26
パーティーから、数日後のこと。
その黒い封筒はもう一度、手元に届く。
白い便箋には今度、伯爵家の家紋とともに招待状がつづられていた。
羽を大きく広げた金色の蝶の家紋に、隣のレヴィアすら目を食い入らせた。
「奥様、今度こそ旦那様をお頼りください」
「分かってるわ」
あの夜会以降、私はちゃんと反省して、彼を頼りにすることを決めていた。確かに、夫を頼らないのは酷く冷たいようにも思えたからだ。
手紙を持ってレイ様の元へと行くと、彼は真剣に取り扱ってくれた。向かい側のソファーに座りながら、それを読む。
「これは罠だ。君がわざわざ答える必要はない」
「ですがレイ様。そこに書かれているとおり、もし断れば貴方様の品位にも関わります」
❲もし招待に応じないのなら。ルシエルは娼婦の子で、公爵を体でたぶらかしたと噂を流す❳
噂は噂と甘く見ていては、この貴族界ではやっていけない。
外交も、民たちの領外での商売活動も。全て領地を治める貴族の評判次第で左右されてしまう。
だからレイ様の妻が、私のような汚れた血筋ということは流してはならない情報だった。たとえお父様の伯爵としての名が、娼婦との間に子を設けたとして避難されようと。
もはや、義兄が牢屋送りの今となっては、義母にも関係のないものなのだろう。
レイ様はしばらく考えるように、顎に手をやったあと、太陽の如き目を閉じた。眉間にシワを寄せつつ、彼は答えを出す。
「行くしかないな。君が噂を流されて傷つくのを、黙って見過ごすわけにはいかないし」
それから、金色の双眸を弧月のように柔らかくした。
「それに、君がせっかく頼ってくれたんだ」
「っ……だから、その笑顔は反則ですから」
温和な笑みを浮かべる彼は、実に純粋な想いを持ち合わせていた。その眩しい顔を見ることに心臓がキュッと結ばる。
ただ私のために、レイ様はたくさんのことを施そうとしてくれる。
ありがたく思いつつ、心は沈むままだった。
その白い屋敷につけば、悪魔たちは潜んでいる。貴族界に流れた噂と、世間の目を逃れるように父母はいた。通された応接間に、ソファーに背中を丸めたお父様と、ギリギリ睨みつけてくる義母が向かい側にいそろっている。
レイ様と隣合わせに座ると、彼らは開口一番に切り出した。
「夫の呪いを解きなさい」
「断る」
義母の投げかけに、レイ様は冷たく言い放った。本題に入る前に、いろいろ世間話をするという礼儀はそこにはない。時間を惜しむように、義母は立て続けに言葉を紡いだ。
「この呪いを解かなければ、私の夫はずっと苦しんだままなのよ」
彼女はいきなりメソメソと泣き始めた。
肩を震わせ、声を震わせ。その身から発せられるすべてのものを、悲しい色に変えた。
レイ様のかけた魔法。
死霊の狂犬病の効果は、悲惨なものだ。お父様の折れた手首の治癒を一向に進めなくさせ、さらには不安作用すら引き起こす。見るからにやつれた父親を見れば、その効果はあらわれていた。
落ちくぼんだ目に、痩せこけた頬。隣のレイ様を見た瞬間に、ガタガタとその身を震わせ始めるほど。
「ルシエル、想像してみても頂戴。夫がずっと震えているのよ。怖がって物を投げつけるようになり、さらには夜中に叫ぶようになった」
義母が疲れ切ったように語るのは、お父様の近頃の様子だった。不眠症に悩まされ、義母すら満足に眠れない毎日だそうだ。
聞けば聞くほど、もしレイ様がそうなっていたらと思ってしまう。考えるほど、それはとても辛いことと思える。
もう十分ではないだろうか。
レイ様に目配せをして、私は彼の袖をいた。
けれど、彼は首を軽く横に振った。
「解いてくれるわけでないのなら、私からその女狐にとって重要な話をしましょうか」
おめおめと泣くことから切り替えた義母が話し始める。先程まで嘆くような弱々しい姿だったのが、改めた姿勢になった。
「あなたの、その赤い目の話よ」
