12
『大切なものは自ら守れるようになりなさい。』
母さんの教えは、いつも私のことを支えてくれた。あの伯爵邸にいたときも、狂わなかったのは母さんのくれた愛が残っていたから。
「少し買い物に行ってくるわ」
「奥様、誰かお付きのものを」
「大丈夫。レイ様に極秘にプレゼントを渡したいのよ。だから誰もついてきてはダメよ」
玄関先でレヴィアの申し出を断ると、公爵家の馬車を使ってとある場所へと移動してもらった。
ゴトゴト、公爵領とは別の舗装されていないあぜ道。その白の壁とクリーム色の屋根を基調とした屋敷に着くのはそう時間もかからなかった。御者には少しだけ待つよう言い渡すと、その屋敷の中へと入っていく。
門にいる門番は、私の顔を見ても止めはしない。
「いらっしゃるのでしょう?お義兄様」
屋敷の扉を開けずとも、私の声で勝手に開いた。向こう側に既にあるその気配は、幾度となく私の憎悪を引き出す。
「ルシエル、ようやく目が覚めたんだね。さあ、おいで」
にっこり微笑むお義兄様の紫色の目が細い月のように笑った。
その貼り付けられた笑みの向こう側に、怖いほどの暗い闇があるのを知っている。それでも、私はあの幼いときの自分とは違う。
「ここにサインしてくださいませ」
「これは絶縁状じゃないか。ルシエルは、僕たちと勘当するということかい?」
「もしサインをしないというのなら、私はこの背中の傷を王に進言いたします」
こうでもしなければ、私はこの人との縁を切ることはできないだろう。絶縁状というのは、完全に兄弟、親子関係を断ち切るという法律に定められたものだ。
これにサインしてもらえれば、今後レイ様の屋敷にそう簡単に踏み入れられなくなる。
踏み込めば他人として追い出され、私の輿入れ金だのとやかく言えなくなる。
書類を眺め見て、お義兄様はすぐに屋敷の中へ戻っていった。
その後すぐに、足音がしたかと思うと彼はニコニコと微笑んで書類にサインを施し、渡してくる。
「ありがとう……ございます」
その潔さに違和感を覚えつつ受け取ると、近くに控えていた御者に渡した。
こんなにもすんなりとサインしてもらえるとは思っても見なかった。
その疑問が顔に出ていたのか、お義兄様が答えた。
「僕は嬉しいんだよ、ルシエル」
「私と縁が切れることがでしょうか」
「そうだよ。兄弟という、縁がさ。とっても邪魔だったんだ。だからこれでもう、僕たちは関係ない」
お義兄様が滑らすように手を伸ばしてくると、私を屋敷の中へと誘うように引っ込んだ。手を取られ、背中にあるのは閉じた硬い扉。外にいる御者の声が、内側にまで響いてきた。
あの地獄だった、黄色のカーペットの敷かれた玄関ホール。その中央階段には、睨みつけるようなお父様とお義母様の二人の肖像画。
「おかえり、ルシエル。そして初めまして、僕の運命の女神様」
「お義兄様……?」
「ようやく、ようやくだ」
お兄様の口の端が不気味に上がった。月よりも弓、弓よりも、蛇のように。歪んだ口元に、細められる目。その全てが違った意味を持ち、暗い闇の中へ私を落としに来る。
お義兄様の手が、ものすごい力で二の腕を掴んできた。そのまま強引に屋敷の奥へ連れ込まれ、ある部屋にたどり着いた。
「ふっはははは!君はなんて分かりやすいんだ。あの公爵に脅されていたから、僕のとこに来てまで助けを求めに来たんだね」
「何を言って」
「だから、僕と絶縁することで兄弟という肩書をなくした。そしたら、君も気兼ねなく僕と婚約できるから」
この人を私は見くびりすぎていたかもしれない。
絶縁状へのサインを、彼は私がお義兄様と婚約するために申し付けたと勘違いしている。この勘違いを、幼い頃から何度問いただそうとしたことか。それでも、彼には届かない。
その奥底に巣食った、おかしな闇はあまりにも深い。
「今のルシエルになら、僕のことを受け入れられるはずだ」
彼はニコニコしながら、また連れ出そうとする。その腕を払い、私は一つ距離をおいた。何もかも、彼は勘違いをしている。
怖くなり、すぐに逃げ出そうと引き返すものの、お義兄様のケタケタとした笑い声が後ろから迫っていた。
玄関ホールの扉へ急いで駆け込んだ。
怖い。
後ろからジリジリと詰め寄る気配。
お父様がムチを取るときの歪んだものより、女としての尊厳を踏みにじられるような思い。お義兄様という怪物が、一歩後ろにいる。
レイ様に会いたい。
彼の大きな手で守られて、触れられて。またからかうように、笑い合って。
あの炎を見たい。
扉を引き、向こうの世界が入り込む。明るい日差しは、しかし何かがさえぎり鼻頭を強く打った。
「ふぎゃっ」
突如として硬いものが目前にあり、とても痛い。何事かと思うものの、後ろから迫る恐怖に勝るものではない。私はその硬いものをおしやるものの、びくともしなかった。
「お、お前、なぜここにいる」
後ろから迫るお義兄様の足が止まり、たちどころに引いていく。
何を言おう、その不気味なほどに私を見ていた目が恐怖の色に染まっていた。ずいと頭を動かし、上を見る。
青い炎。
「やはりな。ルシエルに聞いたとおり、お前は俺の妻を狙っていたわけか」
レイ様が、なぜか扉を開けた先に立っていた。しかもその背中に背負われている武器は大剣だった。金色の目が突然、不審者に吠える番犬のように鋭くなる。
「まだ、対処していなかったことを思い出してな」
「僕が何をしたと言いたいんだ?ルシエルにはまだ手を出してはいないのに」
「だから警告に来た」
