シースカイ熱帯水族館
俺の弟は低血圧だ。
誰かが起こさなければ、朝飯や昼飯を抜いて、夕飯ちょっと前までは普通に寝ている。母に至っては、食費を浮かす為に眠る弟をわざと起こさない時もあるぐらいだ。
そんなわけで、今朝も弟の修一郎はベッドでぐーすか寝ているのだが……。
「なぁ修一郎、水族館行くとか言ってなかった?ほら、友達と」
「ん……うん……そう…………」
瞼をぴったり閉じたまま、修一郎は枕に押し付けた顔をこちらに向けた。すると、丁度窓から入る光が顔面に射して、彼は唸ってから布団に潜る。
静かになる。
「弁当作ったけど、いらないなら、昼飯はそれでいいか?」
『明日、水族館行ってくる!』と、とても嬉しそうに言うから、天気予報も晴天を予測しているし(事実、目映い晴天だ)、弁当を作った。
が、いらなかったようだ。
『待ち合わせしてるんだ。だから、今日は早く寝るね』とか言っていたくせに。
待ち合わせ時間は一体いつなのだろう。
「お前、待ち合わせはいつ?」
「……待ち合わ……せ?……えっと…………朝のぉ…―」
朝の?
「―……………………ああああ!!!!!!」
修一郎が飛び起きた。
お……ヤバいのか?
「お兄ちゃんの馬鹿ぁ!!!!」
リビングを往復し、着衣と食事をしながら器用に怒る俺の弟。
「ほら、寝癖が酷い。これでも飲んで待ってろ」
「うん」
しかし、俺が温めた牛乳入りマグカップを渡すと、席に座って大人しくなった。
それにしても、大学生になったと言うのに、彼女を作るどころか、彼女が欲しいとも言わない。
いつも友達の話ばかりだ。
しかし、何だか幸せそうだ。
「絶対に怒ってるよぉ……」
俺がぴょんぴょん跳ねた髪を櫛で解かしていると、修一郎は鼻を鳴らす。
彼曰く、待ち合わせは約30分前。許容範囲ギリギリだ。
直ぐにメールしたらしいが、返事が来ず、電話すればいいが、その場のノリに弱い友達が拗ねて「今日は水族館行くのやめよ」と言われるのが恐いらしい。携帯を閉じたり開いたりしている。
「俺の車で送るから」
ちょうど、俺の本拠地である大阪から東京まで運転してきた愛車が近くのパーキングにいる。
「ありがと、お兄ちゃん」
今にも泣きそうなくしゃくしゃな顔で修一郎は頷いた。
「ったく、ありえねーよ!」
「ご、ごめん……」
修一郎は見えない耳を垂れてひたすらに頭を下げる。
秋はむすっとし、しかし、ペコペコする修一郎に溜め息だけ吐いてチケット売り場に歩いて行った。
「秋っ……」
おろおろと居場所をなくして狼狽える修一郎。離れていく秋に何も言えずに縮こまった。
「いつまでそれ?入場料が勿体無いんだけど」
「え?」
修一郎は顔を上げ、
「……わっ!?」
小さな段差に気付かずに躓く。
フワリと浮いた気がして、生まれた微かな風が彼の髪を逆立てた。
「おい!」
と、傾いた修一郎をすかさず秋が抱き止めた。反動で修一郎の顔が秋のジャンパーの胸元に埋まる。
秋の麦穂の匂いだ。
「ふぇっ……」
すると、修一郎は目尻に涙が溢れてくるのを感じた。じわじわと溢れ出てくる。
しかし、止められない。
「あ……うぅ……」
大好きな秋に泣き顔なんて見せたくないが、喉が締め付けられるようになって、修一郎は嗚咽した。
「修一郎?どうした?」
秋が修一郎を隅に連れていく。
「具合悪かったのか?」
苦しいよ。
痛いよ。
「ごめん……秋。寝坊して……ごめん」
「遅刻のこと?」
コクコクと修一郎が頷いた。
耳まで赤くして、彼は自業自得な恥に耐える。
「お前、さっきからそんなこと気にしてたわけ?」
フゥ……。
マフラーの下から漏れる秋の吐息。
「バーカ。もしお前が今日の約束忘れて丸一日俺を待ちぼうけさせてたら、お前のこと親友とも恋人とも思わない。寝坊助のお前が1時間遅れなだけマシなんだよ」
秋は修一郎の額を小突くが、
「…………今……こ……恋人って……」
修一郎は口をパクパクし、
「……………………」
秋は一瞬で頬を赤くして眉を曲げて、
「馬鹿修一郎!!!!」
秋は叫んで館内をバタバタと走って行った。
ベートーベンの第九が鳴り響く。
俺の携帯だ。
「修一郎ぉー?」
『ぼ、ぼぼぼ僕、僕っ』
僕僕詐欺だ。
「僕さん、どうした?キョドり過ぎ」
『僕ね!』
だからどうしたんだ、修一郎。
『恋人だった!』
「は?」
“恋人だった”?
