めることはできない。
立ち止まった瞬間、
行き先の無さを真正面から受け止めてしまうからだ。
【宮都 北方高地 帝国軍前進拠点】
宮都を見下ろす北方高地には、帝国軍の前進拠点が静かに広がっていた。
地形を読み切った配置。
天幕は規則正しく並び、歩哨と斥候の動線も無駄がない。
周囲の丘陵にはすでに陣地が構築され、街道はすべて監視下に置かれている。
だが、そこに攻城兵器の姿はない。
投石機も、破城槌も、魔導攻城具も無い。
それ自体が、帝国軍の意図を明確に示していた。
戦うためではない。
逃がさないためだ。
天幕の1つ。
簡易の作戦卓を囲み、数名の将校が地図を確認している。
「包囲は完了しております」
前線参謀の報告に、指揮官は静かに頷いた。
「宮都への出入りは、すべて掌握済み。
主要街道、裏道、抜け道含め、監視に抜けはありません。」
「市内の動きは?」
「新政府の部隊は、城壁内に留まっています。
外へ出てくる様子は無し。」
その言葉に、別の将校が低く鼻を鳴らした。
「出てこない、か。
準備が無いのか、覚悟が無いのか。」
「どちらにせよ、今のところ戦う意志は見えません。」
指揮官は地図の宮都を示す円の上に、指を置いた。
「彼らが望んでいるのは時間だろう」
「体制を固めるためか?」
「あるいは、何もしないまま事が好転するのを待っているのか。」
沈黙が落ちる。
「……いずれにせよ、こちらから問いを投げる必要があるな。」
「攻撃命令ですか?」
若い将校が確認する。
「それは不要だ。」
指揮官は即答した。
「こちらが先に刃を抜けば、相手方に“戦争を始める理由”を与えるだけだ。
我々の目的は、宮都の破壊ではない。」
「新政府の反応を見る、ということですね。」
「そうだ。」
指揮官は地図を閉じ、天幕の外へ視線を向けた。
「戦う意志があるのか。
あるなら、どの程度の覚悟なのか。
――それを見極める。」
「伝令を呼べ。」
命令は簡潔だった。
やがて、伝令役の将校が一歩前に出る。
「新政府宛に通告を出すぞ。」
場の空気が引き締まる。
「内容はこうだ。
明朝、帝国軍は宮都内への進軍を開始する。」
「攻撃ではなく、進軍、ですね。」
「そうだ。」
指揮官は頷く。
「市内の治安確保と秩序維持を名目とする。
抵抗が無い限り、戦闘は行わない。」
「抵抗があった場合は?」
「その時は、相応の対応を取る。」
淡々とした声だった。
「選択肢は、相手に渡してやる。」
「……猶予は?」
「一晩で十分だ。」
指揮官はそう言い切る。
「何かを決めるには短い。
だが、何もしないと決めるには、これ以上ないほど長い。」
将校たちは黙って頷いた。
天幕の外では、夜風が高地を吹き抜けていた。
宮都の灯りが、遠くに揺れている。
まだ灯は消えていない。
だが、それは生きている証ではない。
まだ、終わっていないというだけだ。
明朝、帝国軍は進む。
戦うかどうかは――
その時、新政府が示すことになる。
【宮都内】
宮都の街は、奇妙な静けさに包まれていた。
商店はすべて扉を閉ざし、宮廷の鐘も鳴らない。
かつて人で溢れていた広場には誰一人おらず、
石畳の上を歩くのは、民兵の巡回隊だけだった。
その足取りは揃っていない。
鎧も武具もまちまちで、制服と呼べるものは存在しない。
彼らは互いに声を掛け合いながらも、
何を守り、何に備えるのかを誰一人として理解していなかった。
「……で、俺たちはどうするんだ?」
巡回の途中、若い民兵が堪えきれずに口を開く。
「戦うのか?
それとも、城門を閉めるだけか?」
年嵩の男が、苛立ちを隠さず肩をすくめた。
「知らん。
新政府からは何の命令も来ていない。」
「門の外には帝国軍が到着していると聞くぞ。」
「来ている。
だが、来たからといって――」
言葉はそこで途切れる。
誰も、帝国と本気で戦う覚悟を口にできなかった。
同時に、無抵抗で受け入れると決める勇気も無い。
「戦えば、勝てるのか?」
「バカ言え、相手はあの帝国の正規軍だぞ!
勝てるわけがない!」
「じゃあ、俺たちは何をしているんだ!?」
答えは出ない。
別の通りでは、民兵たちが低い声で言い争っていた。
「城壁に配置を増やすべきだ。」
「いや、その必要はない。
あれは示威で、帝国は本気で攻める気は無いに決まっている。」
「だったら、なぜ包囲なんて……」
「……逃げ道を塞いでるだけだろう」
その言葉に、全員が黙り込む。
逃げられない。
だが、戦う理由も無い。
それが、この街の現状だった。
【宮都・北門】
北門では、門番たちが交代もせずに持ち場に立ち続けていた。
城門は閉じられており、まだ落とされていない。
門の外には、帝国軍の小規模な部隊が姿を見せている。
距離を保ち、武器を構えることもなく、ただそこにいる。
「……開閉について、話をしたいそうだ。」
見張り台から降りてきた門番が、仲間に告げる。
「攻め込んで来るのか!?」
「いや、戦いに来たって顔じゃなかった。あくまで宮都内に入りたいんだと思う。」
「だが、奴らを入れたら降伏宣言と同じじゃないか。」
「だったらどうしたと言うんだ。
俺らだって最初から籠城するつもりはないだろう。」
門番の一人が、乾いた笑いを漏らす。
「食糧はどれくらい持つ?」
「市内全体なら……数日だ。
配給すらやりようがない。」
「じゃあ、閉じこもっていても意味は無いじゃないか。」
門の向こうで、帝国軍の士官が一歩前に出る。
「通告がある。」
穏やかな声だった。
「明朝、我々は市内へ進軍する。
その際に無用な戦闘や破壊は避けたい。
諸君らには門を開けておいてもらいたい。」
門番たちは顔を見合わせる。
「拒否すれば?」
「拒否する理由があるなら、聞こう。」
士官は淡々と答える。
「無ければ、問題は起きない。」
それは脅しではなかった。
確認だった。
「……上に、伝える。」
門番はそう言うしかなかった。
だが、その「上」が、今どこにいるのか。
誰が決断を下すのか。
それを知っている者は、もはや誰もいない。
【宮都 市内】
日が傾くにつれ、街の静けさは重さを増していく。
市民は家に籠もり、民兵は巡回を続け、門は閉じられたまま、だが守る意志は定まらない。
誰もが感じていた。
戦争は、もう城壁の外で終わっている。
ここに残っているのは、
戦うかどうかを決められない人間たちと、
決断を下す者の不在だけだ。
宮都は、まだ陥落していない。
だが、都市として機能するために必要なものは、
すでに失われていた。
残されているのは――
選ばされる時間だけだった。




