婚約者様。今、貴方が愛を囁いているのは、貴方が無下に扱っている貴方の婚約者ですわよ
「ああ、なんて美しいんだ。貴女は、まるで月光に照らされた一輪の花のようだ。その白銀に輝く髪、青くきらめく瞳、小さく慎ましやかな唇。どれをとっても、どれほどの高名な芸術家が描いた女神よりも美しい。私とした事が、この様な美しい御令嬢を今まで存じ上げていなかったとは……。私は、一目見て貴女の虜になってしまったようだ。お願いです、私の月光の君。美しい貴女のお名前を教えては頂けませんでしょうか?」
とある公爵家での夜会。一人テラスに出て綺麗な夜空を眺めていた所に一人の男性が現れ、大層仰々しく私の手を取り先程の様な事をツラツラと述べられたのですが……
私、貴方の婚約者のマリサですけれども?
今、婚約者であるはずの私に初対面の挨拶をされているこの方は、エリック・エルヴェ・ミュラトール伯爵令息。
私とは婚約して5年となりますのに、今日の私を婚約者だとお気付きにならないなんて。ましてや、婚約者がいる身で女性を口説くだなんて。ねぇ?
随分と、私を軽んじていらっしゃるようですわね。
「ミュラトール伯爵令息様には、御婚約者がおられたはずですが?」
この際、私を婚約者だと気付いていない、という事は置いておきましょう。今、その事を言った所で事態がややこしくなるだけな気がしますもの。
なので、今、私がエリック様に言える事は今この状況が宜しくない、という事を伝える事だけ。
こんな所で女性を口説いている所なんて見られたら、一気に人々の口に乗って広まってしまいますでしょう?
婚約者がいながら堂々と他の女性に秋波を送るだなんて、とんだ醜聞。
それを諫めるつもりでお声を掛けたのに……
「私の事をご存知なのですか! ああ、何て事だ。貴女の中に私という存在が既にあったなんて……これ程嬉しい事はない。婚約者の事ならご心配には及びませんよ。所詮は愛の無い政略結婚。あちらはどう思っているかは知りませんがね、私にはあんな地味で根暗な女なんて、これっぽっちも気に掛けていませんよ」
へ~……地味で根暗、そう思っておいででしたの……
でもそれって、エリック様が私に「淑女たる者はこう在れ」と、ありがたーい教えを強要されたからではございませんこと?
「いつも堅苦しく首まで詰めた地味な色のドレスを着て、華やかさの欠片も無い。それに比べて、貴女の今日の装いはなんと華美な。特に胸元に輝く大ぶりのトパーズ。貴女自身の魅力を際立たせるに相応しい品だ。願わくば、次の夜会には貴女を輝かせるドレスと宝石を私が贈る栄誉を賜りたい」
堅苦しくて地味なドレス、ねぇ……
それはエリック様が「服装は華美な色ではなく、装飾の無い物。かつ、肌の露出の無い物を」と仰ったからじゃございませんか。
しかも、エリック様から贈られてくるドレスがまさしく、堅苦しく首まで詰めた地味な色のドレスで、私嫌々ながらもエリック様の顔を立てる為に着ていたと言うのに。
言うに事欠いて……ねぇ?
「それに、この月光の様な美しい白銀の髪。こんなにも繊細で触れると溶けてしまいそうだ。あの女の髪と比べるとまさに月とスッポン。あの女の髪なんて真っ白で艶も何も無い。しかも、いつも髪をひっ詰めて、まるで老婆のようだ」
老婆……老婆。へぇ……
それも、エリック様が「髪は常に一つに結い上げ、乱れる事の無い様に」との事でしたから従ったまでですのに。
乱れぬようにクリームを塗って固めていましたので、そりゃあ艶も繊細さもありませんわよ。
うら若き乙女が、どうして好き好んであのような髪形にしますか。
「しかも化粧の一つも覚えないで……信じられますか? 年頃の娘が婚約者に会うのに化粧もしないのですよ? 社交界に行くのもすっぴんで……はぁ、私がどれだけ恥ずかしかったか……私だって鬼では無い。貴女ほど美しくなれ、などと無茶を言うつもりは無いのに。貴女なら、化粧など無くとも美しさが損なわれる事は無いのでしょうけどね」
あれでも一応、しておりましたけどもね。
エリック様が「化粧は控えめに。ファンデーションと口紅までに抑える様に」と言われるので、その様にしておりましたのに、信じられない、恥ずかしい、だなんて。
私の方が信じられないですし恥ずかしいですわ。
「いつもいつも黙って私の後ろを付いてくるだけ。茶の席を一緒にしても私ばかりが気を遣って喋って、あの女は気の利いた事一つ言えやしない。あの沈黙の続く茶会がどれだけ苦痛だったか。貴女となら、無言の茶会も苦にならないのに。いや、むしろ言葉なんて必要ない。貴女がそこにいてくれるだけで、それだけで王宮主催の茶会も眩むほど素晴らしいものとなるでしょう」
私も苦痛でしたわ。
「常に男性をたて、控えめに慎ましやかにしている事」なんて仰って、私が喋ろうものなら不愉快だって顔をされるから黙っていただけじゃございませんか。特に、政治、経済、国際の話を女がするなんて生意気だ! って激昂されたのはどなたでしたかしら?
それをまぁ……呆れます事。
「エリック様が婚約者様をどのように思われているのかは、よく分かりましたわ。で? その婚約者様はどちらに? 本日の夜会はパートナーを伴っての来場が決まりだったはずですけれども……。どちらにいらっしゃるのか、ご存知ですか?」
目の前に、そのボロッカスに言われた婚約者がおりますけれど、お分かり?
ほんの少しの嫌みを含ませて言えば、エリック様はこれ見よがしに溜息を吐いて首を振られた。
「さぁね。今日はエスコートも断られ、会場に来ているのかすら分からないんだ。来ているのなら挨拶の一つもして来ると思っていたんだが、来ない所を見ると来ていないんじゃないかな? 随分と私も軽んじられたものだ。もしかして、私が貴女に心を奪われてしまったから、睨まれるのじゃないかと心配しているのですか? 大丈夫ですよ。そんな事はさせませんし、あの女には文句を言う権利も意気地もありませんよ」
権利位はありますでしょう。何を言ってるんですの? このお方……
それにエスコートを断られた? 可笑しいですわね、断られたのは私の方ではなかったかしら?