過去形なのにそんなに興奮するのか?
『僕、恋人って思われてた!』
天然さんの発言じゃないか。
てか、何で唐突に恋人話?
男友達と水族館で何がどうなってるんだ。
「そっか、良かったな。……で、水族館は楽しんでるか?」
『秋なら許してくれたよ。でも、迷子になっちゃった』
「それはお前がか?秋君がか?」
『秋が』
つまり、“お前が”迷子か。
「電話で『どこどこの前で待ち合わせ』とか言って、早く秋君に保護して貰うんだ」
『へ?……なんか、僕が迷子になっているように聞こえるけど…………』
「気にするなよ。あ、お兄ちゃんは今日は帰り遅くなるからな。暗くなる前に帰るんだぞ。戸締まりもきちんとな」
『…………』
しかし、修一郎から返事がない。
「修一郎?」
お兄ちゃんがいないと寂しいのか?
『……………………僕も外泊してもいい?』
「え?」
『あ、その、僕は水族館好きだから、折角だし、夕方の部も見たいなって……。そしたら、帰り遅くなるから、外泊…………』
「外泊?」
と、肩をつつかれた。
隣を見れば、さっきまでスルメをしゃぶっていた友人が俺を見上げていた。
俺は電話口を手で押さえて、何か言いたそうな彼に向き直った。
「何?」
「弟さんが大人の階段上ろうとしている感想は?」
下世話な。
顔が笑っているぞ。
俺は返事の代わりに彼の額にデコピンした。
「いっ!」
「で?外泊って、一人でか?大丈夫なのか?」
『僕、大学生だよ?外泊ぐらいできるって』
「できるできないじゃない。夜の外出は危険だ」
『お兄ちゃんに言われたくないよ。それに、僕は男だから安心してよ』
最近は男女関係なくなってきているんだぞ。
ただでさえ、お前は男だが……男のはずなのだが――
「できるできる、できちゃう!?」
ああ、今日の俺の友人はよく下ネタに走るな。
デコピン2連打しておく。
「いだっ!!!!」
『へ?誰かいる?』
「友達だよ。東京の友達」
『友達……友達と泊まるから!ね?いいよね?』
「秋君?」
「なーんだ、男」
“男”で残念がるなよ。
『秋と一緒ならいい?』
「秋君がいいなら」
『多分……』
多分かよ。
まぁ、友達がいるなら安心だろう。
「秋君に迷惑かけるなよ。早く保護して貰うこと。いいな?」
『はーい。飲酒運転は駄目だよ、お兄ちゃん』
「分かってる」
『ばいばい』
「ばいばい」
プツリと電話が切れた。
「ねぇねぇ、総一郎君」
腰をくねらせ、上体を起こした彼がテレビを見たまま俺を呼ぶ。
「んー?」
「君の弟さんは男も守備範囲?」
……………………。
「……ないない」
たとえ美少女風美少年でも、修一郎は普通に男友達に囲まれて育った……。
女友達がいない。
いや、いないならいないでいいけど……。
話題はいつも、友達の話……。
「思い当たる節でもあるわけ?」
「…………ない。修一郎はノーマルだ」
「ノーマルぅう?」
言い方が何か気持ち悪かったから蹴りを入れておいた。
「いだいよっ!」
「語尾を伸ばすな。気持ち悪いだろ」
「これは俺のチャームポイント!」
何言ってんだか。
はっきり言って、今日のお前は全然可愛くないぞ。
ベッドに寝て、スルメを噛んで、気儘にテレビを見て、俺につまみとジュース頼んで……お前はベッドが住まいのおっさんか!!
「でもさ、もし、弟さんにそっちの気があったらどうするの?」
究極の質問?
「“そっち”って……」
「俺とかね」
駆け落ちのことか。
「夕霧とはどうなんだ?」
じっ。
話の逸らし方があからさまだったか?
