第62章 闇の取引
澪は署名を終えた瞬間、胸の奥に鉛のような重さを感じた。契約書の紙はただの紙であるはずなのに、それを握り締める彼女の手は氷のように冷えていた。秘書は満足げに書類を回収し、封筒へと滑り込ませる。その仕草はまるで人の運命を袋に閉じ込める儀式のようだった。
「これであんたは俺たちの“仲間”だ。逃げ道はない」
秘書は拳銃をホルスターに収め、血の匂い漂う倉庫を見渡した。片隅では組員たちが死体を分解し、ビニールシートに包んでいる。肉の裂ける音と骨が折れる鈍い音が、湿った空気の中に響き渡る。誰もが慣れた手つきで作業を進めており、それが日常の一部であることを澪に突き付けていた。
澪は唇を噛み締めながら、視線を監視カメラに向けた。赤いランプが点滅し続けている。——すべて記録されている。この証拠が外に出れば、彼らの思惑を逆手に取れる可能性がある。だが、それまで生き延びなければならない。
「次の段取りを説明しろ」
秘書の声に応じて、組員のひとりが厚いファイルを差し出した。中には政治献金の裏ルート、宗教団体を介した資金洗浄の詳細、そして官僚や警察幹部の名前が列挙されていた。その名簿を見た瞬間、澪は戦慄を覚えた。新聞の一面を飾るような大物たちの名が、ことごとく闇の金と繋がっていたのだ。
「これを“管理”するのが、あんたの役目だ。外に出せば死ぬ。だが従えば、命は保証される」
秘書は淡々と告げる。その口調は人を買収するのではなく、鎖で繋ぎ止めるような冷徹さを孕んでいた。澪の胸中には怒りと恐怖が渦巻いたが、それを顔には出さず、無言でファイルを見つめ続けた。
倉庫の奥では、バーナーの火が点り、血の付いた布や遺留品が焼かれていく。焦げる匂いが鼻を突き、吐き気が込み上げた。生と死が同居するこの空間で、澪は自らの使命を改めて噛み締める。——必ず、この闇を暴き出す。
その時、倉庫のシャッターが再び開いた。黒塗りの高級車が滑り込んでくる。運転席から降り立ったのは、三條本人だった。濃紺のスーツに身を包み、笑みを浮かべながら澪に歩み寄る。その姿は政治家というよりも、組織の“教祖”に近い威圧感を放っていた。
「お疲れさま、澪記者。君は賢い選択をした」
三條はそう言って澪の肩に手を置いた。その手は温かいはずなのに、氷のように冷たく感じられた。彼の目は澪の内側を覗き込み、心の奥まで支配しようとするかのようだった。
「これから君は、我々の言葉を世に届ける“筆”になる。正義も真実も必要ない。必要なのは力を守る物語だ」
澪は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。しかし同時に、強烈な反発心が燃え上がった。彼らの操り人形になどならない——必ず道を切り開く。
夜の倉庫には、血と煙と権力の匂いが混じり合っていた。澪はその中心で、次なる一手を探る決意を固めていた。
次章へと続く。




