第2話:効率的な護送と無駄のない旅路
「……アイリス様。先刻から申し上げている通り、この林道は魔物が出る可能性が高いのです。馬車の速度を落とし、警戒を強めるべきだと」
馬車の窓から顔を出したカイルが、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
王都を出発して二週間。護送の任についているカイルにとって、この旅は人生で最も神経を削るものとなっていた。
「却下します。現在の移動速度は、馬の心拍数と積載重量、そして路面の摩擦抵抗から計算した最適値です。これ以上速度を落とせば、予定しているキャンプ地への到着が二時間遅れます。その二時間が何を生むか、お分かり?」
馬車の中で、アイリスは揺れる車体にも関わらず、涼しい顔で羊皮紙に図面を引いていた。
彼女の膝の上には、即席で自作した「揺れ吸収ボード(バネ仕掛けの簡易的な画板)」が置かれている。
「二時間の遅れが……何だとおっしゃるのですか?」
「私の睡眠時間が削られ、明日の朝の計算業務の効率が百分率で三・五ポイント低下します。国家損失にも等しい事態よ。カイル様、あなたは私の護衛であって、私の効率を阻害するノイズではないはずですが?」
「ノ……ノイズ……」
カイルは絶句した。
かつて王宮で「傲慢な悪役令嬢」と呼ばれていた彼女は、今や「狂った効率の魔女」へと変貌を遂げていた。
泣き言一つ言わず、追放された身を嘆く素振りもない。ただひたすらに、北を目指しながら領地経営のシミュレーションを続けているのだ。
「それに、魔物ならもう来ていますわよ」
アイリスが事も無げに言った。
「なっ……!?」
カイルが慌てて周囲を見回す。
街道。鬱蒼とした木々の合間に、数体の「フォレストウルフ」が潜んでいることに、彼はようやく気づいた。
「おい、皆! 戦闘態勢だ!」
カイルが他の護衛騎士たちに叫ぶ。
だが、アイリスは馬車の窓を開けたまま、視線を図面から外さなかった。
「カイル様。左から来る個体の右前足。少し引きずっていますわ。おそらく以前の負傷。そこを起点に旋回すれば、三手以内で無力化できます。無駄な喧騒は避けてちょうだい。私の馬車が揺れるでしょう?」
「……指図されるまでもない!」
カイルは剣を抜き、鮮やかな剣筋で狼たちを退け始めた。
アイリスの指摘通り、狼たちの動きはどこか精彩を欠いており、戦闘はわずか数分で終了した。
「ふう……。終わりました。怪我人はありません。アイリス様、一応安全の確認を――」
「終わったのなら速やかに再出発を。今の戦闘で、三分のロスが発生しました。その三分の間に、私は図面の北壁の補強案を一つボツにして、新しい案を描き上げるはずだったのに」
「……謝罪いたします。私の不甲斐なさで三分の貴重な時間を奪いましたね」
カイルの声は、もはや皮肉すら通り越して諦観に満ちていた。
「分かりましたか? 時間は『神から与えられた唯一の公平な資源』なの。それを浪費することは、万死に値するわ。さあ、カイル様。次のキャンプ地まで残り四十二キロメートル。標準速度を維持して」
馬車が再び動き出す。
カイルは御者台でため息をつきながら、背後に流れる林道を眺めた。
王都の人々は、彼女を「家柄を盾に威張り散らすだけの無能」だと笑っていた。
だが、この二週間、カイルが見てきた彼女は違う。
彼女は、自分が置かれた状況を嘆く代わりに、周囲のすべてを「リソース」として整理し、利用し、最適化しようとしている。
深夜。街道脇のキャンプ地。
アイリスは、他の騎士たちが焚き火で肉を焼いている横で、一人、手回し式の「遠心分離機」のような装置を弄っていた。
「お嬢様……それは、一体何を?」
恐る恐る尋ねたのは、今回同行を志願した数少ない使用人の一人、猫人族の少年ベルだった。
不安げにぴくぴくと動く彼の三角形の耳が、夜の焚き火に照らされている。
「道中で採取した、ただの泥よ。ここから、特定のマナを含んだ成分だけを抽出しているの。エメラルド領に着くまでに、領地の地質の傾向を把握しておかなければ、最初の一歩で踏み外すでしょう?」
「なるほど……土いじり、ですか」
「『地政学的な資源分析』と言ってちょうだい。それにベル、あなたのその肉の焼き方。火力が強すぎて表面が炭化しているわ。熱効率の損失が二十パーセントを超えている。もっと均一に――」
「は、はい! すみません!」
ベルが慌てて串を動かす。
アイリスの「効率」という名の剣は、魔物だけでなく、味方にすら一切の容赦がなかった。
「……ふふ」
不意に、アイリスが小さく笑った。
「お嬢様?」
「いいえ。ようやく見えてきたわ。エメラルド領、通称『世界のゴミ箱』。魔力が飽和し、使い道のないカスが溜まり続ける場所。でも、それはつまり――」
アイリスの瞳に、夜の闇を貫くような理知の光が灯る。
「誰も制御できていない、無限のエネルギー源が眠っているということよ。あそこを私の『完璧な工房』に書き換えてあげる。楽しみだわ……非常に合理的な仕事になりそうね」
彼女が描いているのは、復讐でも、自分を守るための小さな城でもない。
世界そのものを根底からひっくり返す、魔導産業革命の地図だった。
「カイル様。明日は予定の一時間前に出発します。準備を」
「……はあ。承知いたしました、閣下」
カイルは、アイリスのことを「令嬢」と呼ぶのをやめ、心の片隅で、彼女を敬意を込めた「指揮官(閣下)」として認め始めていた。
馬車が北へと進むたび、空気は冷たくなり、空の色は重くなっていく。
だが、アイリス・フォン・エメラルドの心の中にある火は、王都にいたどの貴族よりも熱く、そして冷静に燃え盛っていた。
第2話、お読みいただきありがとうございました!
カイル騎士道とアイリス効率道の決定的な温度差回でした。
「地産地消ならぬ地質調査」をしながら進むヒロインに、護衛たちの心労は絶えません。
次回、ついに辺境領エメラルド・フロンティアに到着。
そこにあったのは、想像を絶する「灰色の世界」でした……。
アイリスがそこで何を見出すのか、乞うご期待です!




