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公爵様は、私を謁見の間を出てすぐの廊下で下ろすと唐突に砂煙を上げた。私の顔のすぐ横の壁をぶち殴り、破壊したためだ。拳から煙幕があがり、頬のすぐ横からメリメリと石の壁が崩れる。
辺りにいた使用人たちがすぐに悲鳴を上げて遠ざかっていく。
運がついていたほうなのだろうか。もしこの拳が自分の顔面に命中することを考えると、冷や汗が止まらなかった。
「ルシエル・プシューケー伯爵令嬢殿」
良く見れば、公爵様の赤金の髪が炎のように燃えていた。どこまでも太陽のようにメラメラと。
そしてそれは、殺気と共に唐突にして、消え去っていった。まるで春の風のように、突然に吹いては消えていった。
「っはい」
上ずった声ながらも、振り絞る。
「すまん。俺は少し動揺していたようだ。まさか君が、死にたいなどと言うとは思っていなかった」
深海のような声が耳を震わしていく。何もかもを怯えさせながら、その力は確かなもの。
ぶつけた拳を壁から離すと、公爵様は顔を上げた。私の目と鼻の先に、あの絶対的強者の色をした金色の目があった。
「なぜ、君は死にたがる」
「先程も述べましたが、私は貴族界には」
バキッ
公爵様の拳が握られ、今度は革手袋を通してでもわかるほど筋が立っていた。
何か裏があると思われているのか。
案の定、公爵様は本当のことを話すようにとでもいうように、再び赤金の髪を燃やした。
それは魔力の流れによるもので、かの公爵家特有の魔力暴走に近かった。
「まさか、失恋したから死ぬと言いたいのか?あのクソ王子に、君はそこまで恋を?」
怒りなどの激しい情緒に反応するという、その赤金の髪。莫大な魔力を有しているこの英雄は、感情が髪に出ると聞いたことがある。
殺意が再びピリピリと肌をついた。お父様の幻影が重なって、私は反射的に口が滑っていた。
「い、板挟みだからです。父のことも、亡き母の夢を叶えられない罪悪感も。全て…苦痛だからです」
何もかも、私にとっては苦痛だった。痛みだった。
背中に打ち付けられるムチの痛みと、母の思いを胸に抱えながら生きること。
私にはこの貴族界が似合わない。
その言葉に何を思ったのか、公爵様の殺気がまた消えていった。消えたり見えたりを繰り返す殺意は、どうしてかはわからない。
ただ、公爵様の目つきが少しだけ穏やかになった。心底安心したように、自分の目を大きな手で塞いでため息を付いた。
「そういうことか。そういうことだったのか」
ただ、その赤い髪が燃えることだけは止まなかった。殺意ばかりが消え去ったものの、怒りをあらわにしているであろう赤い髪の炎だけが燃えている。
「な、何がでしょうか」
問いかけると、彼の大きな影が今度は私を包むようにしていた。
殺される。
彼が一歩近づき、私は恐れて目を閉じてしまった。最恐と名高い、ケルベロス公爵様。魔物を倒す姿はとても冷淡で、無表情のまま相手をたった一人で葬る。その姿は不死身の騎士にふさわしいと噂が絶えない。
私は今、彼によって殺されてしまう。
大きな腕が背中に回り、ギュッと自分の肌の輪郭がハッキリする。
公爵様が私を締め付けていた。
その力があまりに強すぎて、息ができない。
震えだした私を彼が腕を緩めた時、ようやく状況を理解した。彼は私を抱きしめていたのだ。
それから、突然のことは立て続けに起こった。
次は何をされるのか。
今度こそ、その腰にある大きな剣でこの身を真っ二つに…。怖くて身構えるも、今度は先程のように跪き、陛下にしたように最高の騎士の礼をする。
「俺と婚約してくれないか」
手をそっと掬い上げ、彼は手のひらへと口づけを施した。
「……はい?」
口をへの字にして固まる。
ただその燃え上がる髪が、ボォーボォーと情熱的な動きをしながら燃えていた。金色の目が、私と合わさり、さらに炎は燃える。
ケルベロス公爵様は手を繋いで再び謁見の間へ連れて行く。陛下の前だというのに関わらず、使用人の目も憚らないで大股で歩いていった。
躊躇なく、声を荒らげて進言する。
「ルシエルをもらいたい。国からの褒美は、この令嬢に」
「ふむ、わかった。その願い、フェイル王国が王の我が認めよう」
王が企むような笑みを返してきた。王の顔には、せいぜい頑張れとでも言いたいような笑みがあった。
私、殺されるのでしょうか。
最強よりも、最恐が目立つ騎士アフレイド・ケルベロス公爵様の、供物になったようです。
朝起きるとそこは既に知らない天井。小鳥のさえずりも、森が近いためか美しい小川の音と共に響いている。ここが黄泉の国と言われれば信じてしまうかもしれない。
「ルシエル」
ガバっと起き上がり、私は布団を引き寄せた。
公爵家に泊まり始めて二日がたつが、なぜか今日も公爵様は私の隣で寝ている。
時折、眉間にしわを寄せたすごい形相で私の名を呼ぶから怖い。
朝のご飯をこっそりもらって、自室にまた引きこもろう。計画を立て、支度をしようと思ったときだ。
「っ!?」
ベットから降りる手前、グイッとものすごい力が腰回りにかかった。そのまま流れるように、また元の位置に体が戻る。