今日の夜会は何ヵ月も前から招待を受けているにもかかわらず、ドレスも宝石も贈られておりませんでしたけれど? まぁ、贈られて来た所でエリック様の言う所の堅苦しくて地味なドレスにガラス玉の様な宝石ですから、いりませんけど。
大体、エスコートをされたのだって、この五年間で最初の三年間だけではありませんか。
それ以降は贈り物も無く、エスコートの申し入れもございませんよね? 仕方なく、本当に仕方なく! エスコートはどうされますか? というお手紙を出しても定型文なお断りの手紙が戻って来るだけでしたわよね?
本当、どの口が軽んじられてる、なんて仰るのかしら。
「あの女はね、必死に私に贈り物を贈って私の気を引こうとする浅ましい女なんです。事ある毎に贈り物やカードを贈って来て、私が物で左右される様な男だと思っているのか……嘆かわしい」
贈り物やカードが浅ましい……はぁー、初めて聞きましたわ。
そう言えば、エリック様からは誕生日の贈り物どころかカードすら届いた事がありませんでしたわね。
なるほど、ミュラトール伯爵家では贈り物をするのは非常識だと……そういう事ですのね。よーく、分かりましたわ。
「エリック様、そこまで仰るのに、なぜいまだに婚約をお続けになられていらっしゃるのですか? そんなに嫌なのでしたら婚約解消の申し出をされたら宜しいんじゃございませんこと?」
本当に。そこまで文句がおありならさっさと婚約解消して欲しいですわ。
私だって、好き好んでエリック様と婚約している訳ではございませんし、むしろ、そうして頂いた方が大変喜ばしいのですが。
私の父も母も、エリック様の所業には大変ご立腹で、どこかで婚約を白紙に出来ないかと虎視眈々とチャンスを窺っていた所なんですのよ。
ただ悲しいかな、子爵家な私の家から伯爵家への婚約解消はなかなか難しいものですから。エリック様、伯爵家から仰っていただけるとなると、まさに渡りに船! ですわ!!
「なんと! 貴女からその様な提案を言われるとは!! 私は、期待してもよろしいのでしょうか」
「いいえ、私はあくまで一般的観点から疑問を投じただけで他意はございません」
変な誤解をしないで下さいまし! おぞまし……いえ、なんでも……失礼いたしました。
「そうですね、今迄あの女に泣いて縋り付かれても面倒臭いと思って放置していたのですが、貴女の為なら、そんな面倒も苦にもならない」
「さようでございますか」
誰が縋り付きますか。むしろ、三日三晩踊り明かす程の狂喜乱舞で屋敷を揺らしますわ。
「明日にでも、早速あの女の家に行って婚約破棄を突き付けて参りましょう! その暁には……貴女に——」
「連れが参りましたので失礼致しますわ」
「あ!! せめてお名前だけでも!!!」
これ以上エリック様と話していては頭痛と吐き気がして来そうですし、時間が勿体ないだけですわ。これなら、お猿さんが豆を拾っているのを延々と見ている方が有意義なくらい。
さっさとこの場を立ち去ろうと身を翻し、テラスから立ち去ろうとする私の手を掴もうするエリック様の手を躱し、怒りのままにカツカツとヒールを鳴らして屋敷の中へ戻る。
それにしたって婚約破棄ってなんなんですの!? まるで、私に非がある様ではございませんか!!
どこまでも私、ひいては我がデシャネル家を馬鹿にされる様で……よろしい、その白い手袋、受け取って差し上げますわ。
******
明日にでも、と仰った通り、エリック様は夜会の翌日、なんと先触れも無く一人で我が家に来られました。
お父様には昨日の夜会での事はお伝えしておりましたのでエリック様の訪問自体には驚いてはおられませんでしたが、まさか先触れがないなんて。しかも、婚約という家同士の話し合いに一人で来られるとは、なんて不躾で非常識なのでしょう。
しかも、言うに事欠いて。
「マリサ嬢との婚約を破棄させて頂く!」
同席しなくても良い、と言うお父様に甘え、隣の部屋から事の次第を窺っていた私は大きな溜息しか出ませんわ。
それはお父様も同じだった様ですわね。こちらの部屋にまでお父様の呆れ返った溜息が聞こえましたもの。
「破棄、とはどう言う事かね?」
「マリサ嬢は私には釣り合わない! 釣り合おうとする努力も見えない! あのような令嬢を我が伯爵家に迎え入れては、こちらの恥だ!!」
「恥、ですと?」
お父様、ここは抑えて下さいまし!!
明らかに声が怒りで震えておりますわ!!
「この婚約の意味と、マリサが質素な装いでいる事の理由をエリック殿はご理解しておられるのか?」
「マリサ嬢が私と結婚したいとゴネたのだろう? 確かにデシャネル子爵家の融資と業務提携は魅惑的だったが、それをチラつかせて娘の我儘を通して望まぬ政略結婚をさせられる私の身にもなって欲しい。それに、マリサ嬢のあの色気の無い装いに理由があるなら、貴殿方が正して差し上げては如何ですか? 私は理由も何も興味はありませんが、常に不愉快に思っておりましたよ」
「なるほど……君のその言い分だと、お父上にはこの婚約を破棄?したいと言う事はお伝えしておられないようだね」
そうですわね。ちゃんとミュラトール伯爵当主で在らせられるお義父様にお話を通しておられれば、この様な発言になる訳がありませんもの。
と言うか、とんでもなく自分に都合の良い様に解釈されていますけど、最初に婚約を結ぶ時にこの婚約の意味をご説明したはずですわよね。お忘れになられたのかしら。
「父には事後報告になるが問題ない! 次期当主の私が自分の結婚相手にマリサ嬢が相応しくないと判断したんだ! なんの問題がある!!」
「そうですか、君がそう言い張るなら、それでも良いでしょう。こちらとしても、これ以上エリック殿を家のマリサの婚約者とし続けるつもりは無いのでね。ただ、『解消』と言うなら我が家は喜んで受け入れるが『破棄』と言うのは受け入れがたい。我が家、ましてやマリサには何も非難される謂われは無い。我々はミュラトール伯爵家にもエリック殿にもきちんと礼節ある付き合いをして来たはずだ。むしろ、そちらの方が我々に無礼を働いていないかい? 先触れも無く来られた今日のようにね」
「なっ!」
お父様! 私が言いたかった事をズバッと言って下さるなんて、素敵ですわ! お母様が「お父様ってホンワカしてらっしゃるけど、いざという時には頼りになるんですのよ」って仰ってたのも納得ですわね!