東京の友達こと洸祈が俺を気だるげに睨んできた。
「陽季?もう1週間もあってないし。てかさ、最後に会ったのが居酒屋ってどうよ」
OLさんみたいな話し方だな。愚痴ですかね?長くなりそうだし。
「居酒屋で飲んで別れるのは普通だ。普通」
よくあるワンシーンだろ。
「普通じゃない!恋人同士が居酒屋で別れるなんてあるかってんだ!」
確かに二人は恋人同士だろうが、それ以前に大人の男同士なんだから構わないじゃないか。
「『あ、終電に遅れるから行かなきゃ』とか言って、キスもしないで帰っちゃったんだよ!?酷いよね!?」
「忙しいんだろ?前に調べたら、月華鈴って日本舞の正式団体らしいな。海外ではかなり有名らしいぞ」
「だからって、恋人を蔑ろにするのはいけないと思う。今朝もモーニングコールしてくれたけど、総一郎君と会うって言ったって、『楽しんでね』としか言わないんだよ!?え、何!?総一郎君と楽しめって!?浮気してほしいの!?ねぇ!?」
「知らん。あと、俺はお前の浮気には参加しないからな」
それにモーニングコールで不平を言う奴は天然さんだろうとムカつく。
なんだよ、モーニングコールって。ラブラブ過ぎだろ。
こんなノロケ話を普段から聞いているであろう洸祈の周りの奴らは可哀想だな。
「えー……そりゃあ、どっちが受けか攻めか困るけどさ。ってことで、俺が攻める!!!!」
「…………………………………………は?」
「さ、総一郎君、浮気しようか」
二人の割り勘で入ったホテルのツインルームで、俺は洸祈にベッドに押し倒された。
ベッドでぐーたらしていたのに、突然、元気になってるんですけど。
「は!?」
「陽季以上のテクで総一郎君をメロメロにしてあげる」
はいっ!?
洸祈は頬を赤くして俺に被さり、携帯を握る俺の手を掴む。
「ちょっ、なんでお前が攻めなの!?おかしい!」
「これ、俺の『やってみたいことトップ10』に入るんだよね。だから、攻められて、総一郎君!」
洸祈のキラキラの瞳はこれからは俺のトラウマになるなと思った。
嗚呼、修一郎。友達と泊まっていても襲われることってあるんだぞ。
いや、本当に。
「秋」
「ん?」
「イルカ好き?」
「嫌いじゃない」
「僕は秋が好き」
「……あっそ。だから?」
「手繋ぎたい」
指先で秋の手の甲に触れる修一郎。
彼は秋のつれない腕をそっと叩き、ベストのポケットに消えた指の根本を撫でる。
ぴくりと秋の手が震えた。
「秋、今なら誰もいないから」
お昼時であるのと、アシカショーが開催されているのもあって、平日のイルカゾーンには人気がない。
ぼんやりと青く薄暗い室内でイルカを見詰める秋を見付けた修一郎は、長年の苦労と苦悩の末にどうにか手に入れた秋の恋人の座を生かすことにした。
しかし、雰囲気に弱い秋だが、まだ落ちない。
水族館をデートスポットにするには早すぎたのかもしれない。
修一郎はポケットから手が出そうにない秋に手を繋いでもらうのは諦め、イルカを見上げた。
灰色のバンドウイルカ。
お腹は白い。
体長は目測3メートル。
水の中でも優雅に泳ぐ哺乳類。
同じ哺乳類で泳ぎが苦手な修一郎は彼らに羨望の眼差しを向けていた。
「イルカって自分達だけの言葉があるらしいんだと」
「え?」
秋が唐突に語りだした。
「まだ解読出来てないんだって」
「そうなの?」
世界には人類の力の及ばない未知がまだまだあるようだ。
「今、こいつらは秘密のお喋りしてるんだ。もしそのお喋りに参加できたら、俺はこいつらが見てきた世界について聞いてみたい」
「見てきた……って、水族館のイルカは生まれも育ちもここだと思うけど」
「水族館のイルカの話じゃなくて、イルカ全体の話をしてんの。解読は出来てないけど、イルカには意志疎通方法がある。話ができたら、海の中の世界を聞きたい」
青と白。
透き通った世界。
光の満ちた世界。
水を切って波を作り、前へ前へ。
「きっと綺麗なんだろうね。綺麗過ぎて、イルカも言葉で言い表せないかも」
「かもな」
自然な笑みが秋から零れ、それを見た修一郎は、いつの間にか秋に手を握られていたことに気付いた。
「今、僕の視界に映る景色も言葉で表せないや」
「…………俺も」
