王都の小さな食堂で、毎日同じスープを頼む男がいる
王都セレスティアの東通りに、《銀の匙》という小さな食堂がある。
大きな店ではない。
昼は近くで働く職人や商人が来て、夜になると仕事帰りの人たちが酒と料理を楽しむ。
店を切り盛りしているのは、二十四歳のミレイだった。
父が病気で店を休むようになってから、もう半年になる。
料理は母に教わった。
店のことは父に教わった。
けれど、一人で店を回すようになってからは、毎日が思っていたより大変だった。
「ミレイ、パン二つ!」
「はい!」
「こっち、豆の煮こみ追加!」
「少し待ってください!」
昼になると、店の中はいつもにぎやかだ。
皿を運び、注文を聞き、会計をして、空いた皿を下げる。
その間にも、台所では鍋が火にかかっている。
息をつく時間はほとんどない。
そんな店に、毎日ほぼ同じ時間に来る男がいた。
名前は知らない。
三十代くらい。
黒い仕事着を着ていて、いつも一人だった。
「いらっしゃいませ」
「……いつものを」
「はい」
いつもの。
それだけで通じる。
男が頼むのは、鶏肉とじゃがいものスープ。
それに黒パンを一つ。
豪華な料理ではない。
店では一番安い昼食の一つだった。
男は毎日それを食べる。
急がず、ゆっくり。
食べ終わると、決まった金額を置いて帰る。
「ありがとうございました」
男は軽く頭を下げるだけ。
それが半年続いていた。
「またあの人来てたね」
昼の客が引いたあと、手伝いの少年テオが言った。
十六歳。
近所に住んでいて、昼だけ皿洗いをしている。
「毎日来るよ」
「名前知ってる?」
「知らない」
「半年も?」
「聞く必要ないでしょう」
ミレイは鍋をかきまぜる。
「でも毎日同じスープだよ」
「好きなんじゃない?」
「よくあきないなあ」
「食べる物なんて、好きなら同じでもいいのよ」
そう言いながら、ミレイも少し気になっていた。
男は、どんな日でも来た。
晴れの日。
雨の日。
暑い日。
寒い日。
そして必ず、同じ席に座って同じ料理を頼む。
まるで、それを食べることが一日の決まりになっているようだった。
ある日。
いつもの時間になっても、男は来なかった。
ミレイは気にしないようにした。
仕事が休みなのかもしれない。
別の店で食べているのかもしれない。
次の日も来なかった。
三日目も。
「来ないね」
テオが言った。
「そうね」
「気になる?」
「別に」
「気になってる顔だよ」
「皿を洗って」
「はい」
四日目。
やはり来なかった。
ミレイは、いつものスープを作りながら思った。
名前すら知らない客だ。
どこで働いているかも知らない。
毎日来るから、ただ当たり前になっていただけ。
それなのに、一つの席が空いているだけで、店の中が少し変わったように見えた。
五日目の昼。
男が来た。
「いらっしゃいませ」
ミレイは思わず大きな声を出した。
男は少し驚いたようだった。
「……どうも」
「お久しぶりです」
「五日ぶりだ」
「数えてたんですか?」
「いや」
男はいつもの席へ座る。
「いつものを」
「はい」
ミレイは台所へ戻った。
鍋からスープをよそう。
いつもと同じ。
鶏肉。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
少しの塩。
最後に香草をひとつまみ。
それを男の前へ置く。
「どうぞ」
男はひと口飲んだ。
そして、少しだけ目を閉じた。
「……やっぱりこれだ」
初めて聞く言葉だった。
ミレイは思わず足を止める。
「そんなに好きなんですか?」
男は少し困った顔をした。
「このスープを?」
「毎日頼むから」
「……好きだ」
「ありがとうございます」
「ただ」
男はスプーンを置いた。
「味だけじゃない」
ミレイは首をかしげた。
男の名前はレオンと言った。
王都の南で、大工として働いている。
五年前に妻を亡くした。
妻は、料理が得意だった。
特に、鶏肉とじゃがいものスープをよく作ったという。
「同じ味なんですか?」
「いや」
レオンは首を振った。
