2. 不可逆の導入
午後のゼミ室には、冷えた蛍光灯の光が静かに降っていた。
資料の山が積まれたテーブルの向こうで、陽子は一枚のレポートに目を通していた。研究テーマは「選択と価値序列の脳科学的基盤」。自らが提案した共同研究の中心だ。ページを繰るたび、赤いペンが小さく走り、既に三人分の指導を終えていた。
「……えっと、陽子先輩」
声をかけたのは、いつも目立たない位置にいる男子学生――新一だった。少しうつむき気味の話し方だが、言葉には奇妙な落ち着きがある。
「先輩の提案してた、選択の優先順位って理論……自分も少し考えてみたんです」
「あら、興味を持ってくれたの?」
陽子は笑顔でペンを置いた。こうして話しかけてくるのは初めてかもしれない。目立たないが、観察力と着眼点は悪くない――以前、彼の提出レポートにそう感じた記憶があった。
「はい。もしよければ、ちょっと意見を聞いてもらえますか」
新一が出したメモには、シンプルな図式があった。人間の価値観を階層的に並べたマトリクス構造。そして、外部からの“優先度の強制挿入”によって、選択傾向がどう変容するかをモデル化していた。
「……面白いわね。あくまで“価値観の再構成”じゃなくて、“優先順位の再編成”」
「ええ。価値観そのものは変更しないんです。ただ、“最上位”に何かが加わったとしたら、人はそれに従って、他の全てを再計算するんじゃないかって」
言葉の選び方は慎重だったが、どこか含みがある。陽子は思わずその目を見た。あまり目立たない、しかし不思議と記憶に残る瞳。
その瞬間、ふと――意識の底に小さな波紋が広がった。
(……変ね)
ほんの一瞬、何かが「入ってきた」ような、そんな感覚が脳裏をよぎった。頭痛でも、眩暈でもない。むしろ、霧が晴れたような明晰さ――
(新一くん……)
その名を思い浮かべただけで、胸の内に静かな光がともる。何かを解かれたような、ほどけたような、言いようのない安堵感。そして、
(この人の言葉、もっと聞いてみたい。彼の考えを理解したい)
それは研究者としての興味? それとも、人としての……?
だが陽子は、首を振る。違う。それは理屈じゃない。感情でもない。ただ、“当然そうすべきだ”という納得がある。
「……新一くん」
「はい?」
「あなたの考え方、すごく興味深いわ。今後の研究テーマにも取り入れてみたい。時間、あるかしら? 今後、少し付き合ってくれる?」
驚いたような顔で新一は頷いた。控えめな笑みが浮かぶ。
「……もちろん。光栄です」
その言葉に、陽子の胸はほのかに熱を帯びる。これが、“価値ある時間の始まり”であるかのように感じられた。
レポートの束はもうどうでもよかった。知識の探究よりも、正義の実践よりも、彼の言葉に耳を傾けることのほうが今は、遥かに重要に思えた。
彼の視点で世界を見たい。
彼の思考を追いかけたい。
――彼に、尽くしたい。
それは、誰に教えられたわけでもない。ただ、自分の中に最初からあった“当然の選択”として、陽子の中にすとんと落ちていた。