表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/146

第三十七章 沈黙の報復


収容所の一夜は、凍えるほど長かった。仮設テントの中には負傷者の呻き声が途絶えることなく響き、澪は眠ることもできず、ただ遼の顔を覗き込んでいた。彼の胸の縫合痕からは、まだじわじわと血が滲み出していた。薄い布切れの包帯はすぐに赤く染まり、乾く間もなく新しい血が滲んでいく。澪は自分のシャツを裂き、代わりの布を押し当てながら、その震える手を必死に押さえつけた。遼の唇は青白く、息は細い。だがその目だけは開かれており、苦痛と恐怖と諦めの色を宿していた。


木戸は眠らなかった。外で交代制の監視をしながら、周囲の状況を観察していた。収容所を仕切る兵士たちは冷徹で、負傷者の優先順位を冷酷に決めていた。生きる見込みの薄い者は、薬を与えられることもなく、そのまま放置された。テントの隅には、すでに冷たくなった死体が十体以上並べられている。毛布で顔を覆われているが、端から覗く皮膚は血の黒ずみで変色し、腐臭が漂い始めていた。夜風に混じる甘い死臭は、かえって澪の吐き気を誘った。


深夜、木戸は兵士の一人が密かに何かを処理しているのを目撃した。薄暗い外れの場所で、負傷者の若者が呻き声を上げながら地面に倒れている。その頭に兵士は無造作に銃口を当て、引き金を引いた。鈍い破裂音が夜気に響き、頭蓋の一部が吹き飛んだ。血と脳漿が砂地に飛び散り、即席の墓穴に転がされた遺体は、他の死体と共に土で覆われていった。兵士は表情ひとつ変えず、ただ任務をこなすように動いていた。その冷淡さに木戸は凍りついた。


「……これは治療じゃない。間引きだ」


木戸は吐き捨てるように呟いた。人員と物資の不足を理由に、見込みのない者は処分されている。合理的であると同時に、狂気でもあった。銃声が消えたあとも、地面に広がった血の匂いが夜気に残り続け、木戸の鼻腔を焼いた。


翌朝、収容所に緊張が走った。逃げ延びてきた別の集団が到着したのだが、その半数は重度の負傷者だった。片腕を失った女が子どもを抱きかかえて泣き叫び、顔半分を焼かれた男がのたうち回る。皮膚が溶けて張り付いた顔は原型を留めず、目は涙と膿で塞がれていた。彼らは必死に助けを求めたが、兵士たちは無感情に線を引いた。生かす者と、見捨てる者。その判断は一瞬で下され、拒否された者たちは地面に座り込んで絶望した。


澪はその光景に耐えられず、木戸の腕を掴んだ。「ねえ、私たち……ここにいていいの? こんな……」


木戸は澪を真っ直ぐに見つめた。その目は怒りに燃えていたが、同時に冷徹な計算が潜んでいた。「遼を守るには、従うしかない。だが……いずれ報復する」


その言葉を聞いた瞬間、澪の中で何かが決定的に壊れた。彼女は遼の冷たい手を握り締め、静かに心の奥で誓った。——もしこの地獄が続くなら、自分の手を血で汚してでも、守るべきものを守る、と。


夜が再び訪れると、収容所の外れでまた銃声が響いた。今度は澪の耳がはっきりとそれを捉えた。振り返ると、兵士が泣き叫ぶ母親の首筋に銃を押し付けていた。子を庇う彼女は必死に抗っていたが、次の瞬間、赤黒い血が夜闇に噴き出した。鮮血は噴水のように溢れ、母親の体は痙攣しながら崩れ落ちた。子どもの絶叫がテントの中にまで響き渡り、誰もが目を背けた。だが澪は瞼を閉じなかった。見続けなければならないと思った。これは「現実」なのだと。


木戸は歯を食いしばり、低く呟いた。「……奴らは人間じゃない」


その声は静かだが、底冷えするような殺意が宿っていた。報復の火種は、確実に三人の胸の中で燃え上がりつつあった。澪の脳裏には、血で濡れた砂と、絶望に沈む人々の顔が焼き付いて離れなかった。それは単なる記憶ではなく、これからの行動を決定づける烙印だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