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8. 接触(結衣編②)

昼休みの大学構内。

如月結衣は、学生課の前で足を止めていた。


業務連絡に紛れて報告されていた、いくつかの迷惑行為と学生間トラブル。

その中で“目立たないが保護されている学生”の存在が繰り返し浮上していた。


「篠崎新一――」


前回訪れた際に名を聞いた、その学生の存在が、彼女の記録帳に複数回現れている。

その割に、学内のどの資料にも、明確な処分歴も注意指導も載っていない。


奇妙だった。


まるでその名だけが、紙の上に置かれた重しのように浮いている。


◇◇◇


学生課の窓口から出ると、彼女はふと、視界の端に誰かの姿を捉えた。


ベンチに腰掛けて、文庫本を読んでいる青年。

制服ではないが、年齢的には大学生。茶色の肩かけ鞄に、やや癖のある黒髪。


名札が見えた。「篠崎 新一」


……偶然だろうか。

いや、偶然でも、彼が誰であろうと、彼女の対応は変わらない。


正義とは、誰に対しても平等でなければならない。


そう思いながら、結衣は足を止めた。


「失礼。文学部の……篠崎新一さん?」


青年は、ゆっくりと顔を上げた。

焦る様子も、警戒もなく、むしろ静かに微笑む。


「はい。僕で合っています」


「私は如月結衣。警察から学内の対応に来ている者です。少し、お話をうかがえますか?」


「……もちろん。僕でお力になれることがあれば」


誠実な返答だった。少なくとも、彼自身が“後ろめたさ”を感じている様子はない。


むしろ――


(妙ね)


話してみて、彼の口調や態度には、“あまりにも疑う余地がない”という異様さがあった。

過剰に自信があるわけでも、媚びているわけでもない。ただ、純粋に受け入れる姿勢。


結衣は少しだけ質問を重ねた。

ここ最近の騒動、学生同士のトラブル、関係の有無――


「僕は特に関わっていないと思いますが……何かあったんですね?」


彼の目は真剣だった。演技ではない。

だが、どこか――無垢すぎる。


「あなたに関して、関係者から名前が挙がっている。内容は、学内の空気に関するものでした」


その言葉に、新一はほんの少しだけ、目を伏せた。


「……僕のせいではないと思いたいんです。ですが、もしそうだとしたら、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


謝罪の言葉はあるのに、責任回避の意思は見えなかった。

まるで、「どんな判断もあなたに委ねます」と言われているような――


(……この違和感は、何?)


結衣の中で、“選択肢”が揺らぎ始める。


彼を調査対象として扱うこともできる。

だが同時に、“信じるべき存在”として、優先することもできる。


それは、これまでの彼女にとってはあり得なかった視点だった。


新一は、ふと立ち上がった。


「長く拘束してしまったら申し訳ないので……必要があれば、またご連絡ください。対応はいつでもしますから」


それだけ言い残して、彼は去っていった。


礼儀正しく、無害に見えるその背中。

だが結衣は、心の奥に奇妙なざわめきを残されていた。


なぜ、彼に関わった学生たちは“彼を悪く言わない”のか。

なぜ、あの教授さえ避けたのか。

なぜ、自分も……もう一度会って話してみたいと思ったのか。


(――合理的でなければ、私は判断を変えない)


そう自分に言い聞かせながら、結衣は胸の内に浮かび上がった名を、そっとメモに書いた。


優先度:要観察 → 要再接触


項目の階層が、少しだけ上がっていた。

それでも彼女はまだ、自分の中で“何かが変わった”とは気づいていない。


ただ、その名をもう一度確かめたい――それだけが、今の彼女を突き動かしていた。

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