長い爪で指を指してきた。私の目の色のこと。メティス公爵に攫われたとき指摘されたことを、あぶり返される。
あの時は気にも止めなかったけど。
二度目の指摘に、この目には何かがあると思い始めた。もしかしたら、本当に繁栄をもたらすような力が隠されているのかもしれない。
「この赤い目が一体、何でしょうか」
「待て、その話は」
止めに入ろうとするレイ様を押しのけ、義母の声は通っていた。
耳に張り付くいて離れないように、その言葉が耳の穴に巣食っていく。
「体を交わった男の魔力を底上げする。でもそこに互いの許し合う心がなければ、男の魔力はお前のものになる。黒髪は白くなり、それはまさに白雪のように」
嘘だと思いたかった。
体を交わらせた男の魔力を極限まで引き伸ばす力こそ、この赤い目の種族に課せられた命運。
だから、お母さんはいろんな男に言い寄られて、たくさん体を試された。繁栄をもたらしてもらうために。
隣のレイ様は義母の言いようを否定せず、黙っていた。膝の上においた手で拳を作って、彼は何も言わない。
それが答えだ。
義母の話が本当だということの。
「お前がその公爵に大事にされてる理由よ。体を許し合わなければ、その公爵は魔力を手に入れれない。その時が来るまで待ってるのよ」
「嘘です…レイ様はそんなこと」
「急いでお前の体をもてあそべば、その公爵の魔力すらすするのだから。待って当然よ、少なからず私ならそうするわ」
義母があわれみ、さげすみ笑った。
信じたくないものも、彼の反応を見れば本当なのだとわかってしまう。私の目と目を合わせず、彼はただ義母をきつく睨みつけている。
「お前は所詮牝馬なの。その血がある限り、幸せにはなれない。さあ、これ以上その女狐をおとしめる言葉を言われたくなかったら夫の呪いを解きなさい」
「断る」
「ふふっ、そういうことよ。結局お前は大事にされてないということ」
違う。
レイ様は大事にしてくれた。
たくさん傷を心配してくれたし、身内の問題をすべて解決してくれた。
お父様にもお義兄様にも、その魔法を使って守ってくれて。
でもレイ様は赤い目のことを知っていた。
そのことすら言わずに、彼はずっと体に手を出してはこなかった。
若い夫婦ならば、普通一ヶ月も共に過ごしていたら一度は夜伽の機会があるはずだ。貴族での常識を、彼は破ってまで大切にしてくれているのだと思ったけど。
もし私の血筋を知っていた上での、その行動なら。
「あら、どこに行くのかしら」
立ち上がり、部屋を出ていく私を義母は鼻で笑った。
どこまでも高く通る笑い声がすぐさまかすみ消える。
自然と足は速まっていた。
走れば走るほど、涙がこぼれ落ちて止まない。扉を抜け、伯爵家の敷地の木陰の下に隠れていた。お父様の暴力から逃れるために見つけた場所。
伯爵家の庭園とは反対側の、ほとんど日も当たらないけど木が林立していて、背の高い雑草が生えるところ。
「嘘…絶対に………お義母様の言うことは…」
でもレイ様はたしかに、夜にはケルベロスになるどころか子犬のように落ち着いていた。
それは私が彼に体を許さないほど、愛していないと。彼が勝手に思っていたのだろうか。
それほど、私はレイ様に対して冷たくあしらっていただろうか。
逆に、レイ様は私の血を気にするほど愛情を抱いていなかったのだろうか。
違う。違う。
何を考えているのだろう。彼の優しい思いはとても澄んでいて、私には心地よすぎるもので。
向き合わなくてはと思うほどに胸が苦しくなる。上手く息すらできぬまま、義母の言葉はどんどん内を侵食する。
その時だった。
屋敷の中から金切り声が聞こえたのは。
何事かと外にいた使用人たちが屋敷の中に入っていく。慌てた様子の彼らが全て屋敷に入ると、徐々に草を踏む音が聞こえてきた。
「こんなところで泣いていたら、虫に刺される」