私も、お父様みたいな優しく頼りになるお方と添い遂げたいものですわ。
その為には、エリック様との婚約解消は絶対なのです!
「私のどこが失礼だと言うのだ! 格下の子爵の分際で良くもそんなに大きく出られたものだ! そちらがどうしても、と言うから婚約してやったと言うのに!」
「どうしても、と言って来たのはそちらのミュラトール伯爵家の方なんだけどね。それに、仮にも婚約者なら最低限の務めは果たすのがマナーではないのかね? 君は、その務めを全く果たしていなかったと思うが?」
「嘘を吐くな! それに、私が婚約者だという肩書だけで充分だろう! それ以上の事を要求するなぞ、なんて図々しいんだ!!」
はぁー……。何なのでしょう、なんでこんな方と婚約なんてしてしまったのかしら。まぁ、断れなかったからですけれども。
隣の部屋で会話を聞いているだけの私でもグッタリ疲れて来ていますのに、直接対峙して下さっているお父様はもっとお疲れでしょう。
でも、頑張って下さいませお父様! 婚約解消の暁にはお父様の大好きな洋酒をご用意させて頂きますわ! アンチョビオリーブも付けましてよ!!
「君とは話にならないな。なんと言われようとも、こちらも『破棄』は認められない。『解消』ならば書類もここにある、今すぐ応じよう。だが、どうしても『破棄』だと言うのなら、こちらも出る所に出させて貰う。その場合は双方共に時間も労力も掛かるだろうが、エリック殿、君はそこまでして『破棄』にこだわるのかい? 君の言動を見ていると、スピード解決を望んでいるように感じるが……どうなんだい?」
「くっ……忌々しい。足元を見おって! 良いだろう! 『解消』で結構だ!! その代わり後から解消の撤回要求なぞするんじゃないぞ! どれだけマリサ嬢が泣き喚こうが復縁は聞き入れんからな!」
「それだけは絶対に無いから安心してくれたまえ。それでは早速この書類にサインを……。エリック殿からの解消申し込みだという事は、しっかり明記させて貰うが、良いね」
「当たり前だ! 私が解消を望んでいるんだ! 間違ってもお前達からの解消ではない!」
やりましたわ! お父様!!
書類にサインさえさせてしまえば、こちらのものですわ! これで、私は晴れて自由の身! あんな勘違い男に振り回される人生を歩まなくて済むのですね!!
それにしても、エリック様って本当にお馬鹿さんですのね。
******
「私の月光の君! やっとお会いする事が出来た!! 再び貴女と会う日を、どれほど心待ちにしていた事か」
無事にエリック様との婚約を解消でき、晴れ晴れとした気分で迎えた初めての夜会で、昔からのご友人達と談笑しておりましたのに。
「ごきげんよう、エリック様。何かご用でしょうか?」
空気もタイミングも読まないエリック様が私達の輪に突如割り込んで来られて、折角の楽しい気分が台無しですわ。
ご友人の御令嬢達も不躾なエリック様の登場に眉を顰めておられるのがお分かりにならないのかしら?
皆様のシラケた視線なんて感じないのか、はたまた見えていらっしゃらないのか、徐に片膝を突いたエリック様が芝居がかった仕草で私に手を差し伸べて来られた。
「貴女の為に、婚約を解消して参りました。これで、私は堂々と貴女にこの胸の内を打ち明ける事が出来る。月光の君よ、一目貴女を見た瞬間から私の心は貴女に囚われてしまいました。どうかお願いです。私の妻となり、この私に貴女の為に一生を捧げる事をお許し頂けないでしょうか」
「お断り致しますわ」
「え?」
そんなに私が即答でお断りしたのが信じられないのですの?
