11. 学内の火種(陽子サイド③)
日曜の夕方。
陽子と清香は、人気のない演習室でPCを開いていた。
プロジェクターに映し出されたのは、とある学生のSNS投稿。
「“気持ち悪いくらい人に好かれてるあいつ、裏で何してるんだ?”……これは、篠崎さんのことですね」
清香の声は静かだったが、その指先はすでに情報を束ね始めていた。
投稿主は、経済学部の2年・西尾悠真。陽子とは一度だけ、講義で席が隣になったことがある程度の関係だ。
「直接的な攻撃ではない。でも“火種”の素質があるわ」
「ですね。人間関係の嫉妬と被害妄想から始まって、だんだん事実に近づいていくタイプ」
清香は西尾の過去ツイートを確認しながら言う。
「目立ちたがりで正義感が強いタイプです。篠崎さんの“異質さ”に反応して、自分なりにバランスを取り戻そうとしている」
「つまり、悪意というより“混乱”ね」
陽子は一瞬だけ考え、視線を清香へ移した。
「接触する価値は?」
「あります。排除ではなく“再優先順位化”の余地ありです。動機は承認欲求。正義じゃない。だったら、対象を変えればいい」
清香はノートPCを閉じた。
「……でも、その前に、周囲を固めておきましょう」
◇◇◇
翌日、学内のカフェスペースで、ひとり座る西尾のもとに陽子が現れた。
アイスティーを片手に、彼の向かいに腰掛ける。
「こんにちは。ちょっと、話せる?」
「え?あ、橘さん……」
西尾は多少動揺した表情を見せながらも、頷いた。
「……最近、“何か”に気づいてるみたいね。篠崎さんのこと」
「いや、別に……でも、ああいうのって、おかしいでしょ。誰からも文句言われない空気って……気持ち悪くないですか?」
陽子は微笑した。
「“気持ち悪さ”って、時々“理解できない安心感”と似てるの。あなた自身がまだ、枠の外からそれを見てるから、そう感じるんだと思う」
「……枠の中?」
「あなたが“納得”するのに必要なのは、たぶん、誰かの行動理由を知ることじゃなくて、自分の“立ち位置”を調整すること」
言葉の意味を完全に理解できず、西尾は戸惑った表情を見せる。
陽子はふと視線を横へ向けた。
その視線の先、同じカフェの隅に、清香がいる。
スマホで何かを操作しているようだが、彼女の視線はガラスに反射してこの場を見ていた。
──監視されている、という感覚ではない。
ただ、“事実がすでに包囲されている”という空気が、ゆっくりと西尾に浸透していく。
「篠崎さんを敵に回すの、やめておいたほうがいいですよ」
清香が、隣の席でぽつりとつぶやいた。
まるで偶然の通りすがりのように。
「……あんた、誰だよ」
「関係ないです。でも、“彼”に悪意を向けた人って、みんな……最終的には、彼を理解する側になってるんですよ」
西尾は口を開こうとして、何も言えなかった。
陽子は笑った。
「でも、あなたがまだ敵でいられるうちは、自由でいられるわ。……少なくとも、今はね」
◇◇◇
その数日後、西尾はSNSを鍵垢にし、投稿の大半を削除した。
誰に命じられたわけでもなかった。
ただ、“言ってはいけないもの”の存在に触れ、自ら選んで沈黙したのだ。
陽子は、清香の記録ノートに一行、書き加える。
「西尾悠真:接触完了。対象反応あり。リスク解除」
「……火種って、意外と自分で消えていくのね」
「ええ。でも、消えるとわかったうえで、私たちは水を持って立っていなきゃいけない」
彼女たちは、戦わない。
ただ、「秩序を保つ」だけ。
それが、“彼”の時間を乱さないための最低限だった。