17
途中、殿下視点
二人から静かに離れて来た店。静かな路地の中にあるその店で、私はニコニコしながら眺めていた。
どれも全部迷ってしまう。
私にとって素敵な品揃えばかり。
それらを購入して胸に抱えて店を出る。
あたりはすっかり時間が過ぎてしまい、夕暮れ時。
「まるでレイ様の炎の色みたいね」
夕焼けに染まる空の色は、彼の照れる時の炎の色。眺めつつ、店の路地を歩く。
そうしていると、いつのまにかとても暗くなっていることに気がついた。
足元の道は間違っていないはず。では何が暗くしているのだろうか。
「赤い目か」
眼の前にはフードを被って顔が見えない人がいた。
空を黒く覆うような影は、私のことを包むほど大きい。
目深く被られたフードは、どんな表情があるかもわからせない。
ただその声音が、とても優しいものではないということだけが読み取れた。
「すみません。そこを通していただけないかしら」
「嫌だといえば?」
男が手を出してきた。
鷲掴みにされる手は、冷酷なまでに強い。そして、バーカル王国で見慣れていたほどに、その手は手荒れていた。
皮膚が焼きただれている。
母さんの手を不意に思い出し、懐かしいと思ってしまう。
けれど、彼女の梅毒とは違い、それは昔の火傷痕のようなもの。
ギシギシと骨がなりそうなまでに、掴まれた手首を締め付けられるものの、悲鳴をあげることができない。
父様に暴行されるのと同じく、いつもの癖のように、ただ苦痛に耐え抜くために、歯を食いしばった。
「お前は貴族だろう?いつ攫おうかと狙っていたが、まさかこれほど馬鹿なやつがいたとはな。わざわざ自分から路地に来るなど」
自分が貴族だという自覚を忘れていた。街に出れば、私はどうしてもバーカル王国にいたときの方を思い出してしまう。
加えて、非嫡出子という立場だからそういう価値があると深く考えることがほとんどない。
もう公爵夫人という立場なのに。
男の手が更に伸びてくる。
口元に押し当てられる手は痺れる匂いを出す布を持っていた。
「早く……れ。お前は……だからな。価値がある」
視界が暗転していく。
手に持っていたとっておきの品物を路地に落とし、私はそのまま倒れてしまった。
「黒髪の子ねぇ。それよりあんた、私と付き合ってくれんかねぇ」
「なんだよ婆さん。何に付き合えばいいんだ?」
腰がもはや垂直に曲がったババアが、俺の手を掴んでくる。ヨボヨボと垂れ下がった頬と、色あせるほどまでに使い古した服。
その手にある荷物をグイと渡してきて、長ったらしい階段を指さした。
「おぶってくれんかね。腰が痛くて敵わんからねぇ」
自分で歩けと言おうとしたら、隣りにいたレイが直ぐ様持ち上げた。その広い背中におんぶして、階段をスタスタ駆け上がる。
本当に手伝うなど馬鹿げている。これが人攫いとかの罠だとしたら、国の危機になるかもしれないのに。
「何を見ている。早く上に来い」
「あああ!わかったよ」
イヤイヤながら無駄に重たい風呂敷を持ち上げ、階段を上る。レイは婆さん一人抱えようと軽々上っていたが、対して俺の足取りは重かった。
風呂敷の中から覗く大根やニンジンなどの野菜。
今日作るものを運ぶなど、実に大変なことをしている。
「できた料理がすぐ食べれる家なら良いのにな」
「自分で作らなきゃいけないからねぇ。毎日毎日、この階段を上るのは大変だよぉ」
レイの背中の上にいる婆さんがゆっくり話しながら、ようやく上についた。
手に持っていた重い風呂敷が皮膚を赤くしていた。こんなに重く手に負荷のかかるものは剣以外にない。
かなり重いものを、地に降ろされた婆さんは軽々と手に握る。その手は荒れてしわくちゃであるのに、強い手だ。
