第1章 千灯の夜
隅田川の風は、春の名残をわずかに含んでいた。川面に浮かぶ千の灯籠が、等間隔で光を刻み、対岸の古い倉庫の壁に、ゆらゆらと均質な影を投げる。若葉財団が毎年主催する「千灯の祈り」は、テレビで見慣れた芸能人の笑顔と、磨き上げられたボランティアの動線、そして完璧に管理された善意の空気でできている。倉木海斗は、グレーのコートのポケットに両手を突っ込み、群衆の縁に立ってその空気の温度を測っていた。
ステージ上では、朝霧聖玄が穏やかな声で語っている。祈りの言葉は短く、言外のメッセージは長い。「この光は、あなたの心に届くべくして届くのです」——よく通る声が、スポンサーのロゴと並んで吊られた大型スクリーンの下まで滑っていく。海斗は、その声が持つリズムの規則性にふと気づく。等間隔のポーズ、言い換え、そして笑顔。裁判所で証人が嘘をつく時の呼吸と、どこか似ている。
背中にぶつかる紙袋の感触。振り返ると、ボランティアの若い女性が、段ボールから白い封筒の束を取り出していた。「寄付の受付はこちらです」——澄んだ声が、風と共に流れる。海斗の指先は、しみついた癖のように、封筒の紙質を目で触る。厚手。わずかに滑る。印刷のインクの匂い。表面には、宛先と金額欄、そして「公益目的支出控除に関するご案内」の小さな活字。企業法務で培った眼が、勝手に計算を始める。ここで集めた現金は即時開封せず、今夜のうちに中継拠点へ。翌日、医療法人の寄付と相殺する形で電子記録へ転化——そうすれば足跡は薄い。
「倉木さん?」呼ばれて振り向くと、三雲梓がいた。若葉財団の広報。プロフィール写真よりも実物のほうが、よく笑う。だが眼差しは笑っていない。「お越しいただけるとは思っていませんでした」
「招待は受け取った。断りきれない文面だった」海斗は肩をすくめる。梓は困ったように笑って、胸元のスタッフパスを指で押さえた。「今日は、ただの祭りです。仕事は明日、でいい」
「祭りなら、なおさら見ておきたい。金の流れは祭りで太くなる」
言い終える前に、遠くで歓声が上がった。ステージに、テレビで何度も見た女優が現れ、薄い青のドレスがライトを受けて川面の灯りと混ざり合う。演出は完璧だ。詩織の顔が脳裏をかすめる。彼女ならこのカメラの切り替えをどう評価するか。会って話したのは半年前。取材源を守るために、互いに嘘をついた夜。
川沿いの手すりに寄りかかっていた老いた男が、焚き火のような息を吐いて笑った。「善意ってのは、空気より軽い」男は誰に言うでもなく、灯籠に向かって話しかける。「風が吹けば、すぐに形を変える」
海斗はその横顔に見覚えのない既視感を覚えた。散髪のタイミングを逃した髪、よく磨かれた爪、古いが上等な革靴。ホームレスの群れに混じれば輪郭が溶けるように見えるが、細部は街の外の匂いを残している。
「先生」——いつの間にか傍にいた梓が、小さく呼んだ。男は軽く顎を上げる。「今年も来たのか」
「ええ。灯りは嫌いじゃないので」梓は男の前にしゃがみ込み、紙コップのコーヒーを差し出した。男は受け取らず、手を振って灯籠を顎で示す。「あれ、数、増えたろ」
「去年の倍。スポンサーが増えたから」
「数を増やすのは簡単だ。意味を増やすのは難しい」男はそう言って、やっとコーヒーを受け取った。紙コップの縁に触れる指先が、文字を書くときのそれに見えた。海斗は、その型を心に写し取る。
上空を、低いエンジン音がかすめる。見上げると、夜間訓練の航跡灯が川の上に点線を描いた。梓が無意識に目で追うのを、海斗は逸らさず見た。「飛行機が好きなのか」
「……兄が、パイロットで」梓の声は、風よりも薄く、だが逃げ場がない。
「災害支援の英雄、と新聞で読んだ」海斗は言い、その瞬間、自分が余計なことを言ったと気づく。梓は首を振り、笑顔を取り戻すのに数秒を要した。「英雄は、現場では普通の人です」
ステージでは締めの挨拶が始まり、白い封筒の束が再び動き出す。男——先生は、紙コップを置き、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。表紙に、星座のような点が無造作に並んでいる。海斗は思わず身を乗り出す。「それは?」
「余白だよ」先生は、ページを開かずに言った。「文字はすぐに嘘をつく。余白は、嘘の形を覚えてる」
言葉の手触りが、法律文のように硬く、そして詩のように柔らかい。海斗は自分がこの男を“先生”と呼ぶ理由を理解し始めていた。職業としての先生ではなく、語の選び方が先生なのだ。
閉会の花火が、小さな音で三発だけ上がった。騒ぎは終わり、搬出の静けさが始まる。梓はスタッフに呼ばれ、行き際に海斗へ視線を戻す。「——明日、一本お電話します」
海斗は頷いた。先生は立ち上がらない。灯籠の揺れが彼の瞳に映り、消えてはまた灯る。「倉木さん」先生が、海斗の名を当たり前のように呼んだ。「善意で満腹になったやつを、見たことがあるか」
海斗は言葉を探した。ない、と言えば簡単だった。だが、簡単な否定ほど真実から遠ざかると、法廷で学んだ。「ない、と言い切れない」
「いいね」先生は、紙コップの底を指で弾いた。「じゃあ、目をこらしてごらん。腹の音がする」
川風が、灯籠の火をほんの少しだけ揺らした。海斗は、胸ポケットのボイスレコーダーを確かめた。録るべきは言葉ではなく、揺れだ。そう決めて、群衆の流れに身を入れた。
その夜のうちに、白い封筒のいくつかは、中継拠点の地下駐車場に運び込まれる。監視カメラの死角をなぞる足取り、エレベーターの微かな時間差。そこに名前はまだない。だが、翌朝の領収書には、きちんとした名前が印刷されるだろう。海斗は、灯籠の数ではなく、余白の数を数えることにした。意味が増えるのは、いつだって余白からだからだ。