二人は互いにそっぽを向き、けれども、手は放さなかった。
「リュウグウノツカイは凄かった」
「実際に泳ぐ姿を見てみたいね」
「ああ」
4メートル超の銀白色の細長い体を持つリュウグウノツカイは人魚伝説に基づくとされている。普段は体を立たせるようにして宙に留まり、動く時は体を横にし、その背鰭を波立たせて進むと言われている。
その標本には秋も修一郎も釘付けにされた。
勿論、“熱帯”の名の通り、数多くの熱帯魚も見た。
「ライオンフィッシュは可愛かったよね!?」
「ライオンフィッシュ?」
「ほら、秋が、全然動かないオジサンだなぁって言ってた魚」
「あー……あ、ちゃんとたてがみがあるのに百獣の王とは程遠い顔してたアレか」
東南アジアに分布する古代魚の仲間であるライオンフィッシュは、たてがみのようなヒゲと大きな口を持つ熱帯魚だ。敵に襲われると浮き袋を震わせて「グウグウ」と鳴くのも特徴である。
チンアナゴとスッポンモドキを一番楽しみにしていた修一郎だが、古代魚エリアでライオンフィッシュやブラックゴースト、ポリプテルス系にハマってしまった。
「これ!ライオンフィッシュのぬいぐるみも買ったし、幸せだよ」
「でかい買い物だなって思ったら、ぬいぐるみか」
修一郎はつぶらな瞳のデフォルメされたライオンフィッシュのぬいぐるみを買い物袋から出して抱き締めた。
「秋、可愛いよぉ」
にこにこ上機嫌の彼は臨海公園のベンチで秋に凭れる。秋は約30センチ立方のナマズ型のライオンフィッシュに至福の顔で頬を擦り付ける修一郎を見下ろし、仏頂面でポケットを探った。
「やるよ」
「…………へ?」
ミノカサゴのストラップだ。
水滴に似せたものを紫の手のようなもので抱えているミノカサゴ。
「これ……秋が僕に?」
「そうだよ。お前の為に買ったんだから」
「!」
慌ててライオンフィッシュを袋にしまった修一郎は秋が摘まんでいるストラップを手のひらに乗せた。
「秋……」
「…………あのさ、携帯の場所聞いた時、怒鳴ってごめん」
「それは……僕の方こそごめん」
「なんでお前が謝るわけ?」
「…………あの時、僕……あのね、怒らないでよ?」
ストラップを早速携帯に付ける振りをしながら、秋から視線を逸らす修一郎。
「……怒らない」
「…………秋から電話来て、沢山沢山、話をしたくなって……ああいうこと言ったのは、僕が秋ともっと話をしたかっただけなんだ」
「……それだけ?」
「………………うん」
「お前は俺と会話を長引かせようとした。そう言うこと?」
直球だが、そうだ。
修一郎は覚悟を決めてコクリと頷く。
「ごめん……焦ってたの分かってたのに…………でも、言ったことは――」
「いい。俺だって修一郎と話をしたいから」
「え……!」
妄想内の台詞が聞こえて耳を疑った修一郎だが、真剣な表情で秋に見詰められていて固まった。
「俺って言葉足らずだし、何でも中途半端だ」
「違う!秋は言葉足らずだけど、何でも中途半端なわけじゃないよ!」
修一郎は言葉足らずには納得するが、中途半端だと過小評価する秋に声を荒げる。
「秋はカッコいいよ!目標に向かって勉強頑張ってるし、遅刻しないし、僕のこと許してくれるし!ストラップくれたよ!」
「それはお前が好きだか…………」
………………………。
秋、沈黙。
修一郎、沈黙。
………………………。
「その……できればなんだけど……できれば……」
修一郎が携帯を握り締めて言う。
「何?」
秋は海岸線を見て返事をする。
「夕方……夕方の部……夜行性の魚を見たくて……」
「今日はお前の為に空けた日だからいい」
「…………ありがとう」
もじもじ。
修一郎は緩む頬を見せたくなくて俯き、秋の体温を肩から感じる。
「そ、それで、あのさ、その、僕ね、僕と、あのさ……」
「あのさ――で?」
「あの……」
もじもじもじもじ。
修一郎が縮こまる。
「修一郎?」
「夕方の部見たら帰りが遅くなるから……」
「俺は気にしなくていい。そこらのビジネスホテルに泊まるし。お前ならちゃんと送るよ」
「だ、駄目!」
修一郎は思わず秋の袖を掴んでいた。
「一人で帰りたいのか?だけどお前、それこそ駄目だ。絶対に」
