第二十七章 供物の選択
倉庫の空気は鉛のように重く、濁った海の臭いと腐敗した肉の匂いが混ざり合っていた。澪は震える手で口を覆い、吐き気を必死に堪えていた。遼は全身から冷たい汗が噴き出し、背中を壁に押し付けるようにして立っていた。
「供物……?」澪の声はかすれ、ほとんど聞き取れないほど弱々しかった。
鴉は愉快そうに笑い、黒い袋を靴先で蹴った。中からはぬめりを帯びた肉片が転がり出し、錆びた床に血の滲んだ跡を残した。腐臭が一層強く漂い、蛆がうごめく音さえ聞こえる。
「裏切り者の行き先は決まっている。俺たちは“信”を保つために血を流す。お前らが俺たちの庇護を望むなら、それなりの代償を払ってもらう」
遼は喉を詰まらせながらも、鴉に食ってかかった。「ふざけるな!俺たちは犠牲になるためにここに来たんじゃない!」
すかさず銃口が遼の額に突きつけられた。鴉の部下が無言で引き金に指をかける。遼は息を止め、澪の悲鳴が倉庫に響いた。
「やめろ!」木戸が低い声で叫んだ。その声には、長年修羅場を潜り抜けた者にしか持ち得ない重みがあった。銃口はわずかに下ろされたが、緊張は解けない。
「鴉……条件を飲めば、本当に永光会を潰すために動いてくれるんだな?」
鴉はにやりと笑った。「俺たちにとっても永光会は目障りだ。だが約束は血でしか縛れない。選べ、木戸。どちらを差し出す?」
澪は青ざめた顔で木戸を見つめた。遼も必死にその視線を追う。どちらを選ぶのか、それとも木戸が裏切るのか。倉庫の空気が張り詰め、時間が止まったかのようだった。
木戸は目を閉じ、低く息を吐いた。数秒の沈黙が永遠のように続いた後、目を開き、鋭い視線を鴉に向けた。
「……俺の命を差し出す。こいつらは関係ない」
澪と遼が同時に息を呑んだ。だが鴉は腹の底から笑い出した。「面白い!だが、それじゃ取引にならん。お前は必要だ、木戸。永光会の内情を知る数少ない人間だからな。お前が死んだら意味がねぇ」
鴉は指を鳴らし、部下がもう一つの袋を持ち出してきた。中身が床に広げられると、そこには切断された顔の皮膚が無造作に投げ出された。誰かの表情が歪んだまま剥ぎ取られ、血と脂にまみれていた。澪は限界に達し、その場で嘔吐した。
「選べなければ、こうなる」鴉は冷ややかに言った。「永光会は“信”を、俺たちは“恐怖”を糧にする。お前らはその狭間で揺れているだけだ」
遼は澪を抱き寄せながら、必死に木戸を見つめた。木戸の額には珍しく汗が滲んでいる。彼がここまで追い詰められるのを、遼は初めて見た。
その瞬間、倉庫の外で銃声が響いた。続けて怒号とサイレンの音。鴉の部下たちが一斉に動き、銃を構える。木戸は素早く状況を判断し、低く呟いた。「警察か……いや、永光会の私兵だ」
混乱が倉庫を飲み込む中、木戸は遼と澪の手を掴み、叫んだ。「今しかない、走れ!」
倉庫の鉄扉が破られ、黒ずくめの影が雪崩れ込む。閃光弾が炸裂し、眩しい光と爆音で視界が白く塗り潰された。悲鳴と銃撃音が交錯する中、三人は再び逃走を余儀なくされる。
鴉の笑い声が混乱の中で響いた。「逃げられると思うなよ!供物は必ず奪う!」
澪は涙に濡れた顔で必死に走り、遼は心臓が破裂しそうなほど鼓動を高鳴らせていた。木戸の背中だけが、闇の中で頼れる唯一の導きだった。だがその背中も、今や血と火薬の臭いにまみれていた。




