7. 障害の整地(陽子サイド①)
構内の書庫棟の一角、誰も来ない午前10時の自習スペース。
ノートパソコンのディスプレイには、ある講義の履修者アンケートが映っていた。
「B評価以上が三割を下回った講義って、最近じゃ珍しいわね」
陽子はそう言ってカップに口をつける。紅茶の香りが静かに立ちのぼった。
傍らの清香が、無表情にマウスを動かしていた。
「社会構造論I」。担当教授は、矢沢孝司。
学生人気は低く、過去にも数度、教務課とのトラブルを起こしている中堅講師だった。
「この矢沢って教授……先週、講義で“構内に存在する特定のカルト的な人間関係”について言及してたんです」
清香がそう言いながら、音声記録の書き起こしを表示する。
《学生たちは自分の思考を自律的に持つべきであり、ある人物に対する過剰な擁護や従属的姿勢は教育現場にそぐわない》
《名前は伏せるが、文学部の“篠崎”という人物を巡って……》
陽子の視線が鋭くなる。
「名指し寸前ね」
「はい。これは“献身を理解しようとしない人間”です。従属ではないと、何度でも説明できるのに」
清香の声は平坦だが、そこに怒気はない。
ただ、違和感の存在を記録する者としての確固たる態度があった。
「このままにしておくのは不適切です。彼に悪意を持った者が、知的権威として学生に影響を及ぼすのは――“秩序の崩壊”につながります」
陽子は一度、瞳を閉じた。
「……彼の平穏を乱すものは、排除しなくてはならない。清香、提案を」
「はい。矢沢教授は過去にセクシャル・ハラスメントの匿名通報を受け、学内調査を受けた履歴があります」
「処分には至らなかったのよね?」
「裏付けが不十分だっただけです。証言者が卒業した今、再調査は現実的ではありません」
陽子は頷く。
「なら、今回は手続きでいきましょう」
「履修アンケートと出席記録、両方に問題があります。講義進行の不備を、教務課へ正式に申告します」
「その資料、私の名前で出して。彼に私怨を疑われるのは不本意だから」
「了解しました」
会話は淡々と進んでいく。
しかし、それはあまりにも“純粋な忠義”だった。
彼を中心に世界が整っていくこと。
そこに、罪悪感はない。倫理的な正しさすら、そこにある。
「矢沢教授は彼に敵意を持った。なら、私たちは彼を守る。誰が間違っているかなんて、考えるまでもない」
陽子は立ち上がった。
清香もその背を追う。
その日、教務課には“学生代表”としての意見書が提出され、矢沢教授は「講義運営の適正性に関する再検証」の対象となる。
粛々と。
静かに。
整地が始まった。




