第五十四章 蠢く影
夜が明けると同時に、廃墟に身を寄せる人々の間にざわめきが広がった。誰かが失踪したのだ。前夜、焚き火のそばで弱々しい声を上げていた若者の姿が忽然と消え、残されていたのは血の染みが点々と続く床だけだった。
澪はその跡を追った。血の匂いは鉄錆のように濃く、瓦礫に散った赤黒いしぶきは、決して人為的に隠されたものではなかった。壁の隙間には引きずられたような痕跡があり、爪が剥がれるほど必死に抵抗した跡も刻まれていた。澪は唇を噛み締め、奥へと進んだ。
薄暗い地下通路にたどり着いた時、腐臭が鼻を突いた。照らされた光の先には、むき出しになった臓腑が散乱し、若者の体の一部が無惨に転がっていた。目玉だけが壁際に押し潰されるように残され、口は何かを叫んだままの形で固まっていた。周囲には獣の爪痕があり、人の仕業ではないことは明らかだった。
澪は吐き気を堪え、短剣を構えた。そのとき、暗闇の奥で「ずるり」と肉を裂くような音がした。光を向けると、異様に痩せ細った犬の群れが現れた。皮膚は剥がれ、骨が覗き、飢餓に狂った眼がぎらついている。その牙にはまだ血肉が付着していた。
群れは澪に気づくと低い唸り声を上げ、今にも襲いかかろうと身を低くした。澪は呼吸を整え、刃を握り直す。背後には守るべき人々がいる。ここで退くことはできなかった。
一頭が跳びかかる。澪は反射的に身をひねり、短剣をその顎に突き立てた。獣の喉から潰れた悲鳴が響き、血が噴き出して彼女の頬を濡らす。だが、すぐに二頭、三頭と次々に襲いかかってきた。鋭い牙が腕をかすめ、肉が裂ける痛みが走る。澪は声を上げることなく、獣の頭蓋に刃を突き入れた。骨が砕け、脳漿が飛び散る。
狭い通路は血の匂いと断末魔で満たされた。獣の一頭が倒れ、足掻く拍子に腸をぶちまけ、地面を蠢く。澪は滑りそうになる足元を踏みしめ、最後の一頭を壁際に追い詰めた。互いに荒い息を吐き、睨み合う。刹那、獣が突進してきた瞬間、澪は刃を構え、その喉元を一閃した。血飛沫が温かく全身を覆い、獣は絶命した。
残骸の山の中に立ち尽くし、澪は荒い呼吸を整えた。負傷した腕からは赤黒い血が滴り、地面に染みを作っていた。だが、背後に人々の怯える声が届くと、彼女は立ち上がった。守るべきものがある限り、倒れるわけにはいかないのだ。
生き残った者たちの前に戻ると、その瞳は恐怖と同時に、澪への信頼で満ちていた。誰も声を上げなかったが、彼らの視線は言葉以上の意味を持っていた。澪は負傷を隠すように腕を布で縛り、静かに告げた。
「……この街はもう、獣たちに支配されている。だが、私たちは生き延びる」
沈黙の中で、人々の胸に微かな火が灯るのを澪は感じた。血と臓腑に塗れた現実の中でさえ、希望はまだ消えてはいなかった。だが同時に、澪は理解していた。これから訪れるのは、さらなる闇と試練であることを。




