10. 重なり始める選択肢(結衣編③)
朝。
署に出勤した如月結衣は、デスクに置かれた一枚の資料に視線を落とした。
「学内の内部通報……“匿名希望の女子学生より、講師による不適切発言についての懸念”」
差出人は不明。内容は曖昧。
だが、ひとつだけ名指しされていた講師の名前に、結衣は眉を寄せた。
「……矢沢孝司」
前回の学内調査でも一度名前を聞いた人物。
彼が最近、特定の学生について警戒的な発言を繰り返していたという報告も上がっている。
だが、それだけでは――判断できない。
それが、結衣の矜持だった。
証拠も、確証も、何もない。
感情的な敵意や印象では、どちらが正しいとも断じられない。
結衣は、深く椅子に座り直した。
「確認を取ります。大学側には私から直接連絡を」
ただの通報ではなく、“判断すべき状況”として、彼女は動き始めた。
◇◇◇
午後、再び訪れた大学。
彼女は学生課にて職員と面会し、矢沢教授の講義アンケート結果、過去の注意記録、学生からの評価などを静かに確認していった。
その全体像から見えてきたのは、“火種にはなり得るが決定打にはならない人物像”だった。
(動かすには、もう一つ何かが必要)
証拠。被害者の確言。もしくは――
そこへ、職員のひとりがふと口にした。
「最近、矢沢先生が急に何かに怯えてるようなんですよ。“あの子を近づけるな”って、授業で突然……」
「“あの子”?」
「はい。確か……文学部の、“篠崎新一”という学生でしたか」
結衣の中で、静かに何かが重なった。
この通報が、もし篠崎に対する矢沢の発言を受けたものだとすれば。
そして、それが学内で波紋を生み、結果的に学生の安全や風紀を乱すならば――
(――その時点で、“介入対象”になる)
法律ではなく、秩序の維持のために。
彼女の判断軸が、合理的に“彼の保護”へと傾いた瞬間だった。
◇◇◇
帰署後、結衣は上司に報告書を提出する。
「判断はまだ保留ですが、構内の秩序を鑑みれば、矢沢教授への聞き取りは適切と考えます」
「そこまで動く必要あるか?」
「あります。放置すれば学生間の誤解を招き、今後の構内治安にも影響する可能性が高い」
その声は冷静で、正論に満ちていた。
だが、結衣自身はまだ気づいていない。
その判断の“起点”に、“篠崎新一の安全”が存在していることを。
◇◇◇
その日の夕方、帰り道。
ふと、講義棟の中庭で一人佇む新一の姿が視界に入った。
結衣は、意識せずに足を向けていた。
「……如月さん?」
「偶然です。今日はまた、構内で別件の調査がありました」
短い会話。特別なことは何もない。
だが新一は、いつものように、彼女を尊重する眼差しを崩さない。
「あなたに迷惑をかけていないと、いいのですが」
「……今のところ、問題はありません。ただ、あなたに関わる報告が増えているのは事実です」
新一は静かに頷いた。
「それが“誤解”であることを、信じてくれますか?」
その言葉に、結衣は答えなかった。
ただ、心の奥で小さな選択肢がまたひとつ、動いた気がした。
(――信じても、問題はない。秩序のために、そうすべきなら)
それは、正義の延長にある“判断”だった。
彼のために信じることが、今の自分にとって最も正しい選択だと思えた。