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眩いほどの日差しが、瞼の向こう側に入ってきた。目を開けると、朝日が私の目をかすめていた。
「おはようございます、奥様」
静かに声をかけるレヴィアが、微笑ましく笑っている。私の腰に回された太い腕と、首筋に当たる吐息。
いつ朝に目を覚まそうとも、彼は私を無意識に抱いている。
起きているとき、彼が私に触れてくることは滅多にないのにそれがとてもおかしくてつい笑ってしまう。
「起きてください、公爵様。もう朝ですよ」
「ん……もう朝か」
「ふふふっ。大胆ですね」
「っ……!?」
公爵様が跳ね起きた。
ここに来て五日。最近試しているのは、公爵様の赤金の髪がどのタイミングで燃え上がるかだ。髪が燃えるなど、始めて見た。本当に比喩などではなく、炎のように輝いてユラユラ髪全体がなるものだから、見ていて不思議だ。
その上、彼は私に関してだけそういう反応を見せるので、意地悪な心をくすぐられる。
「あ、だ、抱いてしまった。すまない」
「いいですよ。それより、朝食にしましょう?」
二人で廊下を歩くときも、わざと肩を腕に当てに行ってみている。そうすると、触れただけで公爵様の髪が燃え上がる。
恐れられるほど強いのに、すごく可愛く見えてしまうのは私だけではないだろう。使用人たちも、初めてこのようなことを目の当たりにするのか微笑みが多い。
「おい、無茶して食べるな」
「大丈夫ですよ」
パンとスープを食べ終えると、少し野菜を食べた。伯爵家とは違い、十分な量を食べれるよう使用人も取り計らってくれる。
今日は特にお腹が空いていたので、一人前ほどの量を食べれた。
そんな私を心配げに見る公爵様は、やはり優しい顔をしていた。険しく、鋭い金色の目が今はとても柔らかい。
低い声も、前までは肩を震わせるのを誤魔化すほど怖かった。でも今は、少しずつ変わってきている。
「公爵様は、このあとどうするのですか?」
「領地の作物量と、貿易や商売の変化を確認する。書類がたまっているからな」
「そうですか」
少し悲しい。
昨日までは、一緒にお茶をしたりたくさんお話をした。過去の思い出、主にお母さんのことについて話すのは私にとって幸せな時間だった。孤独に死に絶えた母を、誰かに知ってもらえるということが幸福に思えた。
今日はさすがに仕事をするという公爵様に悲しくなりつつもそれを顔に出さないようにした。
夫の仕事を優先して、陰ながら支えるのが妻の務め。
私は今度領地で行われる収穫祭の準備でもしよう。
使用人たちの力を借りながら、私もまた自室で書類を作ることにした。
「収穫祭といっても、ほとんどが領民による出し物なのね。私達が呼ぶのは劇団員と、警備兵ぐらいで」
「飲み込みが早くて助かります。毎年はシルクロード劇団を呼んでいるのですが、今年もその方針にしようと旦那様は決めておいででした」
レヴィアが隣りにいてくれながら、書類のところを指さした。
シルクロード劇団員。
隣国から呼び寄せているという旅の劇団員達は、私の故郷でも見られたものだ。
特にあの国は、道端で稼ぐことのほうが多いように感じられた。しかしパフォーマンスをする人や、露店が多かったのは、経済が悪くなる前だ。ますます悪化したときは、目を背けたくなるほど皆飢えていた。
「シルクロード劇団、見てみたいわ」
「ご存知なのですか」
「昔、一度だけ見たことがあるの。あそこの劇団は、すごいのよ。魔法みたいに火を吹いたり、玉乗りしたり、綱渡りも。スリル満点よ」
はしご上りも見たことがある。
道端で人が立ち往生しているところを後ろから見ていた。あの小さな時に見た娯楽を、間近で見れるかもしれないなんてワクワクしてくる。
「楽しそうで良かったですね奥様。来週の魔物討伐がすぐ終わると良いのですが」
「来週?魔物討伐って」
レヴィアが聞いていないのかと言いたげに首をもたげた。そういえば、そんなことを公爵様が言っていたような気がしなくもない。
魔物討伐に行くなんて、と私は聞いたことのある話を思い浮かべた。
魔物は黒い影のような塊で、魔力を介さなければ普通の剣ではそれを切り裂くことはできない。その上、魔物は時期によって発生する数が違うし、強さも異なる。常に死と隣り合わせだからこそ、騎士団の仕事は高級で役得の高い仕事。
