第10話~帝莎条約~
ー
ーー
【ウッドランド山脈 帝莎国境 白堊宮 雷鳥の間】
ーー
ー
ヌーナ地方では原則として各国国境に関所などの一般施設の他、それを跨ぐかのように作られた外交施設が存在する。
通行人はまず一般施設の通過手続きを行い初めて国境へと歩みを進めることができる。(この世界で“国境”とは一般施設を含めた周辺一帯を指すことが多い。実際のそのラインを示す“国境”は多くの場合“ボーダー”と呼ばれる。)
ボーダーへと辿り着いた人々を迎えるかのように聳え立つのは各国境の外交施設である。
これらの施設は条約交渉・調印・首脳会談といった文字通り外交でしか使用することができないため、通常は門が固く閉ざされ、協会の魔導師によって警備が行われている。
通行人はそれら外交施設の正面前庭・建物を横手に見ながらボーダーを越え、出口にてまた一般施設通過の手続きを行うこととなる。
帝国・サビキア(莎国)ボーダー上に存在する外交施設は、その穢れのない白い見た目から“白堊宮”と呼ばれている。
白堊宮で一番豪華で厳かな部屋は雷鳥の間であり、通例、ここが各種外交史の舞台となる。
帝国皇女カテリーナは朝からそこにいた。
今の所、戦況は彼女の味方とはなっていなかった。
「我が国と帝国との溝はどうやったって埋まることはあり得ません。
ですが、両国の仲を今より悪くしない努力は双方にとって可能なことです。」
サビキア王子アルド・アーフェルカンプはその若さとは釣り合わないほど政治手腕に長けた人物と評価されている。
それを証明するかのように、交渉の主導権は彼に握られていた。
「妾も其方と気持ちは同じだが、だからと言って易々と艦隊を下げる訳にはいかない。
帝国が艦隊を下げるのはサビキアの脅威が無くなってからだ。」
サビキアは帝国に対して不可侵条約締結の条件として、
1. 展開中の帝国海軍の即時撤退
2. ブニーク沖の魔法陣の即時閉鎖
3. カイロキシアに対する一切の援助禁止
4. 国境に配備する戦力の相互上限の策定
を提示してきた。
正直、帝国にとって飲めるものと飲めないものは半々であった。
2は既にグリンダ一門が向かっているため解決されている。
4もサビキアは“侵略”戦力を削りたいのであって“防衛”戦力という観点から言えば充分な数は確保できる。
問題は1と3だ。
1、艦隊の即時撤退はすなわち制海権をサビキアに譲ることを意味し、そんなことになれば帝国は自身の横っ腹を無防備にして眠ることになる。
3、国境を接する中で唯一の友好国であるカイロキシアがイェンシダス(サビキアと友好的)に敗北した場合、安全保障上大きな問題となる。
上記2点は決して譲ることのできない条件だった。
「分かりました。
それではこうしましょう。
艦隊の撤退は諦めます。
その代わり、展開している艦隊の削減並びにカイロキシアへの援助を凍結してください。」
「折角の提案だが、カイロキシアへの援助の凍結は了承しかねる。
周辺唯一の友好国を簡単に見捨てることは出来ぬ。」
カテリーナは譲らなかった。
「ふむ…。
困りましたねぇ…。
殿下とは分かり合えると思ったのですが。」
アルドは大袈裟に困った風を装った。
帝国の圧倒的不利な状態で交渉は完全に停止した。
「殿下、このままでは…。」
後ろからフィアンツが囁く。
「分かっておる。
だがどうにもならん。」
完全にお手上げ状態のカテリーナをフィアンツ達が心配そうに見守る。
「少し休憩しましょう。」
アルドの提案はカテリーナにとって有難いものだった。
「そうしていただけると助かるな。」
交渉団の控え室は通常、会議を行う部屋の両隣にある。
白堊宮も例に漏れず雷鳥の間の両隣に双方の交渉団控え室が設置されていた。
