第二十二章 崩れゆく沈黙
廊下に響いた怒声と靴音が、記者クラブの個室を包み込む。木戸の顔に走った緊張の皺が、事態の深刻さを物語っていた。遼は澪の手を強く握りしめ、息を殺す。ドアを叩く音が二度、三度と繰り返され、扉が今にも軋んで外れそうなほど揺れた。
「裏口からだ!」木戸が囁くように叫び、机の下に隠された小さな扉を蹴り開けた。薄暗い通路が伸びている。彼らは慌ただしくそこに滑り込み、背後で扉を閉める。直後、正面のドアが破られる音が響いた。怒声と罵声が渦を巻き、机や椅子が乱暴に倒される。彼らがあと十秒遅れていたら、確実に捕まっていた。
通路は地下駐車場に通じていた。湿ったコンクリートの匂いが鼻を突く。三人は息を潜め、無人の黒いワゴン車の影に身を隠した。外には警察官らしき影が巡回している。澪は震える唇で問いかけた。「これ……もう完全に包囲されてるんじゃ……?」
木戸は低く答えた。「ああ。だが奴らが恐れているのは、俺たちがまだ“何を持っているか”を知られていないことだ」
遼は懐から小型のメモリを取り出した。「データは分散させてある。仮に一つ押収されても、ほかに流れるようにした」
木戸が目を細めた。「さすがだな。だが追跡は必ず始まる。時間との勝負だ」
そのとき、地下駐車場の奥にエンジン音が響いた。黒塗りの高級車が三台、ゆっくりと進んでくる。ナンバープレートは国会議員に割り当てられる特殊なもの。遼たちは息を呑んだ。車から降りてきたのは、与党幹部の姿だった。警察と記者クラブの検閲騒ぎは陽動で、本命はこの裏での“密会”だったのだ。
彼らは笑みを浮かべながら、携帯電話を取り出し会話を続けている。その断片がコンクリート壁に反響し、遼たちの耳に届いた。「法案は通った。次は資金を移す。永光会からの寄付は“慈善事業”名目で処理しろ」「検察庁のトップも動かした。裁判所の人事は来月で決まりだ」
澪の体が震えた。権力の中枢が、堂々と裏金と人事操作を口にしている。国家の機関が、宗教団体と一体化しつつある現実が、目の前で繰り広げられていた。
木戸が小声で呟いた。「これが決定的な証拠になる……」
だが次の瞬間、議員の一人が不意に足を止め、周囲を見回した。彼の視線が駐車場の影を舐めるように動き、三人の隠れている車の方へ向かってくる。靴音が近づき、澪の喉が乾いた音を立てた。遼は咄嗟に彼女の肩を抱き寄せ、さらに身を低くする。木戸は息を止め、レコーダーを握りしめていた。
――しかし議員は直前で立ち止まり、タバコに火をつけると、そのまま背を向けて歩き去った。安堵と同時に、心臓が破裂しそうな緊張が三人を襲う。
「……今の会話、録れましたね」澪が掠れた声で言う。
木戸は力強く頷き、レコーダーを握り直した。「これを守り抜けば、必ず突破口になる」
だが駐車場の出口では、別の警察官が配置につき始めていた。まるで彼らの行動を読んでいるかのように、脱出路は次々と塞がれていく。国家そのものが一つの網となり、彼らを捕らえようとしていた。
遼は木戸と澪を見据え、静かに言った。「ここを突破するしかない。もう後戻りはできない」
木戸が苦笑した。「記者クラブの檻から抜けたと思ったら、国そのものが檻だった……だが檻が大きいほど、綻びもあるはずだ」
その瞬間、天井から轟音が響いた。上の階で何かが爆発したような音。警察官たちが一斉にそちらへ走り出す。暗闇に残された三人は、顔を見合わせた。
「チャンスだ!」遼が叫び、三人は駐車場の奥へと駆け出した。靴音がコンクリートを叩き、冷たい風が頬を切る。背後にはまだ追跡の影が残っている。だが今はただ、次の一歩を踏み出すしかなかった。
国会の地下に潜む闇の構造を、この目で見た以上――彼らの戦いは、もう逃げられない地点に達していた。




