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竜と人が暮らすアステリア王国の物語

王都の小さな食堂で、毎日同じスープを頼む男がいる

作者: みき
掲載日:2026/09/12

 王都セレスティアの東通りに、《銀の匙》という小さな食堂がある。


 大きな店ではない。


 昼は近くで働く職人や商人が来て、夜になると仕事帰りの人たちが酒と料理を楽しむ。


 店を切り盛りしているのは、二十四歳のミレイだった。


 父が病気で店を休むようになってから、もう半年になる。


 料理は母に教わった。


 店のことは父に教わった。


 けれど、一人で店を回すようになってからは、毎日が思っていたより大変だった。


「ミレイ、パン二つ!」


「はい!」


「こっち、豆の煮こみ追加!」


「少し待ってください!」


 昼になると、店の中はいつもにぎやかだ。


 皿を運び、注文を聞き、会計をして、空いた皿を下げる。


 その間にも、台所では鍋が火にかかっている。


 息をつく時間はほとんどない。


 そんな店に、毎日ほぼ同じ時間に来る男がいた。


 名前は知らない。


 三十代くらい。


 黒い仕事着を着ていて、いつも一人だった。


「いらっしゃいませ」


「……いつものを」


「はい」


 いつもの。


 それだけで通じる。


 男が頼むのは、鶏肉とじゃがいものスープ。


 それに黒パンを一つ。


 豪華な料理ではない。


 店では一番安い昼食の一つだった。


 男は毎日それを食べる。


 急がず、ゆっくり。


 食べ終わると、決まった金額を置いて帰る。


「ありがとうございました」


 男は軽く頭を下げるだけ。


 それが半年続いていた。


     


「またあの人来てたね」


 昼の客が引いたあと、手伝いの少年テオが言った。


 十六歳。


 近所に住んでいて、昼だけ皿洗いをしている。


「毎日来るよ」


「名前知ってる?」


「知らない」


「半年も?」


「聞く必要ないでしょう」


 ミレイは鍋をかきまぜる。


「でも毎日同じスープだよ」


「好きなんじゃない?」


「よくあきないなあ」


「食べる物なんて、好きなら同じでもいいのよ」


 そう言いながら、ミレイも少し気になっていた。


 男は、どんな日でも来た。


 晴れの日。


 雨の日。


 暑い日。


 寒い日。


 そして必ず、同じ席に座って同じ料理を頼む。


 まるで、それを食べることが一日の決まりになっているようだった。


     


 ある日。


 いつもの時間になっても、男は来なかった。


 ミレイは気にしないようにした。


 仕事が休みなのかもしれない。


 別の店で食べているのかもしれない。


 次の日も来なかった。


 三日目も。


「来ないね」


 テオが言った。


「そうね」


「気になる?」


「別に」


「気になってる顔だよ」


「皿を洗って」


「はい」


 四日目。


 やはり来なかった。


 ミレイは、いつものスープを作りながら思った。


 名前すら知らない客だ。


 どこで働いているかも知らない。


 毎日来るから、ただ当たり前になっていただけ。


 それなのに、一つの席が空いているだけで、店の中が少し変わったように見えた。


     


 五日目の昼。


 男が来た。


「いらっしゃいませ」


 ミレイは思わず大きな声を出した。


 男は少し驚いたようだった。


「……どうも」


「お久しぶりです」


「五日ぶりだ」


「数えてたんですか?」


「いや」


 男はいつもの席へ座る。


「いつものを」


「はい」


 ミレイは台所へ戻った。


 鍋からスープをよそう。


 いつもと同じ。


 鶏肉。


 じゃがいも。


 にんじん。


 玉ねぎ。


 少しの塩。


 最後に香草をひとつまみ。


 それを男の前へ置く。


「どうぞ」


 男はひと口飲んだ。


 そして、少しだけ目を閉じた。


「……やっぱりこれだ」


 初めて聞く言葉だった。


 ミレイは思わず足を止める。


「そんなに好きなんですか?」


 男は少し困った顔をした。


「このスープを?」


「毎日頼むから」


「……好きだ」


「ありがとうございます」


「ただ」


 男はスプーンを置いた。


「味だけじゃない」


 ミレイは首をかしげた。


     