「ありがとうねぇ。ほらこれアメちゃん」
「お気をつけて」
「おやありがたいねぇ。強面のお兄さんも気をつけてねぇ」
婆さんがしわしわのまぶたをほとんど閉じたままに言った。
レイの顔がほとんど見えないから、背負われても怖がることをしなかったのだろう。手に渡されたアメは、キツネ色をしている。キツネにばかされたように、俺もまたあの腰を悪くしている婆さんがあんな重いものを持っていたことを疑ってしまう。
加えてこの飴玉のことだ。これ一つさえ、王子というものは毒が入っているかもしれないと思ってしまう。
全てを疑い、全てを信じることは許されない。
「食べないのか」
「これに毒があっては元も子もない。俺は国民の血肉で生きているからな。十八年と生き延びたのにここで死ねば、不孝者だ」
王子からなど、もう逃げてしまいたいと思うときはある。
日々、朝から始まる外交や諸連絡、刑罰の判断。夜にかけてまで、それはずっと続いて、休む暇などほとんどない。
特に最近は、王位継承権を父上に一時的な剥奪をされたばかりなのに忙しかった。
継承権がなくなれば、少しは仕事が楽になるのかもしれないと内心期待する自分もいたが。
「ふっ、はははは!そういうことか」
それについて、俺はようやく気づいた。
誰が茶会の時間を用意したか。
誰が外交の成り行きをすんなり進めていたか。
誰が俺の息抜きを設けてくれていたか。
あの女はやはり、憎いほどに器量が良い。
「本当、逃がした魚は大きいな。レイ、お前はルシエルを俺に譲る気はないか」
尋ねた瞬間に、レイから立ち込める空気の温度が変わる。強面で怖いが、優しい雰囲気もあるレイが怒っている。
怒ると唸り狂う番犬のようだが、俺にとっては関係ない。
むしろこの見え見えな恐ろしさをぶつけられる方が心地よかった。
いつ権力や命を奪われるかという見えない罠を踏むよりも、ずっとレイのみえすいた恐ろしさはマシだった。
「ルシエルは俺の妻だ。婚約破棄をすることなど、絶対にない」
そういえば、なぜ婚約破棄などをしてしまったのだろうと自分でも思い返す。
あの女のからかいが嫌だったのか。それとも、可愛げがないと思えてしまうところが受け入れられなかったのか。
考えるけれど、答えはあいまいだった。
ただその時に激情に狩られて、冷静な判断でないままに破棄をしたのだ。
俺を正面から気遣い、可愛げもある令嬢があのときはいたから。
わかりやすく褒めてくれて、よく笑うあの令嬢は父上の仕込んだサクラだったが。
あの女は陰ながら支え、よくよく見ればその中には可愛さがあった。からかわれている時、あまりにもどかしくなるからその可愛げに気づかなかったが。
ルシエルは最初からよく気遣いのできる女で、たしかに自分よりも他人を心配することに長けていた。
「外交はあいつとともに進めていたのが多かったな。女だというのに、芯があって男相手でも平気に冗談を言えるのはあいつぐらいだ」
この国はどの令嬢も、男に対しての免疫が少ない。基本が一夫一婦制で、男を前にするのは婚約者相手ぐらいが初めてだから。大体は気が弱く、男の意見に流されてばかりだが。
ルシエルは、からかう余裕があるほど、弱点は見えず気が強くてできた女だった。
「フィリップ、本気で言っているのか」
「ああもちろん。父上にルシエル以上の女を連れてこいと言われているからな」
王位継承権まで剥奪されかけているが。
そのことは控えて言うと、レイは手にのせられたアメちゃんをギリギリと握りつぶした。
キツネ色をしたアメが弾けていく。最恐と恐れられるには、この男は武器を持たずとも素手の破壊力が高いためでもある。
「ふふっ、ははははは!冗談だ。何をそんなに本気で怒ることがある」
