-母親-
『節分には、豆を撒いて鬼を追い出す』
小学校から帰ってきた悠は学校でそのような行事がある事を親に伝えた。
長い石段を登った先にある、大きな神社。
入り口には赤い鳥居が翳った夜の中聳え立っている。
和室の一室。
その話題を出した悠に、淡い青の着物姿の母親は何かを考えた後そっと手を伸ばして悠の頬を撫でた。
幼いその瞳は、不思議そうな様子で母親を見つめ返す。
「節分は…お母さんと一緒にいましょうか」
「どうして?」
「お母さんが、悠と居たいから。…悠は、鬼が怖い?」
質問の意図が分からずに更に首を傾げる。
鬼は怖いものか?
学校では、金棒を持った赤や青の鬼の絵を見せられた。
人よりも大きいそれは…小学生の悠にとっては少なからず怖いものに見えた。
けれど何処か寂しそうに見えた母親の前、思わず口にしたのは否の言葉。
その年の節分当日。
悠は学校には行かずに広い縁側に一人…座っていた。
冬の空…雲が無く綺麗に澄んでいる。
息を着けば白く空気を染めた。
「節分…したかった?」
後ろに姿を現した母親、悠は首を左右に振った。
母親は嬉しそうに笑みを浮かべる。
悠は、母親の笑顔が好きだった。
物心がついた時には、父親の存在が無かった。
悠が生まれて間も無く病気で亡くなった、と悠は母親から話を聞いていた。
「悠…こっちにいらっしゃい」
座ったままの悠に、母親は長い廊下を数歩歩いて自分の方へと促す。
すぐに反応し、その場を立ち上がると母親の後へ続いた。
廊下の突き当たりには一つの古い扉がある。
重い扉…常に施錠されたその場所は、悠にとって未知の場所だった。
一つの古い鍵を手にした母親は、その扉を開ける。
開かれたそこにあったのは…
「……悠!!」
強い声で名前を呼ばれて、悠はハッと瞳を見開いた。
まだ夢の中にいるような感覚…けれど、何故か心臓が早鐘を打っていた。
視界に写るのは白い天井、鼻につく薬品の匂い。
少し時間を置いてから、そこが保健室だと把握が出来た。
無意識に掛けられた毛布を握り締めていた悠は、暫くして力を抜いた。
全身がベッドへと沈む。
声のした方へ顔を向ければ、そこには椅子に座った心配そうな彰の表情があった。
「…俺…、教室に…行って…」
言葉にした瞬間に流れ込んで来る記憶。
二人の女子生徒。
握られた腕から、自分の体の中に何かが入ってくる感触。
思い出してあからさまに悠の体は恐怖に震えた。
再び力の入る手に、彰の手が強く握られる。
「…あ、彰…?」
驚いたように名前を呼ぶ。
「ごめんな…守ってやれなかった。危うく…呑み込まれる所だった」
悔しそうに低く話す彰、悠は何を言われたのか一瞬分からなかった。
まだ思うように自由の利かない体をベッドから起こす。
正面から彰を見、そして短く問い返した。
「守るって…」
お互いに男だ、違和感のあるその台詞はやはり気になった。
それに、教室に入ってきた彰はまるでその女子の違和感に驚きもせずに悠を救いに来た。
疑問符だらけで、何を聞いたらいいのか分からない。
保健室は、他に人の姿が見えず静寂に包まれている。
彰は、何かを決意したように真っ直ぐ悠を見ると握ったままだったその手を離して、両手を悠の顔へと伸ばした。
悠はその間逃げもせずに彰が何をするのかを見つめている。
指先が掛かったのは眼鏡だった。
教室で落とした筈の眼鏡は彰が戻したのかいつもと同じ位置にある。
フレームに触れた指はゆっくりとそれを外していく。
掛かる前髪に悠は一旦目を伏せて、全て外されたのを把握して再び視線を上げた。
「…え…?」
視界に入ってくるのは、彰の顔だった。それは当たり前だ。
しかし、ついさっきまで見ていたものとは決定的な違和感があった。
瞳が…人間のそれではないような暗い青に染まっていたから。
「…どうしたんだ、それ…一体…」
一年弱一緒にいて、その彰の変化を見るのが初めてだった悠は、動揺しながら問い掛けた。
彰は持っていた眼鏡を悠の手元へと静かに置く。
手元の眼鏡を見て、悠は何かを思い出したように反応した。
そういえば、廊下でぶつかって眼鏡を落とした時…
女子生徒の背中越しには普通でないものが見えた。
「その眼鏡…正しく言うとレンズは、余計なものを見ない為の術が掛けられてる」
「余計なもの…って…」
「この世にいない物、もしくは妖怪とか…鬼とか、な」
鬼の単語に記憶を揺らされるも、思い出せずに悠は片手で頭を抑えて息を着く。
一体何を忘れているのか…思い出そうとすれば頭痛に邪魔をされてしまう。
「待ってくれ…何で彰は俺の眼鏡の事なんか知ってるんだ?」
「知らなかった、でも今日知ったんだ」
廊下で女子にぶつかって眼鏡を落とした時、悠の視線と様子に彰は感づいたらしい。
落ちた眼鏡をすぐに拾って掛けさせたのは、確かに彰だった。
今の話の素振りからぶつかった女子の背後にいたものは、彰は既に把握している様子だった。
いきなり話された現実味のない言葉を、当たり前ながら悠は鵜呑みにする事が出来なかった。
まだ混乱している様子で落ち着くように小さく息を着く。
「場所を変えて話そう…動けるか?」
「ああ…」
立ち上がった彰は、悠の方へと片手を伸ばした。
目を覚ました時よりかは大分落ち着いていた悠は、その手を取ってベッドを出る。
彰が開いた扉をくぐり、悠は廊下へと出た。
照明を落とした保健室、同じように廊下に出ようとした彰は、ふと後ろを振り返った。
何も無い室内、青い瞳が細められ暫くその空間を見た後静かに扉は閉められる。
鍵の掛けられた窓の外…
下からゆっくりと伸ばされた白く細長い手は、長い爪でキィ…と窓を引っ掻いた。
暗くなった空は雲が覆い、今にも雨が降り出しそうになっていた。
『守護の鬼』2話目です。
全くのインスピレーションなので、これからどうなるかは
私にも謎だったりします。
矛盾が出ないように、気をつけて書いていきたいですね。