後ろの密着感といい、頭上からは吐息の音が聞こえた。
「ルシ…エル」
どれだけこの人は、夢の中で私を殺しているのだろう。
力が強すぎる腕がガッツリ私の体を離さない。
婚約破棄された時、ようやく解放されたと思った。
あとは、爵位を返上して晴れて自由の身。
貴族令嬢にとって自殺行為ではあるけれど、私にはまだ稼ぎどころが有る。お母さんの働いていたような娼館で働く。
背中に傷があるけれど、雑用係ぐらいはできるだろう。どう娼婦たちを管理するかも、客をどう手配するかも私には馴染みのあることだ。
お母さんの仕事のとき、娼館の雑事を手伝っていた私にとってそれは分かりきったこと。
だからこそ、爵位を返上なんてこと言い出せる。でも、新たにこの男との結婚によって、私はまた縛られる。寝台は伯爵家のより広いのに、肩身がそれよりも狭くなっていた。
「旦那様、奥様、朝の時間でございます。開けますね」
使用人が部屋に入り、窓を開けた。眩しいほどの光が入ってきて、公爵様の顔を照らす。
狂犬が眠りから覚めるようだ。
一瞬だけ私を締め付けていた腕が緩くなる。
その隙に身を滑らせて起き上がると、すぐに寝室とは違う自室へ出ていった。
服を着替える時、一人でいいと何度も昨日、断りを入れた。
もし見られてしまえば、私の背中にある傷をどう思われるかわからない。これが見られたら、供物として捧げられるに値しないと、彼に殺されてしまうやもしれない。
「おはよう、ルシエル」
「お、おはようございます」
いつの間に、私の部屋に来ていたのか。
公爵様は図体は大きいのに、一切物音がしないものだから怖い。
体がひくつくのを感じながら、今日もバレなかったことに神へ感謝を述べる。
この傷が見られたら、間違いなく殺される。
背中のムチの後をとっさに隠すように、身だしなみを確かめた。
彼が私をもらいたいといったのは、間違いなく体目的だ。この身を面白おかしく殺すか、その手でもてあそぶために。
「朝食を食べに行こうか」
笑いかけてくる笑顔が、有無を言わせない。目つきの悪い金色の目が、まるで獲物を見るようにこちらを凝視する。廊下を歩くときでさえ、頭二つ分は向こうが大きいというのに腰をかがめるほど顔を見てくる。
「あの、公爵様」
「何だ」
私の顔に何かついているのでしょうか。
などと気軽に聞けるものではなく、そのまま言い淀んでしまう。
無事に食堂までたどり着くと、朝食が並べられていた。長椅子の端に公爵様が座り、なぜかその一番近く、婦人の座る席にもう一セット用意されている。
こんな近くで食べたら、食べ物が上手く食べれない。
恐怖で吐いてしまいそうだ。
何とか朝のパン、ハム、野菜にスープを食べるものの、体が慣れない。プシューケー伯爵家では、私の朝食は幼い時よりも劣悪だった。パン一枚だけの朝、焼き魚とパンの昼。
生きていたのが疑問なぐらいだが、大層お腹が空いて寝れないときは厨房に赴いたりもした。
「っ…」
「でな、来週から魔物退治があるのだが。ここを空けるのが」
気分は最悪だった。
えずいて、全てのものが口から吐き出される。出てきたのは汚らしい物と、高熱だった。
「ルシエル…?」
「きゃー!奥様!奥様!」
「大変だ!奥様が」
耳鳴りがしてくる。
ああ、これは本当に殺されてしまうかもしれない。
公爵様の前で吐くなんて、下品な行為。
このぐらいの失敗をするなら、私はいっそ死んだほうがマシなぐらいかもしれないが。
ガタンという椅子が倒れる振動がしてきて、低い声が頭上で鳴り響いた。
子犬のように何度も同じことを叫ぶ誰かの声が、また遠のいていく。
懐かしい匂いがする。
薔薇の芳香を炊いている部屋の匂い。でも、淀んだ世界を誤魔化したような匂いよりも私はお母さんから香るきれいな香りが好きなのだ。
抱きしめてくれる優しい腕の温かさと、誰よりも私を守ってくれようとするお母さんが好きだ。
なのに、その幸せは長くは続かなかった。
『あなたは伯爵家に引き取られるみたい』
あの頃の母は酷い変わりようで、顔の半分が赤くただれていた。
『お母さんも…じゃないの?』
『見てみなさい、私の顔はもう傷物なの。それに比べてルシエル、あなたはとても美しく育ったわ』
優しく笑う母の顔がどうしても悲しくて、私のほうがいつも泣き出すのは先だった。
母の病がどのようなもので、症状を抑えるための薬を買うため、毎日働いて稼いだ。娼館の手伝いはとても大変で、客から殴られることもあったけど母の為ならいくらでも頑張れた。
私がお母さんを救ってみせる。
伯爵家に頼らずとも、お母さんと二人で暮らす生活を大事にしたかった。
でも、それこそ過ちだったのかもしれない。
母の腕は衰え始め、医師からは母に近づくなとまで言われた。
『お母さん』
『ダメよ!近づいては…ダメよ』
最後はお母さんが泣きそうなぐらい、くしゃりと顔を歪めて不器用な笑顔を見せた。美しい雪のような肌は赤くただれ、真っ白な百合のような髪は老婆のようになっていて。
「母さん…」
声に出た途端、私の意識はまた現実に戻されていた。