鳩が豆鉄砲を食らったかの様な顔で、私を凝視されてますけど、まさか了承されると思ってらしたの? 信じられませんわ。
「そもそも、出来ませんわよ? つい先日、私とエリック様は婚約を解消したばかりではございませんか。一度婚約を解消したからには、簡単に縁を結び直す事が出来ないのをご存じ無いのですか?」
「な……なにを言って……。それは、マリサ嬢との話で……貴女とは関係のない話……」
「だから、私がそのマリサですわ。元エリック様の婚約者のマリサ・ロメーヌ・デシャネルだと、申しておりますの。いくら私に興味が無いからと言って、婚約者を婚約者と気付かずに求婚されるだなんて、私ビックリいたしましたのよ?」
「い、いやいや。……なぜ、そんな嘘を……。だ、だって、あの女と貴女では全然違うじゃないですか。は、ははは、貴女がそんな冗談を仰るなんて……」
あら嫌だ、信じて下さらないなんて。
「え? ご自分の元婚約者のお顔もご存知ないんですの?」
「しかも、あの女ですって……元とはいえ婚約者に、なんて粗暴な。怖いわ」
「マリサ様、大丈夫ですか? お父様を呼んで参りましょうか?」
「以前から失礼な方だとは思っておりましたが、ここまでとは……」
ご友人の皆様が口々にエリック様を非難され、信じられない物を見る目で見てらっしゃいますけど、そうですわよね。普通、分からないなんてあり得ないですものね。
でも、それも無理からぬ事かしら。
「エリック様がお化粧はファンデーションと口紅以外はお認めにならなかったでしょ? 地味な私がベタベタ塗った所でみっともないだけだって仰って。だからエリック様とお会いする時はほとんどお化粧しておりませんでしたの……なのに、化粧も覚えず恥ずかしいだなんて、酷いじゃありませんか」
「え……な、な。わ、私は、そんな事」
「仰いましたわよ」
今更、無かった事にしないで下さいまし? 屈辱的な事って、言われた方はしっかりと覚えておりますものよ。
「体つきだって! 全然違うじゃないか! あの女は女性らしい曲線もない寸胴なスタイルで、自堕落な生活が見て取れる見た目なんですよ!」
「エリック様が数回贈って下さったドレスがございましたでしょ? エリック様いわく堅苦しくて地味な、あのドレスですわ。あのドレス、全て胸の部分が窮屈でしたのよ。それなのにウエストの部分がガバガバで、着るのに大変苦労致しましたの。コルセットでウエストでなく胸を締め付けて……今思い出しても辛かったですわ。だから、あのようなストレートな体型の方がお好みなのかと思っておりましたけど、違いましたの?」
私のドレスの胸元から覗くふくよかな丸みを不躾にも直視されながら、なんて事を口にされるのかしら。品性を疑いますわ。
普通、女性にドレスを贈る時はサイズをキチンと確認されるか、縫製人を寄越して作らせるのが常ですのにそれもせず、ましてやサイズが合っていない物を贈るなど紳士として言語道断。
誰かの為に作ったドレスを別の誰かに間違えて贈った、と取られても致し方ないほどあり得ない事ですわ。
私の嫌みを乗せた指摘に顔を真っ赤に染めたエリック様が「ちがっ、ちが」と仰ってますけど。でしたら、あのドレスはなんだったのかしら?
「ほ、本当に? 本当にマリサ、なのか? そんなに美しかったなんて、そんな……言ってくれれば……。ド、ドレスだって、あ、合わないなら。い……言って、くれれば、良かったじゃな、いか……」
あら、遂に私がマリサだとお認めになられました?
ヘラヘラと締まりのない誤魔化し笑いと、言い訳にもならない言い訳を述べられて、この方は誠意と言う物を持ち合わせておられないのかしら。
しかも、言えと仰っても、ねぇ?
「私が喋ると嫌な顔をされて、自分の許可なく喋るな、と怒られるじゃございませんか。それでも一度、それとなくサイズが合わない、とお伝えした事がありますのよ? その時、エリック様は、貰っておいて図々しい事を言うな、と……。サイズが合わないのは私の努力が足りないのだからドレスに合う体型になる様に努めようとは思わないのか、と。そう仰ったのですが、お忘れですの?」
あんな体型になれ、なんて随分ご無体な事を仰るものだと大層呆れたのを覚えておりますわ。
今になってご自分の発言を思い出されたのか、真っ赤だったお顔を真っ青に変えられたエリック様が、ダラダラと汗を掻きながら忙しなく目線をあちらこちらに走らせて、何やら一生懸命お考え中のご様子。
「な、何か、色々と行き違いがあったようだ。今度、縫製人と宝石商を連れて君の屋敷へ伺うよ。今までの誤解のお詫びに、君に似合う最高級のドレスと宝石を贈らせてくれ」
あら、行き違いに誤解、という事にしようと言う事かしら?
あれだけ考えた結果が、こんな幼稚なものだなんて、がっかりですわ。
それに、考えが甘いです!
「あら! それはいけませんわエリック様!」
「な、なぜ? 私は、マリサの為なら贈り物に糸目は付けないよ? 欲しい物があるのなら遠慮なく言ってくれ」
「何を仰ってるのですか、エリック様。ミュラトール伯爵家では贈り物をするのは非常識なのでございましょう?」
「え?」
「以前、仰っていたではありませんか。贈り物をするのは相手の気を引こうする行為で浅ましい、と。私、いくら政略結婚とはいえ、それなりに誠意ある対応をするのは人として貴族として最低限のマナーだと思っておりましたの。ですから、毎年のお誕生日や季節の行事でのご挨拶や贈り物は欠かさず送って参りましたし、卒業や昇級など何か祝い事があれば、そちらもお祝いの品を送っておりました。でも、それが浅ましい行動だなんて思わなくって、お恥ずかしいわ……。どうりで、お礼状の一枚も頂けないはずですわ」
はぁ……と頬に手を添えて愁いを込めた溜息を吐く私の足元では、エリック様が息も絶え絶えに喘いでいらっしゃいますわ
私とエリック様のやり取りをご覧になっていらっしゃったご友人達は声も出ない程驚いてらっしゃるみたいで、口元を扇子で隠し、エリック様をおぞましい者の様に見ていらっしゃいますわ。
それに、ご友人だけでなく、何事かと遠巻きにギャラリーも集まられていて、皆様エリック様の言動に唖然とされておられるようですわね。
そんな数々の目に囲まれている事に気が付かれたエリック様が、慌てて立ち上がられたのですが足が震えておいででフラフラじゃございませんか。
それでもなけなしの矜持を振り絞って余裕の表情を取り繕ってらっしゃるみたいですけど、出来ておりませんわよ。
引き攣った笑顔で汗で張り付いた前髪をかき上げた所で必死さが隠しきれませんわ。
「マリサ。やはり、どこかで誤解があったようだ。君からの贈り物が浅ましい訳ないじゃないか。どれもマリサからの私を思う心が籠っていて嬉しかったよ。贈り物は、その人の思いだ。非常識な訳無いじゃないか」
「あら? でも、私はエリック様からお誕生日の贈り物も、カードすらも一枚も頂いておりませんわよ? 社交界のドレスも、婚約したての頃に二~三着頂いたきりで」
「うっ……お、おかしいな……贈った、はず、なんだが……」
「まぁ、そうなんですの? でしたら、配送を依頼した者を調べないといけませんわね。もし、盗まれていたりしたら犯罪ですもの」
「い! いやいやいや! ど、どうかなぁ、どうだったかなぁ? ああ、すまない、誰に頼んだか忘れてしまったなぁ」
なんですの? その返しは……つまらない。どこまでもお粗末な言い訳に、溜息も出ませんわ。
さっきからキョロキョロと周りの方々を気にする素振りを見せられていますけど、だったら素直に謝られたら宜しいのに。見苦しい言い訳ばかりで余計に醜態をさらしていらっしゃる事に気が付かないのかしら。
「ま、まぁ、そんな些細な事を気にするより、お詫びに五年分の贈り物をさせてくれないかい? サイズの合わないドレスでも、私の贈ったものだと健気に着てくれていた君の愛情にも報いたいんだ」
「愛情なんてありませんでしたわよ?」
「は?」
気持ちの悪い事、言わないで下さいまし。
「あの前時代的なドレスも、厳格な家庭教師の様な髪型も、それがエリック様の好みなのかと思って、一応は婚約者として歩み寄ろうと甘んじて受け入れていたに過ぎませんわ。そこに愛はございません。だから、エリック様とお会いしない時は、今の様に好きな装いをしておりましたもの」
ね? 皆さん?
