73. 「憎悪」の樽
2版LXXIII、3版LXXV
LE TONNEAU DE LA HAINE
1851-04-09, Le Messager de l’Assemblée
1855-06-01 : Revue des Deux Mondes
憂鬱詩群 ソネット形式 脚韻ABAB CDCD EFE FGG
「憎悪」、青白いダネイデスの樽よ。
「復讐」が、その赤く力強い腕もて、恐怖のうちに
その虚ろな闇に幾度投げ込もうとも
死者の血と涙を、大きなバケツいっぱいに
La Haine est le tonneau des pâles Danaïdes ;
La Vengeance éperdue aux bras rouges et forts
A beau précipiter dans ses ténèbres vides
De grands seaux pleins du sang et des larmes des morts,
「悪魔」はこの深淵に秘密の穴を開ける、
千年の汗と努力がそこから逃げていく、
時に彼女が、彼等の身体を圧迫して蘇生させる
犠牲者を救う術を弁えていたとしても。
Le Démon fait des trous secrets à ces abîmes,
Par où fuiraient mille ans de sueurs et d’efforts,
Quand même elle saurait ranimer ses victimes,
Et pour les pressurer ressusciter leurs corps.
「憎悪」は酒場の奥に居る酔っぱらい、
酒から生まれる渇きをいつも感じている
そして増殖する、レルナのヒドラみたい。
La Haine est un ivrogne au fond d’une taverne,
Qui sent toujours la soif naître de la liqueur
Et se multiplier comme l’hydre de Lerne.
……しかし酒飲みは幸いにも、覇者を知っている
対して「憎悪」に下された運命は嘆かわしい、
食卓の下で眠りにつくなど決してできない。
— Mais les buveurs heureux connaissent leur vainqueur,
Et la Haine est vouée à ce sort lamentable
De ne pouvoir jamais s’endormir sous la table.
訳注
Danaïdes: この神は単一ではなく、50柱にも及ぶ女神の総称である。単数形はダナイス(古希: Δαναΐς, Danaïs)。アルゴス王ダナオス(古希: Δαναός, Danaos, 英: Danaus)の娘というが、大国主並みに妻が複数あったにしても数が多すぎる。按ずるに、一種の同盟ではなかったか。ダナオスはエジプト王権を巡って双子のアイギュプトスと対立し、相手の息子50人を恐れてアルゴスに逃れる。後に和解を申し出たアイギュプトス50人の息子たちに、自分の50人の娘たちを娶せた、その晩に命じて相手を殺させる。唯一、長女ヒュペルムネーストラーのみ、相手のリュンケウスが手を出さなかったので殺さなかった。オウイディウスに拠ると彼女以外は死後、冥界で罰を受け、永遠に終わらない水汲みをさせられているという。引用したマルティン・ヨハン・シュミット(1718 – 1801)『ダナイデスの樽』(1785)では、汲んだ水を入れる樽に穴が開いている。この主題で複数の画家が描いているので、ボードレールの見た絵がこれであるとは限らないが。
les pressurer ressusciter: 心臓マッサージは、フリードリヒ・マース(Friedrich Maass)博士が提唱した胸骨圧迫法(1892)が最初のようだ。それより前には英国医師のジョン・ヒルが、1868年に3例のクロロホルム麻酔後の心肺停止に胸骨を15秒間に3回圧迫し、急激に圧迫を解除時(吸気が生じる)にアンモニアをかがし、救助したと報告した。というが、1867年に世を去ったボードレールが聞いていた筈はなく、それこそ悪魔からでも聞いたのでなければ、いったい誰に聞いたのか、全くもって謎である。
de Lerne: ダナイデスの1人アミューモーネー (古希: Ἀμυμώνη, Amȳmōnē)は、サテュロスに襲われて危ういところを海神ポセイドーンに助けられ、見初められてナウプリオス(ナウプリアの創建者)を生んだ。
その時アミュモーネーは旱魃のため、水源を探していたので、ポセイドーンにレルネーの泉を教えてもらった。あるいは三叉戟で泉を出してもらった(古くは地下におはす神だったらしく、『イーリアス』では「大地を揺する御神」と呼ばれている)。この泉は後に、ヘーラクレースが退治するヒュドラーの巣となった。




