第一話 アサガオと月
宵涼し 白牽牛花 月影ゆ
夢彩りて 君は去りゆく
その日は、開いた窓から黄鶲のような鳥の囀りが風に乗って耳に透き通る、いつもより少しだけ静かな春の朝だった。
暗く涼しげな酒場にある突出し窓から陽光が差し込む。それは、酒を飲み干したガラスジョッキを握りしめながら、レトロモダンな伽羅色のテーブルに頭を乗せて寝ている男の顔を照らした。
頭痛ぇな…。下戸なのが分かっていても、今日は仕方ない。いや、もう昨日か。三十を越えても、らしくないことをしたい気分になっちまうよなぁ…。そういえば、前にもこんなことがあったっけ。そう…あれは…忘れたくても忘れられないな。本当に…なんにも変わってねぇんだな、俺…。
その男は目を瞑りながら、呆れたように少し口元を綻ばせる。そして、物思いに耽るように、酒で酔い潰れた過去のことを思い出していた。
──今から九年前の冬、とある酒場。
そこへ、アッシュブラウンの毛筋を柔らかに崩し、襟足を少しだけ残した髪の男は、大柄な体格をした職場の先輩と二人で立ち寄り、店員の一人に一目惚れをした。
翌日、その男は思い切って、同じ酒場に一人で訪れる。そこに、彼女はいた。
鼻で小さな深呼吸を繰り返し、唇にグッと力が入る。その緊張のまま静かにカウンター席に座ると、見惚れた女性店員が近くを通るタイミングをじっと待ち続けた。そして、近くを通った瞬間、震えた声で彼女を呼び止め、度数の低い酒を一つ注文した。
男は、それを何度も何度も繰り返した。挙げ句、酔い潰れて眠ってしまった。
気づけば、先程まで賑やかだった店内は静まり、小さな蝋燭の火が灯るだけの薄暗い中で、その女性と二人っきりとなっていた。
すると、少しひんやりとした小さな手に、肩を柔らかく包み込まれながら、ゆっくりと揺すられ、意識の遠くからぼんやりと女性の声がした。それは透き通るような優しい声で、葉から零れ落ちる水滴が雨溜まりにポツンと音を立てて波紋が広がるように、耳の奥で静かに響く。
「アランさん、アランさん。起きて下さい。……閉店間際なのに、ぐっすり…。私、あなたがお酒弱いこと…何となく分かってました。でも、つい私が話しかけてしまった時、すごく嬉しそうで…あなたが頑張る理由も分かった気がしたんです。不器用で一途…。こういう、かっこ悪いところ…嫌いじゃないですよ」
その囁き声で眠りから覚めたアランは、小さく唸りながら重く感じる頭を振り向かせ、細めた目で彼女の顔を見た。
「ソナ…さん?」
──酒の匂いの中に彼女が纏う甘い香りが混ざる…。あぁ…これは夢か?頭がボーッとして、状況の理解が追いつかない。確か…最後に…この酒を飲んで…。記憶が曖昧だ。ほとんど何も覚えてない。いや、待て。待て待て待て。どれくらい寝てた?ソナさんと二人っきり?俺が起きるまで待っていた?
「あ、ごめんなさい。すぐに帰ります」
そう言いながら、アランは慌てて机に両手をつきながら椅子から立ち上がると、頭がクラッとふらつく。そして、まるで全身の平衡感覚が宙に幽体離脱したかのように体の力が抜け、バランスを崩すと、ドサッと床に尻から倒れ込む。
そのうっかり者なアランの様子を見たソナは、小さな口元に手を当てながらフフッと笑う。
「急がなくてもいいですよ。私は大丈夫ですから。はい、これお水です」
そう言って、ソナはアランに顔を近づけるように腰を屈め、微笑みかける。その彼女の耳から滑り落ちた、艶のある明るいグレージュの長髪──重みを残しつつも軽やかに段差の入った毛先の揺れが、二十歳とは思えない大人びた雰囲気を醸し出していた。
それを見上げるアランは、ソナの優しく美しい笑顔に見惚れながら、ドクドクと忙しなく音を立てる心臓の温かさを感じていた。
まるで…天使だ。なんだろう…初めて目が合ったときの高揚感とは、また別の…。野心も矜持も忘れ、ただ幸せで生が満たされる。
そのとき、アランの赤く火照った耳に、彼が聞き覚えのある力強く太い声が、高く聳える崖下で岩に衝突する荒波のように、意識の遠くから漠然と響いてくる。
「おい、アラン。いつまで寝てるんだ?もう仕事の時間だ」
この声…ザルドさん?
回想と現実が交錯し、歪み始める狭間で、ポカンと床に座ったままのアランの頭に、ゴツゴツとした分厚い手で叩かれたような強い衝撃が走った。
それは、目の前で笑顔を向けるソナの姿を、霧が包み込むように段々とボヤけさせると、一気に周囲を覆い尽くし、視界は暗転した。
「あ…夢か」
──いつの間にか…また眠ってしまっていたのか…。まだ少し頭痛が残ってるってのに、この人は…。
重たい瞼をゆっくりと開け、頭を軽く擦りながら横目で見上げると、対の銀釦で布生地を重ね、厚い波皺で袖に余裕を持たせたブルーサファイアのような青色の軍服の背中に、鋼鉄の大きな両刃斧を背負った上司のザルドが、呆れた顔で見下ろしていた。
そして、ザルドは溜め息をつきながら、水が一杯に入ったガラスコップをテーブルに置く。
それは、コンッという音を静かにテーブルへ伝え、二人の間で小さく響き渡る。
「アラン…。まだソナちゃんとの離婚、引きずってたのか?もう一年も経つってのに…。最近は誘っても飲まないお前が、結婚記念日に一人で朝まで飲むなんてな。…そういう情けないところが、お前の良いところだよ」
アランは頭を起き上がらせると、右手に握り締めていたガラスジョッキをテーブルの隅に置き、サッと目の前のガラスコップを手に取る。そして、顎を上げてゴクゴクと喉から音を立てながら一気に飲み干した。
「悪いところの間違いでしょう。子供が生まれてから…強くなることしか見えていなかった僕のせいですから。それにザルドさん、せめて見苦しいと言ってください。…もう大丈夫です。行きましょう」
アランは少し掠れた低い声を呟かせながら、水が空になったガラスコップを、隅に置かれたガラスジョッキの隣にそっと寄せるように置くと、椅子からスッと立ち上がる。そして、彼はテーブルに立てかけられた幅広の片手剣を手に取り、急かすように酒場を出ていくザルドの後ろを、気怠そうにゆっくり歩いて追い掛けていく。
※この作品は、初作品「エリシオン·アル·レーヴ」の改訂版となっています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