そう言ってご友人達へ目線を向けると、皆様ウンウン、と頷いてくださり証人になって下さるみたいで良かったですわ。
それを信じられない、と言う目で見て来られますけれど、まさか常日頃からあの装いだと思われてましたの? そんなの、百歩譲って愛があったとしても嫌ですわよ。
「愛が……無かっただなんて、なんで……君が、私に恋慕したから婚約したんだろ!? 多額の援助をチラつかせて! 私の婚約者の座を射止めたんじゃないのか!?」
「はぁ……先日、お父様からも違うと言われましたでしょ? 戻られてから、ミュラトール伯爵様からもご説明されたんじゃございませんの? ミュラトール伯爵家の方から是が非でも婚約して欲しいと我が家に頼み込んだ上での婚約だった、と」
「ぐ……ぐぐ」
悔しそうに目線を落とし、口を閉ざす所を見ると、言われたけど信じなかった。と言う所かしら?
相当ミュラトール伯爵様から怒られたと思うのですけれども、どうなっているのかしら。
エリック様が我が家に婚約破棄したい、と乗り込んで来られた日の翌日、ミュラトール伯爵様が我が家に平身低頭謝罪に来られましたのよ。
格上の伯爵様が格下の子爵に頭を下げるのですから、どちらがあの婚約を望んでいたのか、一目瞭然ですわよね。
頭を下げに下げ、なんとか婚約解消を取り消して欲しい、もう一度婚約して欲しい、と仰って来られましたけれど、もう婚約解消の届けは出してしまった事と、今迄のエリック様の所業をお伝えした上で、お断りいたしましたら顔を真っ青にされていましたわ。
なんでも、婚約者に関する事は全てエリック様に一任されていたそうで。
贈り物もエスコートもせず、貰ったものの礼も言わず、相手を辱めるような恰好を強要し、さらにはそれを嘲るような行いをしていたのを、全く知らなかった、と。
この親にしてこの子あり。ですわね。
一任していたとしても確認はされる物じゃございませんの? 交際費のお金だけ渡して後は知らない、なんて。一任と放置は違いますわよ。
それでも厚顔無恥にも、息子には厳しく言い聞かせる、今までの事も償う、だからもう一度……などと言われるのですから困ったものでしたわ。
きっぱりお断りいたしましたけど。
「も、もう一度! もう一度やり直させてくれ!! もう一度婚約しよう!」
あらまあ、本当に似た者親子です事。同じ事を仰るなんて。
焦りをふんだんに滲ませたお顔で必死に言い募る所とかもう、そっくりですわ。
「君が、こんなにも美しく気高い女性だったなんて、気付かなかった私が馬鹿だった。知ってさえすれば婚約解消なんてしなかったし、君との交流にも積極的になれた! だけど、そんな馬鹿な私に、君は溢れんばかりの慈愛で応えてくれていた。だからこそ、私は君とは気付かずとも、君にもう一度恋をしてしまったのかも知れない。やはり、私にはマリサ、君しかいないんだ。今まで辛い思いをさせてしまって申し訳無かった。寂しい思いをさせてごめん。これからは、君に何かを強要する事もしないし、贈り物だってエスコートだって喜んでする! ダンスだって、あ……そうだ、ダンスだよ……マリサ、私達は一度もダンスを踊った事が無かったね。今から、一曲踊らないかい? 踊って仲直りをしようじゃないか。お互い行き違いがあったんだ。だから」
「お断りいたしますわ」
「なんで!」
そんなの、こっちがなんで、ですわよ。
なんで、私がそんな頭の悪い言い訳を聞いて頷くと思われるのか、不愉快ですわ!
「今までエスコートをされなくても、ドレスも宝石も贈って頂けなくても、エリック様に言い付けられた装いで夜会に赴き、礼儀に則ってエリック様にご挨拶に伺いダンスもお誘いして来ましたわ。その度に、恥を掻かせるつもりか、と突き放されて来ました。それのどこが行き違いですの?」
「それは……だ、だから、悪かったと……。だからこそ! やり直そうと!」
「あの日」
「え?」
「前回お会いした、あの夜会の日。なぜ私がエリック様に言い付けられた装いでなかったか、お分かりですか?」
「なぜって……なぜ……」
物事を深く考えられないエリック様には難しい質問だったかしら?
