12. 順序の誤差(結衣編④)
日曜の昼下がり、如月結衣は珍しく大学の構内を歩いていた。
私服に薄手のジャケット、髪は後ろで軽くまとめ、警察手帳は鞄の奥底にしまわれている。
今日はあくまで“個人の調査”であり、捜査ではない。
――名目上は、だ。
彼女は正義の人間であり、自分が個人的な感情で動くことをよしとしない。
けれど今、彼女は一人の学生を“確かめたい”という動機だけで足を踏み入れていた。
「……本当に、彼は何もしていないのか?」
声に出さずつぶやいたその疑問は、自身への問いでもある。
先日、構内で騒動を起こしかけた学生――西尾悠真の動向を確認していた結衣は、彼がSNSを突然鍵にし、投稿を削除していたことを知った。
彼は、こうも書いていた。
「気づいたときには、もう何も言う気にならなかった」
それが何を意味するのか、明確には分からなかった。
だが、西尾に関する騒動が沈静化した一方で、その後の学内の空気は明らかに整っていた。
結果だけを見れば――
新一の周辺から“敵”がいなくなっている。
◇◇◇
午後2時、図書館の自習席。
偶然か、あるいは意図か、結衣の視界に篠崎新一の姿が入った。
彼は一冊の書籍を開きながら、静かにメモを取っていた。
何かを操るような素振りはない。
ただ、そこに“存在している”だけだった。
「篠崎さん」
呼びかけると、彼は自然に顔を上げた。
「こんにちは、如月さん。……個人で来てるんですね」
「少し、確認したいことがあって」
「僕に?」
「いえ、あなたの“周囲”です。あなたは常に“関わらない”立場を取っているようですが、実際にはあなたに関する出来事が次々に収束していく。敵意が消えて、あなたの周囲だけが整っていく」
言葉を選びながらも、結衣は率直に口にする。
彼が罪を犯している証拠はどこにもない。
だが――“何かが起きている”のは事実だった。
新一は一瞬だけ目を伏せ、やがて静かに笑った。
「たとえば、如月さん。あなたが“危険な存在”を排除したいと思ったとき、その判断基準はなんですか?」
「その者が社会的に有害かどうか。倫理的な逸脱があるかどうか」
「そうですね。とても正しい。では、もしその“有害な存在”が、あなたにとっても誰かにとっても利益をもたらす存在だとしたら?」
「……それでも、正義は曲げません」
即答した結衣に、新一は穏やかに頷いた。
「そう思えるのが、如月さんらしいところです。……でも、もし、あなたが“誰かを助ける”と判断したとき、その行動が結果的に、僕の利益にもなったとしたら?」
「偶然でしょう」
「そうでしょうか?」
その声に、わずかな圧はなかった。
だが結衣は、自分が今――
彼の問いに対して、答えを出すのではなく、“答えを探させられている”ことに気づいた。
まるで、裁定を委ねられているようだった。
自分が「何が正しいか」を選んでいるのではない。
「彼に不利益かどうか」を先に考えてから、判断してしまっている――
そんな錯覚を、脳の隅に感じた。
「……私は、誰の味方でもありません」
言い終えて、自分でも驚くほどの空虚を感じた。
以前なら、その言葉には信念があった。
でも今は、“誰か”――彼に対してだけ、「敵になりたくない」という感情が介在している気がした。
それは正義ではない。
でも、罪でもなかった。
◇◇◇
夜。警察署のデスクに戻った結衣は、処理の終わった報告書を見直す。
新一の名前は、どの項目にも登場していない。
ただの“通過者”のように、全ての事件の端にいる。
だが結衣の視線は、報告書から離れた。
それが“誰の利益になったか”という視点を持ち始めていたことに、本人だけがまだ気づいていない。