まさかここまで怒りをあらわにされるとは。城に戻れば俺は王子で、こいつは忠実な家来ケルベロス公爵になる。だというのに、分かりやすく怒るのは見ていて爽快だった。
だが俺がからかおうとも、レイの赤金の髪は燃えなかった。
やはり、あいつの前でだけが特別ということだ。
険しい顔で、レイは答えた。
「冗談でもよしてくれ。俺は本気で、ルシエルが大事だ。フィリップの戯言一つで、もしかしたらルシエルが本気でお前を好きになるかもしれないだろ」
余裕なさそうに伏し目がちになるレイ。
数日の間、二人を見ていたがそんな隙はないように思える。
誰もが仲睦まじいと思えるほどの、からかいと照れ顔。これで中を割って入るなど、無理なことだ。
「ふっ、簡単には諦めがつかないものなんだな」
小さくつぶやきながらも、彼女の目撃情報を追うことに切り替えた。
先程から聞いて回ってはいるが、一向にたどり着きそうな気配はない。また一人、と聞いているとその中から驚きの情報を聞くことになった。
ぐったりとした黒髪の女が、先程運ばれているのを見たと。
「まずいな。人攫いの危険が高いぞ」
考えがそのまま口に出ると、レイはまた分かりやすく拳に血管を浮きぼらせるほど強く握った。
人攫いに関して有益な情報はないだろうか。
最近の貴族の横領や、国の犯罪を頭の中で思い返して一つだけ思い当たるところがあった。
「赤目の一族か」
「それは、ルシエルの目のことか?」
「そうだ。赤目の一族を信仰する宗教が最近捕まったんだ。だがまだ団体のリーダーが捕まってない。人攫いが最近多くなったのも、赤目を追ってるというのがある」
珍しい色ではある。
よく茶会をするたびに、ルシエルの目は引き込まれるように見ていた。外国ですら見られない、赤い宝石のような目。
玉座にはめ込まれたルビーより、太陽に当たろうと色あせない。
貴族でなく平民だったら、目をつけられてすぐにでも人攫いにあうだろう。
今、俺達の服装はあまりに質素だ。カッターシャツとズボン、平民の服装。ルシエルも例外ではない。
「なぜ一人で行動した?なぜ俺たち二人で釣りをするように仕向けたんだ?レイは何か知っているのか」
「それは俺のためにしたんだと思う。レヴィアから聞いたが、ルシエルは俺の人脈を増やすためにフィリップとの仲を取り持とうとしたとな」
「はっ、もっともあいつらしいな。お前のような番犬と仲が良くなるなど、何とも気に食わないが」
「同感だ」
互いに見つめ合うものの、そこに嫌悪感はまったくない。これが俺たちなりの付き合い方で話し合い方なんだ。本当に、すべてあいつが望んだ通りになってしまっている。
俺から婚約破棄したというのに、ヤツは憎むどころか快く受け入れた。その精神力の強さがやはり憎らしくも、気にいるところだ。
レイは静かに考えながらも、人攫いの足跡を嗅ぐように頭でたどる。
俺たちが二人がかりで探せば、ルシエルは絶対に見つかる。
いや、見つけてみせよう。
いつの間にか、隣りにいるレイは頼りがいのある存在になっている。
その辺のババアをすぐに手助けしてしまうところは優しい。
ルシエルに対しても、互いに気遣え合えるところすら。
きっとこういうことができる一面に、好感を抱いたのだろう。
男が甘い言葉で女を口説くということより、優しい行動が心をつかんだ。
「完敗だな。だが人攫いについては負けるわけにはいかない。これはどちらが先にアジトに踏み込めるかだな。俺と勝負しろ」
これが終われば、また城ぐらしに戻る。
本気で真っ向から勝負を受けてくれるこの面白い男とは、少し決着をつけたい。
互いに気に入った女を取り合うような勝負。
実に面白い。
俺たちはすぐに情報をかき集めることにした。




