6. 正義の構造(結衣編①)
朝7時。
如月結衣は、いつも通り警察署の控え室で資料をめくっていた。
シャツの袖を肘まで折り返し、筆記具の並びに狂いがないように整えてからようやく腰を下ろす。
今日もまた、真っ当な一日が始まる。
それは、彼女にとって誇らしく、同時に当たり前のことだった。
若くして警部補――その肩書きに、色眼鏡を向ける者は多い。
だが結衣は、そのすべてに誠実さで応えてきた。
不正を憎み、暴力を拒み、感情を判断に混ぜない。
正義とは「誰のものでもない中立な構造」だと、彼女は信じていた。
自分の中にある「正しい」は、個人的な情動とは切り離されていなければならない。
だからこそ、彼女は孤独だった。
それでもいいと、思っていた。
◇◇◇
その日、署に入った通報は、大学構内での迷惑行為についてだった。
学生同士のトラブル。軽度の器物破損と、暴言。
「またか……」
大学近辺は、構内の自治で処理されることが多い。
だが、今回は一部始終の動画がSNSに上がっており、しかも被害届の意志があるという。
「如月警部補、どうされます?」
「私が行きます。学生相手ですから、感情的にならないよう対話を重視します」
そう言って立ち上がると、制服の男が苦笑する。
「ええ、如月さんが行くなら安心ですね。“完璧に正しい”方に怒られるのが一番こたえますから」
冗談めかして言われたその言葉に、結衣は何も返さなかった。
ただ、まっすぐに任務へ向かった。
◇◇◇
大学の構内――
騒動の現場を確認し、関係者の証言を聞き、被害者の意思確認を済ませる。
結衣の対応は機械的なまでに正確だった。まるで裁定装置のように、迷いなく動く。
「証拠動画の提供、ありがとうございます。内容を確認したうえで、処理方針をご連絡します」
そうして学生たちを解散させたあと、構内の資料室で報告書をまとめていると、隣の学部の学生らしき人物が声をかけてきた。
「如月さん……ですよね。実は、伝えたいことがあって」
「どうぞ」
彼は、周囲に人がいないことを確認してから口を開いた。
「この大学、最近……ちょっと変なんです。ある学生に関わると、やけに擁護されたり、批判しにくくなる空気がある。教授ですら避けてるように見える」
その言葉に、結衣の眉がわずかに動いた。
学内の人間関係に“空気”が発生するのは珍しくないが、教授までもが――?
「名前は?」
「篠崎新一って人です。文学部。……目立たないけど、変に守られてる感じがするんですよね」
結衣はその名前をメモ帳に書き留めた。
それは、何の感情も込めず、ただ“通報の構成要素”として記録した行為だった。
彼が特別な存在だと、まだそのときは思っていなかった。
だが――資料室の壁越しに、誰かの気配を感じた気がした。
気のせいだ、と彼女は打ち消す。
だが、ほんの一瞬、空気が妙に静まり返ったのは確かだった。
◇◇◇
署に戻ると、上司が声をかけてきた。
「結衣ちゃん、どうだった?」
「現場処理は完了。あとは被害届の内容次第で対応を調整します。……ただ、一件、気になる人物の名前が出ました」
結衣は、「篠崎新一」の名前を記したメモを渡す。
「構内での扱われ方が不自然だという話です。現状、違法性は見られませんが、何かが操作されているとすれば――」
「また、あの完璧主義が発動したか」
苦笑交じりに返されたその言葉にも、彼女は動じない。
「私は正しいことをしたいだけです。対象が誰であれ、例外はありません」
彼女にとって、“正義”は常に均質で、個人の色を持たない。
それが、如月結衣という人間の誇りだった。
だからこそ――彼女の“中身”は、この時点ではまだ何も変わっていない。
ただ、ひとつだけ違っていた。
「篠崎新一」という名前が、初めて、彼女の優先リストに入った。
それはまだ、最上位ではない。
しかし、“選択肢の中のひとつ”として彼が現れたこと――
それこそが、静かな献身の第一歩だった。