でも、ちゃんと私の話を聞いて下さっていれば、分かる事だと思うのですけど。
「もう、エリック様には婚約者としての義務も礼節も必要ないと判断したからですわ。つまり、あの日の段階で見限らせて頂いておりましたの。なので、エリック様に対する情は私の中には既に一欠片もございませんの」
「!!! そ、そそそんな! ま、待ってくれ! 話し合えば! 話し合えば分かる!! そんな冷たい事を言わないでくれ。今は拗ねているだけだよね? 一度は生涯を共にしようと誓い合った仲じゃないか。これからは、その美しい姿で私の側にいてくれて良いんだ。服だって宝石だって買うって言ってるだろ? 君を大切にする。生涯、君だけを愛すると誓う! ここまで私が言っているんだ、婚約解消だなんて……悪い冗談だよね?」
何を勘違いなさっているのか、私の手を取ろうとするエリック様の手を扇子で押し返し数歩下がる。
もう半径一メートルの距離にいられるだけでも虫唾が走りますのよ。
「何を話し合うと言うんですの? 私達の間に話し合いなどという段階は過ぎておりますわよ。大体、婚約解消を願い出たのは間違いなくエリック様でしてよ? その旨、ちゃんと書面に記しておりましたでしょ? それに、エリック様も仰ってたじゃございませんか。どれだけ泣き喚こうが復縁は聞き入れないって。ふふ、奇遇ですわね、私も同じですわ」
ニッコリ笑顔を添えて、エリック様でも理解しやすい様に言って差し上げたのに、エリック様は尚もアワアワと言い募って来られて、本当に往生際の悪いお方だこと。
「だ、だが、婚約を解消された令嬢として傷モノになっては、嫁の貰い手も無いだろ? 私なら、マリサの事もよく知っているし——」
「その傷モノにしたのはどなたですの? そんな方と再び婚約したいだなんて思う訳ございません。それに、ご心配には及びませんわ。エリック様との婚約解消を公表してから、有難い事に釣書が殺到しておりますの。皆様、素敵な方ばかりで迷ってしまって、毎日大変ですのよ」
「う、嘘だ……」
「嘘ではございません。今度は、自分を優位に置きたいが為に卑怯な方法で人を屈辱的に支配しようとする方でなく、私を尊重し大事にして下さる方を選びますわ」
今度こそ続ける言葉が無いのか、エリック様は溺れる魚の様に口をパクパクされてますわ。これでやっとお分かりいただけたかしら?
そうそう、それと最後に。きっとエリック様の事だからミュラトール伯爵様に言われていてもご理解していないでしょうから、私からもお伝えしなきゃいけませんわね。
「エリック様、この度の婚約解消はエリック様からの要望であり、非はエリック様にございます。なので、慰謝料の請求を後日送らせて頂きますので、しっかりとお支払い下さいませ」
「え……慰謝、料? な、ぜ……」
「エリック様からの解消申し込みの署名は頂いておりますし、私がエリック様から不当な扱いを受けていた、という事はこの場の皆様が証人ですわ。ですから、誤魔化す事は出来ませんでしてよ」
あら? エリック様ったら、急に周りを見回されていかがされたのかしら?
こんな盛大な夜会で、しかも皆様がご歓談されている中お声を掛けて来られたのはエリック様じゃございませんか。多くの方々が私達の話をお聞きになられるのを分かってお声を掛けられたんじゃございませんの?
皆様、興味深げにお話を聞いて下さって、きっといざという時には立派な証人となって下さいますわ。
この世の終わりの様なお顔をされて、膝から崩れ落ちたエリック様に最後のご挨拶をしなければいけませんわね。最後に相応しく丁寧にカーテシーをして、私はお待たせしてしまったご友人達に向かって笑いかける。
「皆様、私のつまらないお話にお付き合いさせてしまい、申し訳ございません。気分転換に庭園散策へと参りませんこと?」
私の御友人達は皆様お優しい方ばかりなので、庭園の散策中にも私の婚約中の苦労話を我が身の様に真摯に聞いて下さって、私の心の閊えも取れるようですわ。
そして、私の話を聞いて目を爛々と輝かせソワソワとされているご友人達は、きっとどなたかにお話ししたくてウズウズしてらっしゃるのね。
宜しくってよ。私のお話をたくさん聞いて下さったのですもの。お礼に私の苦労話を是非とも、お話の花にしてくださいまし。女性と言うのは、いくつになってもお話が大好きですものね。
ふふふ。人の、とりわけ女性の口に戸は立てられませんわ。
そうそう、それと、エリック様は暫くあの場所で動く事も出来ず、皆様に遠巻きに見られ、格好の見世物になっておられたそうですわ。
いつも夜会では数名の御令息のご友人達と御一緒でしたのに、そのご友人達は肩をお貸しになる事もお慰めに来られる事も無く、慌てふためいたミュラトール伯爵家の家来が駆け付けるまで、ずっとあの場所で膝を突いたまま唖然としていらしたみたいで。
随分と打たれ弱い方でしたのね。お可哀想に。
でも、それも致し方ありませんものね。
だって、先に白い手袋を投げたのはエリック様ですもの。
本来の私は、華やかなドレスに身を包み、髪を巻き上げ宝石で飾り、頬も唇も流行の最先端の色を乗せ、女という武器を最大限に引き出し武装する様な……そんな女でしてよ?
そんな女が、拾った手袋をそのままにする訳、ございませんでしょう? ねぇ?