帝国側交渉団が控え室で条約交渉の突破口を探っているその時、警備の魔導師が足早に入室してきた。
「失礼致します。
殿下、帝国より早馬が参っております。」
「すぐに通してくれ。」
フィアンツに言われ、魔導師は使者を部屋に入れて退室した。
「話せ。」
カテリーナが促す。
「ブニークが異世界の敵に占領されました。」
室内が騒然とした。
「確かなのか!?」
フィアンツが使者の肩を掴む。
「昨夜、ブニークの方角で大きな爆発音と柱のような雲が確認されたとの報が入った後、一門のセオドラ様とエヴァノラ様が斥候とともに現地へ向かい、その目でご確認されました。」
「老師達と魔法陣はどうなった?」
カテリーナが尋ねる。
「魔法陣の閉鎖は失敗しました。
それどころか制御結界を含む周囲一帯が敵に占領されており我が方は接触すらできない状況で老師達の安否も不明です。」
控え室に緊張が走る。
「この事を知っているのは?」
「起こった事が事だけに既に広がっております。」
「これでサビキアとの開戦は避けられなくなった…。」
カテリーナは天を仰いだ。
異世界からの侵略者の相手をしつつ隣国との戦争に勝つ余裕が帝国には無い。
「話はそれだけか?」
「いえ、皇帝陛下から書簡を預かって参りました。」
使者が書簡をカテリーナへ渡す。
読み進めるうちにカテリーナの表情がみるみる強張っていく。
「陛下はなんと?」
心配したフィアンツが聞く。
「サビキア王都並びに王宮への奇襲攻撃が今夜決行される。」
「なっ、なん…、だと…。」
フィアンツは水の入った杯を落とした。
「それは重大な戦争行為ですよ…!!!!」
「そんなことは妾にだって分かっておる。
それよりも、これは誰が決めたんだ?」
使者に当たっても仕方ない。
皇女は怒りを殺して使者へと問う。
「武官会議の席上で陛下が最終的に決断したと…。」
「軍人達め、血迷ったか!?」
カテリーナはグラスを床に叩きつける。
「わ、我々は、ど、どう致しましょうか…?」
普段は頼りになる副官も、このような報せを前にしては平常心ではいられない。
「その点も記載されていた。
交渉は継続だそうだ。」
彼女はフィアンツへ書簡を手渡した。
フィアンツは食い入るように読む。
「申し訳ありませんが意味が分かりません。」
そこに交渉を継続する理由は書かれていなかった。
「妾にも陛下の考えは分からん。
何か策でもあることを願おう。」
「ですが殿下!!!!
早ければ明日には戦争が始まるのですよ!!!!!!」
フィアンツは書簡をカテリーナへと突き出した。
その手は震えていた。
「分かっている!!!!!!!
だが、どうしろと言うのか!?
今から相手の元へ行って全てを話せと言うのか!?」
それは無理な話だ。
この場にいる全員が理解している。
「そうは申しておりませんが…。」
「ならば、せめても交渉には臨むべきであろう。
ここで引き上げれば、それこそ相手の勘繰りを誘うことになろうぞ。」
この場の誰よりも帝都の決定に怒りを抱いていたのは他ならぬカテリーナだった。
ー
ーー
【ウッドランド山脈 帝莎国境 白堊宮 サビキア交渉団控え室】
ーー
ー
「お見事です、王子。」
外務官僚としてサビキア代表団の実務トップとして随行しているエフモント・ファン・デン・フーゲルはアルドにグラスを手渡す。
中には王子の大好物であるオレンジの果実酒が注がれていた。
「祝杯はまだ早いですよ、公爵。」
そう言いながらもしっかりとグラスを受け取る王子。
「ご謙遜を。
もしもの場合に、と国王陛下から随行を命じられましたが、吾輩が出る幕はございませんな。」
ガハハと笑いながら弛んだ腹を揺らす。
既に彼は何杯目かの酒を腹に流し込んだ。
「呑み過ぎるなよ、エフモント。
まだ交渉は中盤だ。」
「とは仰いますが、フーゲル卿の見解もお間違えではないかと…。」