念を押す秋。しかし、その言い方が少しだけ修一郎の勘に触る。
「な、なにさ。僕はもう18歳だよ?」
「じゃあ――」
修一郎は秋に片手で両腕を掴まれてベンチに押し付けられていた。
指先から買い物をした紙袋がベンチに落ちる。そして、携帯が落ち掛けた時、秋の片手がそれを捕まえた。
「あ、秋……っ」
「俺すら押し退けられないだろ?」
「あうっ………………秋っ」
「ちょっ、泣いてる!?」
「だって……だってぇ!!」
「ごめん!」
瞳を潤ませた修一郎に秋は慌てて謝罪する。
修一郎を解放し、頭を下げた。
「俺、お前のこと心配で。だから……」
「僕だって秋が一人で泊まるなんて心配なんだよぉ!」
「俺が一人で泊まるのが?」
「そうだよ!秋だって、誰かに掴まれたら押し退けられないよ!」
そして、秋は修一郎に腰に抱き着かれる。
「うわっ!?何だよ!?」
くっつく修一郎を引き剥がそうとするが離れない。
「修一郎!」
修一郎の抱擁は案外しぶとく、途中から剥がすのを諦めた。そして、彼は修一郎の好きにさせ、立ったままで爪先に痺れが来たとき、やっと修一郎に体の拘束を解かれた。
散々、秋の匂いを嗅いだ修一郎は満足そうで、泣き顔は笑顔になっていた。
「夕方の部は7時からだけど、あそこのビルで夕食食べない?」
「いいけど……」
「あと……今日は一緒にホテルに泊まらない?」
頬を赤くし、とうとう修一郎が言う。
ぽかんと口を開ける秋。
…………耳が赤い。
「泊まるって……」
「一緒の部屋で」
座りながら足の先を立てていた秋が修一郎のその言葉に顔を真っ赤にした。
「ななな、何言ってんの!?一緒の部屋!?俺とお前で!?」
「僕と秋で。その方が安くつくでしょ?」
「そ……だけど!」
「秋、僕は本気。秋が好き。好きって言うのは…………キスとか………………ぁぁ………………」
修一郎も顔を真っ赤にした。
そして、
「いやらしいこととか望んでないからね!できればってだけだから!」
叫びに近い修一郎の声に遠くのカップル3組が二人を見る。
「しゅう……!!」
「秋、好きです!大好きだから!」
ぎゅっと目を瞑った修一郎は秋の唇を奪った。
多分、3分ぐらいの口付けだ。
他のカップルにじっと観察されているなか、2分前半から秋も触れるだけだが、キスを返す。そして、陽も落ちて薄暗くなったそこで、二人は月光を浴びて抱き合っていた。
「で?」
「“で”?」
「いや、ホテル」
「一緒の部屋です」
「一緒の……そんで?」
「手繋いで寝ました」
「……それだけ?」
「それだけです。でも、幸せでした」
「嗚呼…………なら、そっちは?」
「俺は……“死守”ですかね。風呂場に籠って丸々一晩の戦いでしたよ。まぁ、途中から逃げてた俺を無視して丸まって寝てましたけどね」
「吉田兄弟よ、健全だな」
過去に秋の担当医をした彼は病院の休憩所で湯気の立つコーヒーに口を付けた。
そんな彼の前には吉田兄弟こと吉田総一郎と吉田修一郎だ。休暇を利用して実家に帰ってきた彼らと秋の経過も聞きつつ話していた。
「健全?戦いですって!あいつ、マジで力強いし!」
総一郎の顔が青ざめる。
「大変だったね、お兄ちゃん。僕も手繋いで寝れるなんて……手洗えないよ!ダブルルームなくてツインルームしかなかったから、ベッド二つあるだろって……一緒のベッドで寝るのも苦労だったし。何とも言えないこの達成感!」
修一郎の顔が赤らむ。
「………………………………………………え?」
兄が弟を見下ろした。微かに弟から離れる。
というより、弟の手から。
「……………………修一郎、洗いなさい」
医者が修一郎を見下ろした。
「嫌ですよ!秋の手の温もりが消えちゃう!」
修一郎は片手を背中に隠すと、ぷくりと頬を膨らます。
「……………………総一郎」
「…………俺は今、こいつが風呂入っているのをあれ以来見てないと気付きました」
「……そうか。健全ではないな」
「ですね。今夜は風呂場に連行します」
医者と総一郎は小声でそこまで話すと、二人は自分の右手を宝物のように撫でる修一郎に据わった目を向ける。
「秋……だぁいすき」
修一郎は右手にキスをした。
総一郎がその瞬間、修一郎を実家まで引き摺っていったことは言うまでもない。