大股で進み、レイ様は猫のようにまるまるお義兄様の首根っこを掴んだ。その大きな手からまた、黒い魔力が流れていく。髪の炎が炭のように黒くなり、レイ様は唱えていた。
「地獄の悪夢」
黒い鎖の形をした魔力が、お兄様の肌へと入り込んでいく。喉の皮膚の上から、全身を覆うような鎖の文様。それが体を縛るように巡り、馴染んでいった。お父様のときは違い、鎖のあとは消えていく。
「何をしたっ」
「お前には、とても似合う魔法だ」
「っ!」
お義兄様の紫色の目が私の姿をとらえると、皿のように真ん丸に見開いた。それからすぐに目を背けて、ガタガタと体を震わせ始める。
「や、やめてくれっ。こんな、ルシエルがこんなはずない。こんな、化け物…」
肩を抱えて、彼は屋敷の奥へと逃げるように引っ込んでいった。その姿に、ただならぬ魔法をかけたのだとすぐにでも察することができた。
「ルシエル」
青い炎はまだ変わらない。私の名を読み上げながら、レイ様が背中越しに私へ怒りをあらわにしていた。
何も言えず、弁解する余地すらない。
嘘をついて出ていったこと。何より、その嘘の内容が彼へプレゼントを買いに行くという悲しいもの。
始めに何を話せばよいかわからないのが伝わったのか、レイ様は私の手を掴むと馬車の中に戻った。
向かい側の席に座るレイ様は、顔を伏せて青い炎を吹き出している。
それから、彼と馬車に乗った。
目の前では顔を手でおおった彼がため息をついている。
「すみません」
「何に怒っているか、わかって謝っているのか」
「レイ様にプレゼントを買いに行くという口実で抜け出してしまったことです」
呟くように言うと、彼は少しため息をはきそれから手で顔を隠した。
彼をとても残念がらせたことに違いない。こんな酷い嘘をついて、違う場所に行っていたなど。
「ごめんなさい」
「はぁ…君は本当に無茶をする。身分返上の時もだが…」
「でも、絶縁状を取り付けることができました」
これは伯爵家に私がケリをつけるために来たこと。
嘘をついてしまったけれど、それは必要なものだった。そう開き直ることにしようとしたら、レイ様の手が伸びてきた。
背中と腰に腕が回って、いつの間にか彼は私の隣にすわっていた。
「君が無事で良かった」
嘘をついた。
彼にまた魔法を使わせることになって、迷惑もたくさんかけているのに。
私が無事で良かったというレイ様が、私はどうしようもなく好きでいる。
この方はとてもお優しくて、温かい人で、側にいると落ち着く。
先程までお義兄様から向けられていたドロドロの感情を全部はらってくれる。
「もう一人で行動しないでくれ。俺じゃなくてもいいから、出かけるときは使用人をお供にするように。君だけだと心配で仕方ない。今日みたいなことをされてもな」
「怒らないのですか」
彼の髪の青い炎が少しずつ赤色へとおさまっていく。
「怒っているさ。でもな、それ以上に君が無事でいてくれたことに安心しているんだ。君の身が一番大切だからな」
「私は娼婦の娘です。自分の身はレイ様よりよっぽど汚れているのに、貴方様はまるで自分のことより大切にしてくれるのですね」
からかうように笑うと、彼は照れるのではなく今度は微笑んだ。柔らかく、自然とこぼれた笑みはとても格好良い。金色の目が静かに三日月のようになる。
「当たり前だ。君は俺の、愛しい妻だからな」
そんなに微笑んで。
「ルシエル?」
サラッとすごいことを言ってくるレイ様。
いつも照れるのはレイ様で、それを可愛がるのは私なのに。
今日はいささか、その余裕がない。
「顔が赤いな。熱でもあるのか」
「は、反則ですレイ様」
彼が額に手を当ててきた。その大きな手はあまりにも優しくて、私はどんどん顔に熱が集積してしまう。
この人がとても優しい理由は、たくさん自分が傷ついたからだ。
その身に人々を魔物から守るためにと刻まれていった痛み。その辛さを知っているから、自分より人をこんなにも大切にできるのだろう。
額に当てられた大きな手を、私は両手で包むと、口づけをした。その骨太な指へ。
「愛していますレイ様」
心からの言葉が溢れてしまう。
抑えきれなくなった感情がフツフツと湧いてくるのと、レイ様の炎が燃えるのは同時だった。
「っ…不意をつく攻撃はよしてくれルシエル」
レイ様がもう片方の手で口元を抑えながら、目をそらした。
何て可愛らしくもあるのだろう。
「ルル。レイ様、私は元気なときの母にそう呼ばれておりました」
この方はきっと、母さんとは違いとても強い方だ。
だから彼は母さんのようにはならないだろう。若くして亡くなった母のように孤独ではない。彼を敬う屋敷の者たちと、私が側についている。
「ルル」
試すように小さく呟いた彼に、私はまた心から笑みがこぼれてしまう。
「はい、レイ様」
愛おしい。
心のなかの化膿していたものが治り始める。
何度でも呼ばれたい。
彼の穏やかな闇夜の声なら、何度でも。
お父様のように怒鳴り声で呼ばれるのは怖いけれど、彼になら。
「私は案外、旦那様をからかうのには少し余裕がないのかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
「ふふっ。レイ様のことをとってもお慕いしているということですよ」
指を絡め合い手をつなぐ。
それだけで彼の炎は熱いピンクと金粉の混じった炎が吹き出す。
この炎は私の前でだけたくさん反応を示すから、私だけのものだ。
「帰りましょうレイ様」
馬車が揺れ、屋敷へ向かう。
私の家はもう、彼のいるところだ。