公爵様が来週に魔物討伐に行くなんて。考えもしたくなかった。
最強と名高い騎士である彼は、不死身の騎士と呼ばれるほど強いけれど。その命は一つしかないし、彼もまた人間なのだから。
「このケーキは、東洋の抹茶を練りこんでいるそうだ。スポンジもふわふわだし、美味しいな」
大きい体に反して、公爵様は小さなフォークを使って器用に食べる。シフォーンケーキにたっぷりと白いホイップがのったものを、私もまた何とかして口に運んだ。
彼が目の前で、険しい顔を緩めなが食べる姿が見ていてとても楽しい。
でも、気分だけが勝手に落ち込んでしまう。
「美味しくなかったか?」
「いいえ、美味しいです。抹茶を練り込むなんて、面白いですね。紅茶ケーキに通じるものがあります。特にこのホイップなんて、口溶けがまたいいです」
公爵様と向かい合い、ソファに座りながら食べる昼のお茶はいい。伯爵家では、これを王妃教育として習っていたけどこれは訓練ではない。最低限の礼儀作法を守っていれば、いくらでも会話を弾ませていいのだから。
でも、心だけが沈んだままだった。甘い口どけに反して、心だけにできものができていた。
「無理しなくてもいい。何か悩んでいるな」
「悩んでなど」
「君は悩む時、目を合わせない」
公爵様の金色の目が私を優しく包み込む。
そこに怖さは全く無く、温かいものばかりが広がっている。
悩みを聞いてくれるような素振りに、何を話せば良いのかわからない。
魔物討伐に行くな、なんて、口が裂けても言えないのだ。魔物は田畑を荒らし、人を無惨に食らう。だからこそ世界中の国にとっては危険な存在で、憎き強敵。それを単身で倒す公爵様はとてもすごい。王から厚い信頼を受けるに相応しいほど、彼はとても強い。
でも苦しんでいる人を救済できる力をもつ彼が、行ってしまうのがすごく嫌でもあった。
「公爵様」
「レイと呼んでくれ。君はもう、俺の妻なのだから」
書類に名前を書き、王様に籍を認めてもらった。つい二日前のことを持ち出した彼は、大好きなお菓子を食べるのを止めて姿勢を正した。
親身になって聞いてくれようとしてくれるのが嬉しいけど、本当にしょうもないこと。私が彼に、レイに危険なことをしてほしくないというワガママなのだから。
「レイ様。来週の魔物討伐のことなのです。どうか無事で帰ってきてください」
「ああ。不死身の騎士の名に相応しく、無傷で帰ってきてやる」
余裕そうに微笑んだレイ。
数多の経験がある彼には、招集がかかるのに慣れっこなのだろう。でも、私にとってはこれが初めてだ。
彼を困らせないよう、私は自分の気持ちを何とか抑え込むことにした。
話したら、きっと彼はすごく困る。
私に触れるだけで赤く燃え上がる髪。
その愛おしさを知っている。
私にだけ優しく緩む顔。
恐れられるほど強い騎士の、温かな心を知っている。
でも私より、人々を救済することを優先しなければならない。強い力を持つものの宿命だから。
妻として私は、自分の思いをひたすら隠すことにした。
けれど実際は、その日のお茶の味を忘れてしまうぐらい、彼が行くということを受け入れ難かった。
「ルシエル、行ってくる」
「ええ、気をつけて」
一頭の黒い馬にまたがり、駆けていったレイ様の背を、私は見えなくなるまで屋敷の玄関で眺めた。
背中の後ろにある手で丸めるのは、彼に渡せなかったスカーフだ。祈りを込めて、刺繍を施したそれを、渡すことはできなかった。
騎士の妻が縫って送るというそれは、無事に帰還するようにとのお守りだ。渡せなかったのは、もしかしたらそれが原因で彼が戻ってこないかもしれないと思ったから。
お父様に呪いのようだと赤い目を言われた時から、ずっと私の作るものは呪いがかけられていると思っている。
「渡さなかったのですか」
「いいのよレヴィア。渡す資格など、ないのよ」
妻だろうと、私は非嫡出子で父様と義母を不気味がらせる赤い目を持っている。彼がいつも通り戦い、帰ってくるならそれでいい。
私からの祈りなど不要なものだ。
そう言い聞かせる度、胸に何かがつかえて痛くなる。
「さ、お祭りの準備をしておきましょう。劇団たちに連絡を取り合わないといけませんものね。それから、たくさんの出店を出してもらうためにも、少し公爵家からお菓子のレシピとか出せないかしら」
「奥様」
「さあさあ、レヴィア。忙しくなるわよ」