「どうしてここがっ」
雑草の背は高く、木陰が私を隠してくれる。しゃがめばその身はほとんど外からは分からないのに。
レイ様はクスリと愛想良く笑うと、私の隣りに座った。
「君の魔力を探すのは得意だからな。わずかだが、人には魔力が備わっているものだ」
この世界には魔力は当たり前に隣りにある。けれど、万人には魔法を使えるほどの魔力はない。高位貴族になるほど、魔法を使えるほどの高い魔力は備わっているものだ。
私はお母さんが娼婦だったから魔力があまりない。少ないほど、その人を限定して魔力を探すのはとても難しい。
でもレイ様は、すぐに見つけ出す。
「本当、こんな話になるとは思わなかった。いずれは言わなければならないと思っていたが」
彼はため息を付きながらも、空を見上げた。青く澄んだ空に、彼は手を伸ばす。その仕草は、懐かしいものを思い出すかのようだった。
「一つ、話をしよう。俺は昔から魔力が強くて、城で特別な訓練を受けていたことだ」
魔力の扱いは難しい。
子供の頃にその力が強いと発覚すれば、城に引き込まれる。彼も例外ではなく、城で宮廷魔法師から訓練を受けていたそう。懐かしむように語る彼の横顔。
「あるとき、魔力で人を探せる訓練を受けてな。それからだ。君を探すことで、城で訓練をするようになったのは」
「私を探す?」
「情けない話だが、意外と訓練にはなったんだぞ?ルシエルの魔力をたどりながら城を散策したり」
レイ様が照れを隠すように笑った。
私の希薄な魔力を、彼は犬のように嗅ぎ回ったという。それが魔法の精度をあげる訓練にもなったと。
「ふっ…ふふふふ。レイ様は小さい頃から子犬みたいに可愛らしいですね」
笑いがこらえきれなかった。
彼の幼いエピソードは聞いていて、笑えてしまうものだ。可愛らしすぎて、想像するだけで胸がキュンと弾む。笑っていると、彼は赤金色の髪を赤く燃えさせる。
「す、少しは伝わらないか」
「魔力の鍛錬も、剣の鍛錬も貴方様は頑張っておいででしたのね」
「違う。その…俺が君を、昔から…片思いしていたことだ」
彼は片手で口元を抑えながらつぶやいた。大きな体格ながら、恥ずかしがる姿はとても弱々しくて守ってあげたくなるほど可愛い。
彼が昔から私を好きでいてくれて。魔力の訓練ですら、私を探すようになっていたこと。
彼はきっと赤い目を恐れてその話もせず、手を出そうとしなかったのではない。
本当に私を心から好きでいてくれるから、いつまでも待っていてくれるのだ。
「レイ様はいつもずるいです」
「そうだな。俺はフィリップから、君を奪うようにさらったし」
「そういうことではありません」
疑ってしまった私が馬鹿らしいほど、彼は私のことを思ってくれる。
そしてそのことに、すぐに気づかせてくるものだから。
「本当、貴方様はずるいお人」
二人で空を見上げながら、クスクスと笑い出す。
お父様の暴力から逃げ延びるようにしてこの場所に座っていた寂しい日も。
今は隣に彼がいて。
一人で泣きながら見上げていた空も。
隣に勇敢な横顔で共に未来を見てくれる人がいる。
同じ目線で、同じ時間を見たい。それほど、相手が大事だから。
待ってくれる。彼はきっと、私が切り出すまで夜伽すら首を長くしながら待ってくれるのだろう。
頬に伝っていた涙を拭うものの、隣の温かさに涙は止まない。それでも私達は二人でしばらく空を見ていた。
酷く痛む喉は、もはや高笑いすることすらできなくなる呪いをかけられている。首に巻き付いた黒い鎖の呪いは、最後の金切り声を上げることだけを許した。それすらも封じられた今は、枯れ木のように枯れた声しか出ない。
「ケルベロスっ…絶対に………絶対に許さない」
一人の侍女に渡すのは、白い粉。
「これであいつを殺せ」
「ひっ……わかりましたっ」
おどおどする十代に入ったばかりの少女は、喉を鳴らしながら受け取った。




