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第十一章 匿名の設計図



澪のアパートの前に着いたとき、路地は雨上がりの匂いで満ちていた。黒塗りの車のタイヤ痕が薄く残り、交差点の角で赤いテールランプが一瞬だけ揺れて消えたと、近所の老女が震える声で教えてくれた。部屋に入ると、澪は無言でノートPCの蓋を開き、昨夜から複数の送信ログが“成功”になっているのに、受信側に到達していない一覧を示した。


「送ったはずのデータが、宙に浮いてる」


遼は頷き、電話を取り出す。「倉木に会う。今日のうちに」


元二世信者で弁護士の倉木海斗は、都心の雑居ビルにある小さなオフィスで二人を迎えた。壁には公益通報に関するポスターと、証拠保全の手順が簡潔に貼られている。海斗は澪の持ち込んだメディアを受け取ると、まず“証拠の鎖”を作る儀式のような作業から始めた。書面での受領、媒体の撮影、シリアル番号の記録、封印。そして、第三者機関の認定タイムスタンプを付したハッシュを書面化し、内容証明郵便で自分宛に投函する。


「証拠は二系統で動かす。公知化のルートと、司法用のルート。前者はコピーを分散して誰かが必ず見つける“落とし物”にする。後者は、改ざん不能の形式で閉じる」


海斗はホワイトボードに矢印を描いた。公知化ルートの先には、ホームレス支援NPO、地域紙、そして匿名掲示板。司法ルートの先には、刑事二課の石塚剛と、東京地検特捜部の植松慎一の名前。


「石塚さんは足が速い。だが、署内には永光会と繋がる警備利権の線がある。特捜は…白井のOBラインが怖い。だから、最初の球は“街”に打つ」


その“街”の入口にいたのが、例の「先生」だった。高架下の炊き出し。紙コップの湯気。先生は二人を見るなり、笑い皺を深くした。「腹は、もう鳴ってるか」


海斗が封印した封筒を差し出すと、先生はそれを受け取り、祈祷札の束の中に挟んだ。札の余白を一枚ずつめくると、薄い鉛筆の点が星座のように現れる。「この札が十の手に渡れば、絵が見える。余白は、嘘の形を覚えている」


その夜、右翼団体「郷誠会」の街宣車がテレビ局前に回り、通信法改正反対の演説を始めた。だが実際の文句は改正条文ではなく、局の編成局長を讃える内容にすり替わっている。澪は窓越しにそれを見ながら、携帯で高梨詩織に連絡した。通話口の向こうで、機材のファンが唸る音がする。


「編集長が、寄付特集の枠を拡大するって。永光会のチャリティ番組を、選挙特番の直前に差し込むつもり」


「スポンサーの顔色だね」


「それと…社内の監視が濃い。私の端末に、見慣れないリモート管理ツールが入ってた」


通話を切ると同時に、海斗の事務所のドアが叩かれた。刑事二課の石塚だった。皺の深いスーツ、濡れた傘。彼は部屋に入ると、封筒の封印と受領書を見て、まず頷き、それから声を落とした。


「やり方は正しい。だが、敵も同じことをしてる。お前たちの“成功”ログは、通信会社の深いところで別のタイムラインに移されてる。送った事実だけが残り、中身は別の箱に」


「通信会社…やはりあそこか」遼の脳裏に、衛星通信の白いドームが浮かぶ。


石塚は、胸ポケットから薄い名刺を一枚出した。「この番号は、署の代表回線じゃない。俺の古いポケベルに繋がる。言いたいことがあるなら、数字で要点だけ送れ。こっちから公衆電話で返す」


古い方法。だが“現在”に混ざらないためには、過去の道具のほうが強いこともある。海斗は笑って名刺を受け取り、「先生」が持つ札束の位置を記した地図のコピーを手渡した。


夜更け、港湾でヤクザ「侠和会」の大岩が動いた。街宣の“警備”を名目に、倉庫番の配車を入れ替え、永光会の箱を別の箱に紛れ込ませる。見返りは、来月の病院の寄付パーティーの警備受注。医師・葉山の診断書で“社会貢献”の実績が厚塗りされる手はずだ。大岩は義理を重んじる男だが、義理の定義は「街の秩序」にある。宗教の秩序ではない。


同じ頃、起業家・佐伯蓮は寄付プラットフォーム「GivLink」の会議室で、アルゴリズムの“異常”に気づいていた。匿名寄付の一部が、規約に存在しないはずの法人アカウントに自動振り替えされている。ログは完璧で、むしろ完璧すぎた。「誰かが、改ざんの余地がない“正しさ”を装っている」蓮は社内の監査チームを外に出し、旧友の海斗にだけ短いメッセージを送る——“胃袋が増えてる”。


雨脚が強くなった。澪はベランダに出て、遠くの塔屋の赤い点滅を数えた。そこへ、ポストに落ちる小さな音。先生からの札だった。余白の点は、今度は川のように連なり、最後に「議」の形を描いている。澪は鳥肌を抑えながら、遼に電話した。


「次は、議員会館」


遼は短く「了解」とだけ言い、空の通い箱で覚えた手触りを思い出す。木箱、封印、入れ替え。敵が使う道具は、そのまま敵の首を絞められる。彼らは“匿名の設計図”を手に入れた。街、司法、メディア、寄付の胃袋、そして余白。その全てを使って、まず一つ、確実に光を通す穴を開けるために。

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