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第十六章 追跡の影



廃工場を出たのは午前三時を回った頃だった。冷たい風が吹き込み、鉄骨の隙間からかすかな月光が差し込んでいた。遼と澪は互いに言葉を交わさず、街灯の少ない裏路地を抜けていく。廃工場での暗号化作業は済んだ。しかし、その瞬間から二人は永光会にとって“消すべき存在”になったことを悟っていた。


「……遼、後ろ」澪が小さく呟いた。反射的に遼は視線を振り返る。遠くに停車した黒いセダン。ヘッドライトは消えていたが、車体の重厚なラインが夜の中で浮き上がる。見慣れないナンバー。二人が工場を出た時から一定の距離を保ってついてきていた。


「まずいな。完全にマークされてる」遼は低い声で言う。澪は唇を噛み、ポケットに忍ばせた小型録音機を握りしめた。工場で得た証拠をコピーした端末は、今は遼のジャケットの内ポケットに収められている。失えばすべてが水泡に帰す。


二人は住宅街の細い道に入り、さらに裏路地を選びながら歩を速めた。だがセダンは執拗に影のように尾を引く。やがて背後からエンジン音がわずかに唸り、車が速度を上げて近づいてきた。遼は澪の腕を引き、人気のない公園の茂みに飛び込んだ。砂利を蹴る音と同時に、車のブレーキ音が夜を裂く。


「隠れても無駄だぞ」低い声が響いた。黒服の男が二人、車から降りる。背丈のある一人は懐に手を差し入れ、もう一人は周囲を警戒している。遼は息を潜め、澪を庇うように体を寄せた。銃を持っている可能性が高い。ここで不用意に動けば終わりだ。


数分が永遠のように過ぎた。やがて黒服たちは別の方向へ歩き出し、携帯で誰かに連絡を取る。その隙をついて遼は澪の耳元で囁いた。「地下鉄に逃げる。今なら行ける」


二人は低く身をかがめ、公園を抜けて歩道橋へと駆け上がった。遠くに始発前の地下鉄入口が見える。シャッターは半分閉ざされていたが、隙間から中に滑り込むことができた。息を整える間もなく、澪は小声で問う。「あのデータ、どこに送るの? ただ持っているだけじゃ意味がない」


遼は額に浮かぶ汗を拭いながら答えた。「ジャーナリストの榊に渡す。奴なら命懸けで報じる。だが、ここに直接は送れない。踏み台サーバーをいくつも経由しなきゃ追跡される」


澪は頷き、携帯端末を取り出した。画面には複雑な暗号化アプリが立ち上がり、ランダムに生成されたIPアドレスが次々と切り替わる。指先の震えは恐怖だけでなく、国家規模の陰謀を暴こうとする緊張からだった。


地下鉄の暗がりの中、二人は数分かけてデータを送信し始めた。外では黒服の靴音が近づく。澪が画面を見つめながら呟く。「送信完了まで……あと四分」


四分。銃を持った追跡者から逃げ切るにはあまりに長い。遼は周囲を確認し、非常用通路の先に繋がる排気ダクトを見つけた。「澪、終わったらそこへ。出口は駅裏だ」


やがて画面に“送信完了”の文字が表示された。同時に、澪の頬を冷たい風が撫でた。排気ダクトを抜けた瞬間、夜明け前の空が広がっていた。東の空はうっすらと白み始め、都市がまた一日の鼓動を始めようとしている。


背後では黒服の怒号が響いたが、二人はもう駅裏の雑踏に紛れ込んでいた。人の流れが彼らを包み、追跡者たちは方向を見失ったようだった。


「……やったな」遼が息を吐く。澪はまだ警戒を解かず、周囲を睨みながら小さく頷いた。「でも、本当の戦いはこれからよ。永光会は必ず取り返しに来る」


都市の喧騒に紛れ、二人の影は人波に溶けていった。だがその背後では、巨大な力が静かに牙を研ぎ澄ませていた。証拠が流出したことに気づいた瞬間、政界も警察も、そして裏社会も一斉に動き出すだろう。それは、彼らの想像を超える規模の“反撃”の始まりだった。

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