第三十九章 復讐の火種
血の契約を交わしたその夜から、三人の心には以前とは異なる緊張感が宿っていた。翌朝、収容所の空気はさらに重苦しく、人々は死の影に怯えながらも互いに視線を交わすことすら避けていた。だが澪の瞳は違っていた。母を撃ち殺された光景、臓器を引きずり出され笑われた捕虜の断末魔。それらは彼女の心に消えることのない傷を刻んだが、その痛みは恐怖を超えて、冷たい決意へと変貌していた。
木戸は収容所の兵士の巡回時間を密かに観察していた。兵士たちは日ごとに同じ動きを繰り返している。朝は点呼、昼は労働、夜は見せしめの処刑。狂気的な日常の中に、かすかな隙が存在していた。夜半、兵士の一部が酒をあおり、警戒が緩む瞬間。そこに賭けるしかなかった。
その日も夕刻、兵士たちは数名の捕虜を引きずり出し、広場に立たせた。彼らは反抗の疑いをかけられた者として、無慈悲に殴打され、骨が砕ける音が乾いた空気を裂いた。澪は唇を噛み、目を逸らさずに見届けた。血まみれで地に伏す男の眼差しが、彼女に「次は頼む」と語りかけているように思えた。
夜が訪れると、木戸は澪と遼を呼び寄せ、小声で囁いた。「……明日だ。奴らが酒で緩む頃、火を放つ。あの倉庫には武器も物資も集められている。火種さえ作れば混乱は避けられない。そこから逃げるんだ」
澪の胸は高鳴った。だが恐怖ではなかった。彼女の中で静かに燃える炎が、憎悪と使命感を混ぜ合わせていた。遼はまだ体が完全には回復していなかったが、その目は澪を見つめ、弱々しい声で言った。「……俺も行く。お前だけに血を背負わせるわけにはいかない」
木戸は短く頷いた。彼にとってもこれは生還のためだけの計画ではなかった。あの兵士たちに地獄を見せること、それが唯一の正義だと信じていたからだ。
翌夜。闇は月に覆われ、収容所は一層の静けさに沈んでいた。澪は心臓の鼓動を抑えながら、倉庫へと忍び寄った。手には木戸が密かに用意した小瓶が握られている。中身は灯油と油布を混ぜた即席の火種。手が震えて瓶が鳴りそうになるたび、澪は奥歯を噛み締めた。——母の絶叫を忘れるな、と。
倉庫の扉の隙間から、兵士たちの影が見えた。二人が見張りをしていたが、すでに酔いに足を取られ、銃を壁に立て掛けたまま笑い合っている。木戸は素早く澪の肩を叩き、指先で合図した。澪は静かに瓶を床へ置き、布切れに火を点けた。炎が小さく揺れ、瞬く間に瓶の油に吸い込まれていく。次の瞬間、轟音と共に炎が倉庫を包み込んだ。
「何だ!?」兵士たちが慌てて立ち上がり、怒鳴り声をあげた。火は瞬く間に木材や油樽へ燃え移り、倉庫全体を赤い獄炎へと変えていった。弾薬が爆ぜ、爆音と共に破片が飛び散り、兵士の一人が胸を抉られて倒れ込む。肉の焼ける匂いと叫び声が夜気に混じり、収容所は地獄そのものと化した。
澪は燃え上がる炎を背に、木戸と遼を引き連れて走った。周囲は混乱に満ち、捕虜たちも次々に立ち上がり、混乱に乗じて逃げ出そうとしていた。兵士たちは火と叫びに翻弄され、銃を乱射するが、味方同士を撃ち抜くほどの混乱だった。澪は倒れた兵士の手から銃を奪い、震える指で引き金を引いた。銃声が夜に轟き、兵士の頭部が弾け飛ぶ。血と脳漿が壁に飛び散り、彼女の頬にも飛沫がかかった。だが澪の表情には恐怖はなかった。冷徹な決意が、その瞳に宿っていた。
「走れ!」木戸の怒声が響く。三人は炎と死の渦を背に、闇へと飛び込んだ。復讐の火種は、確かに燃え上がったのだった。




