1. 才媛、火の中へ
火は、もう天井を舐めていた。
木造二階建ての古びた実験棟。煙の中をかいくぐりながら、陽子は咳き込みもせず、ただひたすらに「その声」のする方向へ足を運んだ。
火災警報が鳴っていた。逃げ遅れたのは、近隣小学校の社会科見学で訪れていた児童の一人らしい。避難を終えたはずの構内に、泣き声が響いた瞬間、陽子はためらわなかった。
自分の行動に誇りを感じていたわけではない。助けるのが当然だった。ただそれだけの理由で、彼女は炎の中へ入ったのだ。
幸い、子どもはすぐに見つかった。驚いたような顔をして泣きじゃくる少年を抱え、陽子は燃え落ちる天井の下を走り抜ける。
背中を焦がす熱風。視界を曇らせる黒煙。だが、彼女の足は止まらない。
「もう大丈夫よ。しっかりつかまってて」
迷いも恐怖もなかった。ただ、その小さな命を連れ出すために全身を使った。
ようやく外へ出たとき、炎の輪の向こうから拍手が起きていた。教職員、学生、見学に同伴していた保護者たち――みなが陽子の姿に目を見張っていた。
消防隊員が駆け寄り、陽子の腕に走ったやけどを見て眉をひそめるが、彼女は軽く笑って首を振った。
「大丈夫です。冷やせば治りますから」
その横顔は、灰にまみれてなお、どこか凛としていた。
◇◇◇
翌日、キャンパスの掲示板には事件を報じた新聞の切り抜きが貼られていた。
《大学生、火災から児童救出》
陽子の写真は載っていなかったが、その名は学内の誰もが知っていた。
理工学部三年、綾瀬陽子。学業成績は常に上位、教授陣からの信頼も厚く、すでに研究室の実験補佐も任されている才媛。男子学生にも女子学生にも分け隔てなく接し、質問には丁寧に答え、議論では決して傲らない。
ただの優等生ではない。彼女の言葉や行動には、どこか「真理」への欲求があった。知識だけでなく、意味を、そして根拠を問う姿勢。その知的誠実さが、周囲から一目置かれる理由だった。
「……やっぱり、陽子先輩はすごいよな」
「でも、無茶しすぎだよ。火の中に入るとか、普通じゃない」
学生たちのそんな言葉にも、本人は過剰な反応を示さない。事務的に処理し、ただ淡々といつものようにゼミの準備に取りかかる。
陽子にとって、あの行動は「当然」だったからだ。
◇◇◇
ゼミ室の窓から差し込む光は、午後の静けさを連れてきていた。
資料の山を前に、陽子はひとりレポートに目を走らせる。
そして、その視界の端に、ふとある人物が映る。
新一――同じゼミに所属する、あまり目立たない男子学生。いつも黙って席に座り、誰とも積極的に交わろうとはしない。
(……そういえば、この子、確か成績は悪くなかったはず)
陽子は何気なく視線を戻す。特別な意味などない。ただ、頭の隅にその名が残っただけ。
――それが、後にあれほど深く、あれほど優先される名前になるとは、まだこのときの陽子は知らない。




