19. スポットライトの向こう
その夜、玲音は眠れなかった。
凱旋ライブは成功に終わった。
観客の反応も上々、SNSでは絶賛の声が飛び交い、新曲の再生数はすでに十万を超えていた。
でも、頭に残っていたのは——
ステージから見えた、ただひとつの視線だった。
◇◇◇
「また、見てたよね。君だけは、ほんとに……」
部屋の天井を見上げて、玲音は小さくつぶやく。
新一の名前を、口に出したわけじゃない。
でも、あの静かな目、あの“自分だけを見ている”空気は、今も胸に残っている。
玲音は、スマホを開いた。
アーカイブ映像の中、自分が歌っている場面を見ながら、ふと自分の表情に気づく。
——笑ってる。
微笑ではなく、安心しているような、誰かの前でだけ見せる“素の笑顔”。
その誰かが、あの場所にいた。
◇◇◇
──その映像を、別の場所で再生している者たちがいた。
大学構内・旧文学棟の一室。
夜の静けさのなか、プロジェクターに映るのは白崎玲音のライブ映像だった。
陽子は腕を組み、清香はノートPCを操作しながら表情を変えずに映像を見ている。
「注視対象:白崎玲音。ライブ冒頭三曲、すべてにおいて視線の固定率が異常値」
清香が淡々と述べる。
「ステージからの視線が特定方向に偏ってる。客席の配置と照明データから割り出すと……」
スクリーン上に小さく、新一の顔が拡大される。
「やっぱり、そこね」と陽子。
「白崎玲音……完全に“入ってる”わね。まだ自覚がないみたいだけど」
清香は短く頷く。
「『自分で選んだ』という錯覚を維持したまま、優先順位の再構成が完了してる。まさに理想的な伝播モデル」
「つまり、“拡張”が始まったということ」
陽子の声には緊張と期待の両方があった。
「……彼女は、鍵になるかもしれない。構造の外から来た存在。けれどもう、内にいる」
映像の中、玲音はスポットライトのなかで静かに微笑んでいた。
◇◇◇
翌日、玲音は控え室でインタビュー用のアンケートに目を通していた。
《あなたにとって“歌”とは?》
《最近、一番心が動かされた出来事は?》
ふと、ペンが止まる。
最近一番心が動いた出来事——
新一が、来ていたこと。
そして、何も言わずに、すべてを受け止めるように見ていたこと。
あの視線がなければ、あんな風に歌えなかった。
MCであんな言葉を選ぶこともなかった。
玲音は、気づかぬうちに小さく笑っていた。
「……もしかして、私が歌ってるのって、あの人に聴いてほしいから?」
その思考は、ふわりと脳内を漂ったあと、すっと心の奥に落ちていった。
「そうかもしれないね」
自分の中のどこかが、そう答えた。
◇◇◇
午後、玲音は大学の図書館を訪れた。
誰にも知られずに音楽理論を調べていた頃と同じように。
——彼がいた。
「……新一?」
彼は、顔を上げた。少し驚いたように、でもすぐに静かに会釈した。
「玲音……さん。こんなところで会うなんて」
玲音は笑った。「玲音“さん”って言うの、やめて。昔みたいに、普通に呼んでよ」
「……玲音」
その響きに、玲音はほんの少しだけ、頬を赤らめた。
◇◇◇
帰り際、玲音はぽつりと尋ねた。
「昨日のライブ……どうだった?」
「よかったよ。すごく、伝わってきた」
「何が?」
新一は少し考えて、言った。
「“誰かに届いてほしい”って気持ち。それが、歌にあった気がする」
玲音は息を呑んだ。
——やっぱり、わかってた。
「……君にだけ、伝わればいいって思ってた。ほんとに」
その言葉を自分で言って、玲音は気づいた。
もう、“誰に”歌を届けたいかなんて悩んでいない。
私の中では、答えが出ている。
彼に——新一に、届けばそれでいい。
他のすべては、そのためにある。
◇◇◇
夜。玲音はノートに新しい歌詞を書き始めていた。
それはまだ言葉になっていない想い。
恋とは違う。けれど、すべてを注ぎたくなる感情。
──君に届くなら
──それがすべて
──世界のどこかに、君がいるなら
──私は何度でも歌うよ