資料の整理をしていたエルシェ・オルレウスが言う。
彼女もまた外交官僚である。
しかし、彼女は平民だ。
「おやおや…。
エルシェもそんなことを言い出すのかい…?」
アルドは少しばかし驚いたようだ。
「向こうは外交のがの字も知らない皇女です。
事実、向こうに巻き返す余地はありません。」
帝国皇帝からの書簡を受け取った彼の父であるサビキア国王は、外務官僚だけではなく敢えて代表として息子も派遣した。
そうすれば向こうも釣り合いを考えて娘を出して来ざるを得ないと踏んだからだ。
年長で、かつ場数を踏んでいるだけあり、お互いの子供同士ならアルドが有利に交渉を進められるだろう。
そう国王は考えたのであった。
「しかしまぁ、二人の意見は置いておいても、確かに相手側に外交職員と思しき者はいなかったな。」
「外交職員と申しましても、帝国には我が国のように専門の人間がいる訳ではございませんが、まさか皇女お一人だけを送り込むとは…。」
エフモントも帝国の対応には驚いていた。
「交渉する気がないのだろうか?」
「此度は帝国からの要請で設けられた席。
それは考え難いですけれども…。」
にしてもあの布陣はないだろうとエフモントは言いたげだった。
「持ちかけてきたのは帝国だが、我が国も渡りに船だったことは確かだよ。」
「左様にございます。」
こちらとしても相手が結んでくれるのなら良いじゃないかと言外に伝える王子。
そう。
サビキアとて帝国と一戦交える気は無いのだ。
何だかんだ言って、帝国はこの世界の覇権国。
弱小国なら直ぐにやられて終わりだが、サビキアと帝国が戦争をしようものなら短期・軽微で済む訳がなく、文字通り血で血を拭う大戦になる。
だが、これはどっちが勝つ負けるというだけの問題ではない。
戦争とは費用は勿論のこと、民衆の気持ちや家庭のある者の生き死にの問題でもある。
そんな簡単に戦争ができる筈はない。
避けられるのなら避けたいに決まっている。
「このまま順調に進めば有難い話じゃないか。」
そう言って王子はグラスを傾けた。
「王子は素晴らしいお人でございます。」
エフモントは目頭を押さえる。
感動してか、酒に酔ってか、顔は赤かった。
「君も程々にね…。」
アルドは苦笑いで相手の顔を見遣る。
控え室のドアが乱暴に開け放たれたのはその時だった。
「何者だ!?」
護衛の兵に止められたのは協会の魔導師でも外交団でもない男だ。
突然の出来事にエフモントの酔いも覚めてしまった。
「動くな!!!」
外交団の護衛も王子を守るように隊形を組む。
男の後ろからは協会の魔導師が挟む。
「火急の報せです。」
男はそれでも身分を明かさず、持っている紙をアルドへ差し出した。
「皆、退がって。」
「ですが王子!!」
「彼は僕の連れだから大丈夫。」
そう言って王子は男に近付いた。
紙を受け取り、そこに記されている内容を確認する。
目を動かすごとに王子の眉間に皺が寄っていく。
「これは本当なのかい?」
王子は目だけを男へと向ける。
「既に複数人が確認をしております。
先程、帝国の早馬もこちらに到着しておりましたので間違いありません。」
「ご苦労様。
君は直ぐに任務に戻ってください。」
「陛下には何と?」
帰る前に男が問う。
王子は直ぐに返答せず、椅子に腰掛けた。
周囲はその様子を見守る。
「条約は結ぶと伝えてください。
手負いの虎は刺激しないのが得策だ。」
「承知致しました。」
王子の伝言を受けた男はさっさと退室した。
「王子、今のは…。」
呆気にとられる一同の中で唯一エフモントが反応する。
こういうところが歴戦の年の功だろう。
「我が国の情報員です。
彼が持って来てくれた情報によると、帝国は異世界の軍勢に領土を占領されたようですよ。」