***【エリック視点】***
「エリック様、お久しぶりでございます。お元気そうで——」
「馴れ馴れしく話しかけないでくれるかな?」
折角の夜会だと言うのに、華やかさの欠片も無い女に声をかけられ一気に気分が下がってしまったではないか。
苔色のドレスに真っ白な髪。目鼻立ちはハッキリしているのだろうけど、化粧っ気も無く生気の感じられない愛想のない顔。
こんなのが私の婚約者だなんて思われたら、恥ずかしくて今後どの夜会にも顔を出せなくなってしまうではないか。
「本日もダンスは……」
「お前と踊る位ならダンと踊った方がマシだ。さっさとどっかへ行ってくれ、迷惑だ」
「さようでございますか。それでは失礼いたします。ごきげんよう」
それだけ言うと、表情一つ、声色一つ変える事も無く、女—私の婚約者であるマリサは踵を返し去って行った。
その、女の魅力など全く感じさせない真っすぐな後ろ姿を見送る気も起きず、私は談笑中だった友人達へ向き直った。
まったく、可愛げのない。
不本意ながらも、私は五年前にとある子爵家の娘と婚約をした。
初の顔合わせで見た婚約者となる子爵令嬢は、女の色気などまったく感じさせないチンチクリンな子供だった。
子供なら子供らしく無邪気に愛想よく私に懐けばいい物を、可愛げもなくツンと澄ましていて、一目見ただけで小憎たらしい性格なのが良く分かった。
なんだって私がこんな面白味も無い女と結婚しなければいけないのか。
父に不満を漏らしても「子爵家からの融資が、提携が……」などと言って、むしろ私に婚約者の令嬢の機嫌を損なうな、蝶よ花よと扱って今の内にガッツリ掴んでおけ、などど言う始末。
きっと、あの子爵令嬢が私に恋慕して父親である子爵に泣きついたに違いない。そして、子爵は私の父に金をチラつかせて、この政略結婚をゴリ押したのだ。
何て忌々しい……
だから、私はあの小憎たらしい令嬢がこれ以上つけあがらない様、父と母が結婚した時に祖母が母に渡したという「淑女の心得」と言う教えの書を送り、これを読んで勉強しろ、と伝えた。社交界の為に用意してやるドレスも、祖母が母の為に用意したと言う、由緒正しい淑女の為のドレスを、わざわざ復元して送ってやった。
ここまでしてやっても、あの子爵令嬢は可愛げが無いまま。私に惚れているのなら頬の一つでも染めて媚でも売ればいい物を、五年経っても気の利かないつまらない女のままで、何と腹立たしい事か。
ダサいドレスに寸胴なスタイル、髪もひっ詰めて色気の無い。口を開けば情勢がどうだ、国政がどうだ、と女のクセに知ったかぶって、余計に頭が悪く見えるのが分からないのか。
事ある毎に贈って来る祝いの品が無ければ、さっさと婚約破棄してやりたいくらいだ。
「おい、今のお前の婚約者だろ? 良いのか? あんな冷たくあしらって」
「見て分かるだろ? あんなのが婚約者だなんて、周りに知られたら笑い物じゃないか。それに良いんだよ。あんな可愛げの無い女」
友人の一人が心配して聞いて来たが、私がはっきりとあの女の疎ましさを伝えると眉根を寄せて不快気な表情をする。
そうだろう、そうだろう。やはり友人もあの女の不愉快さを分かってくれるか。
「あんな古臭くてダサいドレスなんて、どういうつもりで着てるんだか。あれとダンスを踊るなんて寒気がするね」
「だからって男の俺と踊る方がマシ、だなんて、流石に可哀想過ぎないか?」
「ははは、どこが?」
もう一人の友人が、あの女が去って行った方を気にしながら随分とお優しい事を言っているが、あの女の鬱陶しさを知らないから、そんな事が言えるんだ。
「そう言えば、エリックの婚約者ってデシャネル子爵の御令嬢って言ってたけど、さっきのが本当にそうなのか? 何て言うか……私の知っているデシャネル子爵令嬢と違う様な……」
「は?」
「それは俺も思った。デシャネル子爵令嬢って凄い美人だって話だからな。流行のファッションもいち早く取り入れるとかで令嬢の間でも人気らしいけど」
「ハハハハハ、どこのデシャネル子爵令嬢の話をしているんだよ。何かと勘違いしているんじゃないか? あれのどこが美人で流行に敏感なのさ。どこのデシャネル子爵令嬢かは知らないが、いるならあの女と交換して欲しいね」
本当に、そんな評判のいい女性がいるのなら是非ともお会いしてみたいものだな。
そんな風に私が思っていたからか。神は、私に月光の使者との邂逅を与えて下さった。
「私は、一目見て貴女の虜になってしまったようだ。お願いです、私の月光の君。美しい貴女のお名前を教えては頂けませんでしょうか?」
星が瞬くような大きな瞳にぷくりと色気を含んだ小さな唇。光り輝く白銀の髪が緩やかなカーブを描いて豊満な胸に落ち、締まったウエストとの曲線を際立たせていた。
全てが美しい。全てが完璧。こんな完璧な女性がこの世にいたなんて。
この女性との出会いにより、今まで惰性で足元に置いていた婚約者を私は排除した。
デシャネル子爵は娘可愛さに渋り、父も融資惜しさに激昂したが、そんな事は彼女の事を思えば些細な事だ。
それに、最後まで彼女の名を知る事は出来なかったが、あれだけの気品が漂う彼女はきっと高位貴族の令嬢に違いない。私が彼女と結婚する事が出来れば、デシャネル子爵なんかよりも多く融資して貰えるはず。
そうすれば、父の機嫌も直るだろうし、むしろ私に感謝するんじゃ無いか?
あはははははははは。あんな冴えない女なんかよりも、私には彼女の様な女が相応しいのだ。
あの女のせいで、社交界でどれだけ私が肩身の狭い思いをして来た事か。これからは誰もが羨む絶世の美女を侍らし、私は羨望の眼差しを一身に浴びるのだ!!
なのに……
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!
月光の君がっ、彼女が! 私の婚約者だと言うのか!?
騙された!!
知っていたら婚約解消なんてしなかった!
こんなに美しく成長するなら、最初から優しくして甘やかしてやったのに!!
いや、今からでも遅くはない! マリサは私の事を好いているんだ。
新しいドレスも宝石も、マリサが欲しいと言う物全て買い与えてやれば、機嫌もなおるはず……はず、なのに……
愛が無かった? 私の事が好きじゃなかったと言うのか!?
私に婚約解消されて、ショックで泣き濡れていたんじゃないのか!?
確かに、父はデシャネル子爵家との婚約は我がミュラトール伯爵家からの要望で叶ったものだったと叱られたが。そんなの! 普通、嘘だと思うだろう!
クソックソックソッ!!!
もう、マリサは私のものにならないのか!? 五年間も私の婚約者だったのに……私のものだったのに!!
いや……そうだ、一度は私のものだったんだ。私に情が無い訳ないじゃないか。
今は、色々な行き違いと誤解で拗ねているだけで、本当は私の愛を試しているんだろ? 愛していなかった、なんて、可愛い憎まれ口じゃないか。
一緒にダンスを踊ろう。そうすれば、誤解も、彼女の勘違いも解けるはずだ。
そうしたら、きっとマリサはこう言うんだ「私にはエリック様しかいない。もう一度、エリック様の婚約者に戻りたい」と……
「お断りいたしますわ」
なんで!
