16. 調整点検(陽子サイド⑤)
深夜のキャンパス。
学生も教授も帰った構内の研究管理棟――その上階の資料保管室に、ひとつだけ明かりが灯っていた。
そこにいるのは、陽子と清香。
ノートPCの画面には、複数の監視ログが並ぶ。
記録されているのは、ここ数日間にわたる如月結衣の行動、発言、接触履歴、そして――篠崎新一の周辺環境。
「……完成したわね」
陽子が静かに言った。
「完全に“防衛層”として機能してます。彼が何も気づいてないのが、逆に怖いくらい」
清香がスクロールを止め、ひとつの映像を選ぶ。
映像には、図書館前のベンチで篠崎と結衣がすれ違う様子が映る。
会話はない。挨拶すらない。ただ、自然にお互いを“認識”してすれ違う。
「接触は最小限。でも、互いを“守る存在”として配置されてるのがわかる」
清香の声には感心が滲んでいた。
「彼女は自覚がない。でも、もう“あの位置”を離れられない」
陽子が頷く。
それは彼女が洗脳されたからではない。
心を変えられたからでもない。
ただ――判断の優先順位が、たった一つ変わっただけ。
「“正義”と“職務”と“倫理”のすべてを持ったまま、彼を守る最前線に立った。美しいわ」
その美しさは、歪みがないがゆえに、恐ろしくもあった。
清香が、画面右下のログ更新通知をクリックする。
>【結衣:署内稟議にて学内監視案件に対し“黙認判断”下す】
>【学内:篠崎新一に関する非公開苦情→却下済】
「彼女はもう、“無自覚な構造の一部”ですね」
清香が言う。
「いえ――あれは“自律的な意思”よ。自分の価値観で、選び取った結果にすぎない」
「選び取った結果が、“結果として服従”に見えるってだけ?」
「そう。これは、従属じゃない。もっと高度な“秩序”」
陽子は机の上のファイルを手に取り、整えた。
ファイルの背表紙には、ラベルがある。
>【秩序構成員:如月結衣判定:安定】
「彼女の配置は完了。防衛線は機能し始めてる。
彼の環境は、“自己調整型”になったわ」
「じゃあ……次は、“拡張”?」
「ええ。今の秩序が安定している間に、次のラインへ進む」
清香がそっと微笑む。
「次の対象は、どんな“価値”を守ったまま捧げるんでしょうね」
陽子は、ふと遠くを見るように目を伏せた。
「……価値が多いほど、捧げがいがあるものよ」
◇◇◇
画面の最奥、暗がりのなかで映る篠崎の姿は、あくまで“静か”だった。
何も知らず、誰も従えず、ただ淡々と日々を過ごしている。
だが、その日々はすでに、彼を最上位とした秩序によって守られていた。
彼が望まずとも。
誰も命じずとも。
“優先順位”が、それを作っていた。