「まったく同じじゃない」
「じゃあ、どうして」
「似てるんだ」
レオンは少し笑った。
「味じゃなくて、食べた時の感じが」
ミレイは黙って聞いた。
「妻が作るスープも、特別な物は入ってなかった。肉とじゃがいもと野菜。それだけだった」
「はい」
「でも、仕事が終わって家に帰ると、それがあった」
レオンはスープを見る。
「食べると、今日も帰ってきたなって思えた」
ミレイは胸の奥が少しあたたかくなった。
「ここで初めてこのスープを食べた時、それを思い出した」
「だから毎日?」
「最初はな」
「最初は?」
レオンは少し笑った。
「今は、ここのスープだから来てる」
ミレイは目を丸くした。
「店に来れば、あんたがいる。あの少年が皿を割りそうになってる。昼になると職人たちがうるさい」
「テオは最近割ってません」
「そうか」
「たぶん」
「たぶんか」
二人は少し笑った。
「だから来るんだ」
レオンは言った。
「同じ店で、同じ物を食べると、一日がちゃんと始まる気がする」
「この五日間は、どうして来なかったんですか?」
「仕事で隣の町に行ってた」
「ああ」
「向こうにも食堂はあった」
「おいしかったですか?」
「悪くなかった」
「じゃあ、うちよりおいしい店も?」
「それは言わない方がいいか」
「言わないでください」
レオンは少し笑った。
「でも、帰ってきたらここに来たくなった」
ミレイは、もう一度鍋の方を見る。
いつも作っているスープ。
特別な料理ではない。
父から教わった、ただの家庭料理。
高い材料も使っていない。
見た目も地味だ。
それでも、だれかにとっては帰ってくる場所の味になる。
そう思うと、不思議だった。
その日の夜。
店を閉めたあと、ミレイは父の部屋へ行った。
父はベッドで本を読んでいた。
「お父さん」
「どうした」
「鶏とじゃがいものスープって、どうして店に出すようになったの?」
父は少し考えた。
「どうしてだったかな」
「覚えてないの?」
「ずいぶん前だからな」
「お母さんの料理?」
「いや」
父は笑った。
「あれは、わしの母親がよく作ってくれた」
「おばあちゃん?」
「ああ」
ミレイは驚いた。
「店を始めたころ、金がなくてな。安く作れて腹がいっぱいになる物を出したかった。それで母親のスープを思い出した」
「そうだったんだ」
「どうしたんだ、急に」
「ちょっとね」
ミレイは笑った。
祖母から父へ。
父から自分へ。
そして今日、知らないだれかの思い出にもつながっていた。
料理は不思議だ。
ただ腹を満たすだけの物だと思う日もある。
けれど、同じ味が人の中に長く残ることもある。
次の日。
昼になる少し前。
レオンが店へ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「いつものを」
「はい」
ミレイは笑って台所へ戻る。
鍋からスープをよそう。
鶏肉。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
少しの塩。
最後に香草をひとつまみ。
いつもと同じ。
特別なことは何もしない。
でも、それでいい。
「お待たせしました」
レオンの前へ皿を置く。
「ありがとう」
今日は、その言葉がいつもより少しだけうれしかった。
王都セレスティアには、立派な店がたくさんある。
貴族が通う高い料理屋もある。
遠い国の料理を出す店もある。
それでも《銀の匙》には、毎日ここへ来る人がいる。
仕事の前に。
仕事のあとに。
だれかと話したい日に。
一人でいたい日に。
そして、同じ料理を食べたい日に。
食堂というのは、たぶん料理だけを出す場所ではない。
今日もここへ帰ってきたと思える、小さな場所でもあるのだ。
「ミレイ!」
台所からテオの声がした。
「何?」
「皿、一枚割った!」
「やっぱり!」
店の中に笑い声が広がる。
レオンはいつもの席で、いつものスープを食べていた。
竜も、勇者も、大きな冒険もない。
それでもアステリア王国では、こんな一日も、だれかにとって大切な物語になる。