「エリック様に対する情は私の中には既に一欠片もございませんの」
そんな……
「今度は、自分を優位に置きたいが為に卑怯な方法で人を屈辱的に支配しようとする方でなく、私を尊重し大事にして下さる方を選びますわ」
今まで見た事の無い艶やかな笑顔で晴れ晴れと言い切るマリサに、言いたい事が山ほどあるのに、どれも言葉になって出てこない。
そんなに綺麗に笑えるのに、なぜ今までその笑顔を見せなかったんだ、とか。
私という婚約者がいたのに、そんなに簡単に乗り換えるのか、とか。
屈辱的に支配しようなんて思って無かった、とか。
なんと言えば、私の名誉は守られるのか。
「私がエリック様から不当な扱いを受けていた、という事はこの場の皆様が証人ですわ。ですから、誤魔化す事は出来ませんでしてよ」
皆様? そう言えば、さっき数人の野次馬が私達を見ていた。それを思い出し、周りを見回して私は愕然とした。
数人どころか、数十人という人々が私達を取り囲み、嘲り、嫌悪、蔑み、色々な視線で私を見ていた。
何故……何故、そんな目で私を見るんだ。私が何をしたと言うんだ……
逃げ出したくなる視線にジリジリと後退りする中、人々の中に私の友人達を見付け、助かった、と思った。私の友人なら、こんな観衆の視線から助けてくれると思ったのだ。
しかし、彼等は私と目線が合うと顔を歪め、ふい、と顔ごと背け人々の輪から離れて行った。
マリサだけでなく友人達にまで見放され、私は膝から崩れ落ちた。
なぜ?……なぜ……
そして、マリサも完璧なカーテシーを私に披露し、振り返る事も無く取り巻きの令嬢達を引き連れ去って行った。
「馬鹿者!! 自分から恥を撒き散らしおってからに!! 我が伯爵家にどれだけの泥を塗ったのか分かっているのか!!」
「何て事をしてくれたのですか」
どうやって私は屋敷に戻って来たのか。
気が付いたら、私の目の前には怒り狂った父と涙を浮かべる母がいた。
「あれ程デシャネル子爵令嬢を大切にしろと言ったにもかかわらず非道な扱いをして……それだけでも充分、我が伯爵家の恥だと言うのに、さらに恥知らずにも衆人環視の前で己の恥を曝け出し再度の婚約を迫るなど……」
私だって、こんな事になるなんて思わなかったんだ。
一目で気に入った月光の君と結婚するつもりで……だけど、なんでこんな事になったのか……
「エリック。なぜ、マリサ嬢に私がお祖母様から頂いた「淑女の心得」を渡し強要したのです?」
「それは……マリサに最初に会った時、余りにも彼女が未熟だったので……もっと、女性として魅力的になって貰おうと」
母は、息子の私が見ても美しく、完璧な淑女だ。私と結婚し伯爵夫人となるのなら、それ相応の努力をして貰わなければいけない。
その為には、母が祖母から貰ったと言う教えの書が一番良いと思ったから。
母なら、私の考えを理解してもらえると、そう思っていたのに……
「はぁ……エリック……。最初にマリサ嬢にお会いした時、彼女はまだ十一歳の少女だったのよ? それなのに未熟だとか、女性としての魅力だとかなんて……あなたは幼い少女に何を求めているのですか!!」
賛同してくれてると思っていたのに反して母は声を張り上げ、私が良かれと思ってして来た事を非難して来た。
「しかも、何を勘違いしているのか知らないけど。私は、あの「淑女の心得」をお祖母様から渡されて凄く嫌だったのよ。貴女がマリサに贈ったというあのドレスも……私の頃でもあんな古めかしいドレスを着る人はいない位よ。あれらはね、エリック……お祖母様が私へ嫌がらせの為に贈ったものなのよ。所詮、嫁いびりってヤツよ」
「嫁、いびり……」
「きっとお祖母様から「淑女の心得」で私が立派な夫人に育った、とでも言われていたのでしょう。まさか、あんな物を鵜呑みにするなんて……せめて、私に聞くなりしてくれれば……いえ、私がちゃんとあなたを見ていれば、こんな事には……」
ハンカチで目元を押さえ泣く母を、気遣うように背に手を添える父の姿は私の理想だった。
こんな風に、互いに思い合う夫婦になりたかっただけなのに。
「残念な事に、伯爵家を継ぐ子供はお前しかいない。色々不安だが、今から厳しく教育し信頼の置ける補佐を数名付けた上で継がせる事になるだろう。お前一人で伯爵家の政務を執り行えると思うな。そして、今回あんな大勢の目の前で問題を起こしたお前の元に嫁いで来てくれる令嬢はいないと思え」
「なぜです! なぜ、そんな事を仰るのですか!? 確かに、今回の事は私が浅はかでした! でも、だからと言って」
「当然だろうが!!」
父のあんまりな発言に異議を唱えようとしたが反対に怒鳴り返されてしまい。言葉を続けられない。
「その浅はかで愚かな考えの者に任せられる程、伯爵家の政務は甘くはない。出来る事なら、考え無しに行動するお前に継がせたくないのが伯爵家当主としての私の本音だ。そして、そんな男の元に嫁ぎたい、嫁がせたいと思う令嬢と家族がいるか? 今回のマリサ嬢の様に粗末な扱いを受けるかもしれないのだぞ?」
「私は……もう、そんな事は……」
「しないとは誰も分からないし、お前が言った所で誰が信じる。親戚から養子を迎えられるよう、今から準備する。その子を立派に育て上げ、伯爵家を継がせる。お前はそれまでの中継ぎだ……。こんな事を決断しなければならない私達の気持ちも理解してくれ」
泣く母を伴い、父は私を置いて部屋を出て行った。
何が間違っていた? マリサに「淑女の心得」を渡したから? エスコートをしなかったから? 贈り物をしなかったから? マリサをマリサと気付かなかったから?
どれが悪かった? 全てなのか? 全てが悪かったのか?
分からない……私は、こんな目に遭う程、悪い事をしたのか、分からない……