3. 研究対象
風が強い午後だった。
図書館から戻る途中、陽子は思わず髪を押さえながら、自販機の脇で立ち止まった。
頭の中では、ある図式がずっと回転し続けている。
新一の提示したあの仮説――「価値観を変えずに、優先順位だけを再構成する」。
それは、従来の動機理論に新しい扉を開く可能性を秘めていた。
(彼は、自覚していたのかしら? あれがどれだけ興味深い問いだったか)
陽子は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出す。ふとした瞬間の気づきを記すため、いつも持ち歩いているものだ。
ページの一角には、こう書かれていた。
|《Case 001:Shinichi S.》
|仮説:行動の選択基準に“外部優先”が挿入された個体は、既存の倫理・感情と衝突せず再構成されるのか?
自分でも、なぜあの時から彼の名を記録しているのか説明がつかない。
けれど、それは「研究」なのだ。これはあくまで、論理と興味によって導かれた純粋な探求。
そう、純粋に――。
◇◇◇
その日、新一はゼミ室の隅で静かにノートを開いていた。陽子は自然なふりをして彼の隣の席に腰を下ろす。
「ねえ、新一くん。昨日の件、ちょっと続きを聞かせてもらってもいいかしら」
驚いたように顔を上げた新一が、少し戸惑いながら頷く。
「昨日……ああ、優先順位の話ですか?」
「ええ。あれ、とても面白かったの。あなたが“自分なりに考えた”って言ってた理論、もう少し詳しく知りたいわ」
話しながら、陽子は彼の言葉の端々に意識を集中する。彼の価値観、思考のクセ、そして何より――なぜ彼の言葉があれほどまでに“自然に響いた”のか。
会話は、まるで精密な機械のように進んでいく。陽子はときおりノートに小さくメモを取り、問いを挟みながら、徹底的に新一の語彙と思考構造を読み解こうとする。
そして不意に、陽子の中に、ひとつの確信が芽生えた。
(彼は、何かを“知っている”)
それは言葉では語られない直感。だが、確実にそう感じた。
そして同時に、陽子の“研究対象”としての興味が、ほんのわずかに「護りたい」という感情と溶け合っていく。
(この人のことを、もっと深く知りたい。もっと近くで見ていたい)
◇◇◇
その夜、陽子は自室の机でひとつの資料を作成していた。
タイトルは、仮題としてこう記されていた。
|【優先順位の最上位変化と、価値観の選択的合理化】
|~被験者Sを中心とした仮説構築と観察記録~
レポートには、「被験者S」が特定の条件下で周囲に与える影響を予測する記述もあった。
そして、その“影響の対象”として、陽子はゼミの後輩――清香の名前を記す。
|・被験者Sが清香と接触した場合、清香の内在的価値観とSの提示する行動指針がどのように融合するか観察したい。
|・清香のような観察眼の鋭い人物が、Sをどう解釈するかは、実験上極めて興味深い。
これは観察だ。あくまで学術的興味によるものだ。
――たとえ、それが結果的に清香を新一の傍へと導くことになったとしても。
(これは“導き”なんかじゃない。自然な流れの中で生まれる変化を、私はただ記録するだけ)
陽子はそう念じながら、ノートを閉じた。
だが彼女はまだ気づいていない。
自分の中で最上位に据えられた“彼への献身”が、あらゆる判断を“正当化”していることに。