1 そこに騎士様がいた
「ルシエエエエエエエルッ!!」
屋敷中に響く怒りの声は、ガラス窓を震わせるほどだった。私の自室の扉を壊さんとばかりに、勢いよく扉が開け放たれた。
細身ながらどうしてそのような力が出てくるのかと思いながら、反射的に自分の肩を抱く。
「お、お父様。何用でしょうか」
無理やり作る笑顔は、体の神経がこわばりすぎて引きつっていた。
黒い恐怖がドロドロと私の体に広まり、瞬く間に額や手の内に冷や汗が伝っていく。
白髪交じりになった父が私の方へ歩み寄ると、髪を掴み上げた。
「っ!」
「殿下と婚約破棄など、お前は馬鹿なのか」
「はい……すみません」
お父様の視線が、侮蔑を含んで見下ろしてくる。昨日の夜会のことを、お父様は今朝知ったのだろう。
青筋の立ったお父様の顔を直視できない。
不気味だと義母にも言われた赤い目でお父様を見れば、彼が私に殺意を向けてくるから。
「親不孝者になりたくなかったら、今すぐ城に行け。殿下との婚約を改めて結び直せ」
お父様が、私の肩に手を置いた。
肩にかかる握力が、私の有無を絶対にゆるさない。
「側室だろうが関係ない。お前は、ただのコマにすぎないからな。結婚できなければ、お前に価値などない」
「はい……謹んでお受けいたします」
口から出る言葉は自然と出てきた。
それから私は馬車に乗る。
ガタガタ、あぜ道は長い。
娼婦から生まれた私を、お父様は最大限利用することにした。それに気がついたのは、拾われて間もない頃だ。
『ルシエル、あなたは母の自慢の子よ』
母の優しい声と撫でてくれる温かい手のひらだけが、ずっと灯火のように心残りだった。彼女が梅毒に体を侵され死ぬ時まで、父親は来なかった。
『お前がルシエルか』
街中で拾われ、突然に連れてこられたのは私の知りもしなかった世界。綺羅びやかで、着る衣服はいつも華やかだ。
母が仕事をするときよりも綺麗な服に身を包むことができて、とても嬉しかった。
けれどそれは、瞬く間に覚める幻想だった。
『お前は物覚えが悪いようだルシエル』
『お父様…?』
父の手に握られた黒い蛇のような細長いもの。それが急に私の腕を打ち鳴らした。痛いと叫び散らす私を、父様は背中を向けろと荒く声をあげた。
それからだった。
父様が、私の背中に傷をつけるようになったのは。
結婚前の年若い娘は傷物になれば価値が下がる。だから、傷を付ける箇所を選んだのだ。背中という、夜伽の時まで決してわからない場所に。
「痛い…」
背に走るミミズのような傷跡は、決して見られてはならないもの。
これを生涯、私は一人で背負うのだろう。
側室になることが私の役割なのだ。かの王子の側室にさえなれれば、お父様の家格が少しでも安泰になる。
痛いのはもう嫌。
側室になれば、私はこの痛みから解放されるのだろうか。
否。
母の口から紡がれていた物語が、それを許さない。
『素敵な王子様と出会いなさい。いつかあなたを、あなただけを思ってくれる人に』
お母さん、それはとても難しいことだわ。
だって私の背中にはあまりに傷が残りすぎたもの。
こんな傷跡から、出来損ないの血筋までも受け入れて愛してくれる人などどこにもいやしないの。
母の夢が私の喉元を最後までつかえさせる。
側室止まりになれば、私もまた彼女のようになる。
梅毒に一人侵され、美しかった銀髪は老女のようにボサボサで。最後まで一人ぼっち。焼けただれたような肌が、母の美しかった面影をグチャグチャにして、脳裏に焼き付いて離さない。
かと言って側室になることをここで諦めたら、お父様に何と言われようものか。妾の子と隠しながら生きている私の秘密を隠し、出来損ないを処理する準備はとうにできているのだろう。
では私はどうすればいい?