「なっ…。」
エフモントは王子の言葉が信じられないようだ。
「嘘みたいな話ですが、本当のようです。」
王子は再びメモに目を落とす。
「帝国南東部のブニークという街の近くみたいですね。」
事態の急変に対し、エフモントが今後の方針を尋ねた。
「魔法陣を閉じることが条約の条件ですが…。」
如何致しますか?とエフモントは目で訴えてきている。
「帝国は今や深手を負った虎です。
これ以上は刺激できません。
こちらから条件を撤回しましょう。」
王子の考えを受けて、外交畑を歩んできた老兵は押し黙った。
王子も彼が黙った理由を理解している。
彼は何が最善の一手かをその脳味噌で考えているのだ。
だからこそ、彼が口を開くまで待った。
普段は酒飲みの中年だが、彼の頭脳と能力は王子も評価している。
エフモントが口を開くまで、室内がまた静寂に包まれた。
「それが最善の道でしょうな。」
数分後、彼はポツりと呟いた。
「王子の仰る方向で話を進めましょう。」
顔を上げて再び賛同の意思を伝える。
サビキアが誇る外交官が自分の判断を支持してくれたのだ。
王子は満足そうに頷く。
王子とエフモントが一致した方針に異を唱える者はいない。
「そろそろ時間だな。
それじゃ行こうか。」
ー
ーー
【ウッドランド山脈 帝莎国境 白堊宮 雷鳥の間】
ーー
ー
交渉会議は夕刻に再開された。
「殿下、平和への努力の証としてサビキアは大きな一歩を踏み出そうと思います。」
カテリーナは目で続きを促した。
「平和への大きな壁となっていた制海権争いを両国艦隊撤退という形で乗り越えましょう。」
開始早々アルドから大胆な提案が飛び出した。
『話が旨すぎる。』
カテリーナは特に冷静さを保った。
「壁は1つだけではない。」
「カイロキシアへの援助凍結に関しても、武器・資金の援助と輸出のみ凍結していただければ我が国は何も申しません。」
「確かに大きな一歩だ。」
カテリーナがそう言うとアルドは謝辞とともに笑みを浮かべた。
「他にも大きな一歩はあるのか?」
「ありますとも。
比較的円滑に進んでいた魔法陣の閉鎖に関してですが…。」
『来たか…!!』
カテリーナは身構えた。
「我が国からの魔法陣に関する一切の要求は白紙に戻すことにしました。」
帝国交渉団は盛大な肩透かしを食らった。
「条項を削除するということか?」
「左様です。」
「妾には大きすぎる一歩に思えるのだが?」
「帝国の事情を考慮することに致しました。」
『やはり、奴らは把握している。
でも、なぜだ…!!!!』
「我が国としては、困っている相手の傷口に塩を塗り込むような真似はしたくありません。
それとも、殿下は戦乱の世がお好みで?」
カテリーナは後ろの方を窺う。
フィアンツらは彼女へ頷き返す。
再度顔を正面に向けると答えを待つ王子の顔が目に入る。
カテリーナは腹を括った。
「よし、提案を有り難く受け入れよう。」
カテリーナの答えを聞いて王子は満足そうに笑みを浮かべる。
同時に、どこかホッとしたような表情も浮かべている。
「それでは、次に国境への配備兵力の上限を決めましょう。」
交渉は最終盤へと突入した。
同日深夜、平和への第一歩として帝国・サビキア両国全権交渉団は帝莎条約(正式名称"帝莎相互不可侵条約")に調印した。
これにより両国は10年間(期限前年に破棄通告が無ければ自動的に5年延長)条約上は双方の侵略を気にせず済むことになる。
長年の帝莎の友好関係から考えると、これは非常に衝撃的な出来事であり、特に帝国の友好国に与える影響は計り知れない。
裏を返せばそれだけ今の帝国は窮地に立たされているとも言えるが…。
しかし、両国の歴史的な歩み寄りに関わらず、残念ながら翌日ヌーナ地方を駆け巡ったのは条約締結の報せではなかった。