 男の名前はレオンと言った。


 王都の南で、大工として働いている。


 五年前に妻を亡くした。


 妻は、料理が得意だった。


 特に、鶏肉とじゃがいものスープをよく作ったという。


「同じ味なんですか?」


「いや」


 レオンは首を振った。


「まったく同じじゃない」


「じゃあ、どうして」


「似てるんだ」


 レオンは少し笑った。


「味じゃなくて、食べた時の感じが」


 ミレイは黙って聞いた。


「妻が作るスープも、特別な物は入ってなかった。肉とじゃがいもと野菜。それだけだった」


「はい」


「でも、仕事が終わって家に帰ると、それがあった」


 レオンはスープを見る。


「食べると、今日も帰ってきたなって思えた」


 ミレイは胸の奥が少しあたたかくなった。


「ここで初めてこのスープを食べた時、それを思い出した」


「だから毎日?」


「最初はな」


「最初は?」


 レオンは少し笑った。


「今は、ここのスープだから来てる」


 ミレイは目を丸くした。


「店に来れば、あんたがいる。あの少年が皿を割りそうになってる。昼になると職人たちがうるさい」


「テオは最近割ってません」


「そうか」


「たぶん」


「たぶんか」


 二人は少し笑った。


「だから来るんだ」


 レオンは言った。


「同じ店で、同じ物を食べると、一日がちゃんと始まる気がする」


     


「この五日間は、どうして来なかったんですか?」


「仕事で隣の町に行ってた」


「ああ」


「向こうにも食堂はあった」


「おいしかったですか?」


「悪くなかった」


「じゃあ、うちよりおいしい店も?」


「それは言わない方がいいか」


「言わないでください」


 レオンは少し笑った。


「でも、帰ってきたらここに来たくなった」


 ミレイは、もう一度鍋の方を見る。


 いつも作っているスープ。


 特別な料理ではない。


 父から教わった、ただの家庭料理。


 高い材料も使っていない。


 見た目も地味だ。


 それでも、だれかにとっては帰ってくる場所の味になる。


 そう思うと、不思議だった。


     


 その日の夜。


 店を閉めたあと、ミレイは父の部屋へ行った。


 父はベッドで本を読んでいた。


「お父さん」


「どうした」


「鶏とじゃがいものスープって、どうして店に出すようになったの?」


 父は少し考えた。


「どうしてだったかな」


「覚えてないの?」


「ずいぶん前だからな」


「お母さんの料理?」


「いや」


 父は笑った。


「あれは、わしの母親がよく作ってくれた」


「おばあちゃん?」


「ああ」


 ミレイは驚いた。


「店を始めたころ、金がなくてな。安く作れて腹がいっぱいになる物を出したかった。それで母親のスープを思い出した」


「そうだったんだ」


「どうしたんだ、急に」


「ちょっとね」


 ミレイは笑った。


 祖母から父へ。


 父から自分へ。


 そして今日、知らないだれかの思い出にもつながっていた。


 料理は不思議だ。


 ただ腹を満たすだけの物だと思う日もある。


 けれど、同じ味が人の中に長く残ることもある。


     


 次の日。


 昼になる少し前。


 レオンが店へ入ってきた。


「いらっしゃいませ」


「いつものを」


「はい」


 ミレイは笑って台所へ戻る。


 鍋からスープをよそう。


 鶏肉。


 じゃがいも。


 にんじん。


 玉ねぎ。


 少しの塩。


 最後に香草をひとつまみ。


 いつもと同じ。


 特別なことは何もしない。


 でも、それでいい。


「お待たせしました」


 レオンの前へ皿を置く。


「ありがとう」


 今日は、その言葉がいつもより少しだけうれしかった。


 王都セレスティアには、立派な店がたくさんある。


 貴族が通う高い料理屋もある。


 遠い国の料理を出す店もある。


 それでも《銀の匙》には、毎日ここへ来る人がいる。


 仕事の前に。


 仕事のあとに。


 だれかと話したい日に。


 一人でいたい日に。


 そして、同じ料理を食べたい日に。


 食堂というのは、たぶん料理だけを出す場所ではない。


 今日もここへ帰ってきたと思える、小さな場所でもあるのだ。


「ミレイ!」


 台所からテオの声がした。


「何?」


「皿、一枚割った!」


「やっぱり!」


 店の中に笑い声が広がる。


 レオンはいつもの席で、いつものスープを食べていた。


 竜も、勇者も、大きな冒険もない。


 それでもアステリア王国では、こんな一日も、だれかにとって大切な物語になる。

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