「痛みから解放されるには、この世界では無理」
だったら、死しかない。
馬車がゴトゴト揺られていく。牛が出荷されるときの気持ちみたいだ。
ドナドナ、ドナドナ。
かくも、死に向かう心意気は潔い。
母譲りの赤い目に、光が指してくる。馬車から降り、謁見の間へ通された私の心いきはとても清々しかった。
「と……そ…エルを……」
向こうで誰かが話しているにも関わらず、大きな扉が開かれ、私は中へと入る。
「待たんか!」
大きな部屋。
高い天井、何百人も収容できそうなほど縦に長い部屋。竜が入っても収まりそうなほど広い謁見の間。
過去の私には夢としか思えなかったあのお城に、私はいるのだ。
「おい、待たんかといっておる!先客がいるのだぞ。まったく、雑事が滞りすぎおって我を過労死させるつもりか?」
一段高い玉座に座る陛下は大きくため息をついた。謁見の間に簡単に通されたけれど、何かの手違いだったようだ。先客、と言われる方が私へと振り向いた。
「ルシエル…?」
声音は海の底よりも深かった。
肩幅は広く、明らかに剣を常に帯刀する騎士と同じぐらいに逞しい体格。
赤金色の純粋な銅のような髪は短く、その目は猛獣たちと同じ金色の目だ。目つきの悪さは狂犬と言われても過言ではないほど、小心者を蹴倒すほどの強さがあった。
その目に睨まれるようにじっと見られ、お父様の時よりも怯えが体を走った。
でも、前の自分と今の自分は違う。
決定的に違うのは、この世界での死を覚悟していたからだ。
「アフレイド・ケルベロス公爵様」
その名は誰もが知れたことだった。
齢二十歳にして、騎士団長にまで上り詰めた若き剛剣。
数々の魔物を倒しに自らを赴き、その手に握られるのは数多の首。
この方がいれば、この国において魔物は脅威ではないとまで言われるほどの武勇伝。
不死身の騎士。
その名を聞けば誰もが恐怖する。
一体につき何十という腕を磨き上げた騎士たちが必要な魔物を、たった一人で駆逐するほどの剣才。
「良いか、イモータルの騎士。お主の今回の褒美についてだが、良いだろう。我は許可するぞ。すでにその娘は我が愚息が捨てたようだしな」
「御意」
ケルベロス公爵様が胸に手を当て、膝をついた。王に向かって絶対の忠誠を尽くす騎士の背中は、誰よりも広く誰よりも頼りがいのある背だった。
それを横目で見ながら、王は私へと話を促す。
発言を許された私は、ようやく陛下に向かって話を始めた。
「陛下、今回ここに登城させていただいたのは私からの我儘でございます」
「ああ、例の件であろう?すまないな。我が愚息のこと謝罪をしたい。しかしその件についてはこちらも責任を取るつもりでな。そなたの隣に」
「どうか私の身分を返上させてください」
身分の返上、と聞いて陛下は言葉を飲み込んだ。
相手の話をしている間に遮るのは不敬にあたる。
けれど、私にはもう関係のないことだった。
身分の返上とは、すなわち身分を捨てるということ。
貴族の令嬢が身分を自ら捨てに行くなど、それこそ自殺行為だろう。だからこそ、法の刑罰で重罪を犯した者たちに身分剥奪が言い渡されるのだから。
でも私にとって、新しい道を踏み出すにはこれしかなかった。
「し、して、何故そなたは身分を捨てる?」
理由などない。
ただ全ての痛みから解放されたければ、これしかないから。
身分があっては、私はお父様に一生首輪を繋がれたままだ。それは嫌だ、背中にもう傷を入れたくない。
殿下の側室になるとなると、私はお母さんの夢を叶えられない。それは嫌だ、あんな孤独に死んでいった母を私は彼女の病のために手を握れず見送った。
過去に対する罪の意識と、現在の自分の置かれた状況に板挟みにされた私には、残る手段はこれしかない。
「私には、この世界(貴族界)は似合いません。どうか、陛下のお与えなさってくれたこの、ありがたい爵位を、返上させてください」
頭を垂れ、私は精一杯陛下に進言した。
貴族においての死を望む私は、どこまでも無謀なことをできてしまいそうな気がした。
ふと、隣からお父様と同じ気配がした。体にその殺意が染み込んでしまっているために、反射的に肩が上がった。
「あ、アフレイド。お主、殺気を収めよ」
「それは無茶なことですね、陛下」
赤金の髪が燃え上がるような気配さえする隣に、自身の黒い色の髪の隙間から覗いた。
ケルベロス公爵様が、ものすごい殺気を出しながら、その金色の目を血走らせている。
今そこに魔物が来ているとでも言われたら、すぐに狩りにいけるほど彼の気配が凄みを増していた。
王もまたガタガタと玉座の上で歯を鳴らしながら、ケルベロス公爵様の殺気に耐えていた。
「失礼。陛下、彼女と話をしてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ…よい、よい、いつでも下がれ」
震えるように許可を出す陛下。
「では」
ケルベロス公爵様が立ち上がると、黒い革手袋が私の手首を掴み上げた。騎士の黒い服装を身にまとった大男が私を立たせると体を持ち上げる。
首の後ろと膝の裏に回された腕は切り株のように太い。
見慣れない高さに動揺しつつも、公爵様がなぜ殺気を放つのかわからない。
私を、殺すつもりなのか。
そう思うと途端に体が震え上がった。私が望んでいるのは、貴族においての死。
己の命を投げ打つというとこまではいかないのだから。