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9 望まぬ訪問者

アフレイド公爵様のところへ来てから、早ニ週間。

レイ様が少しお出かけにはなられている間に、使用人から呼び出しを受けた。

それを耳にして、私は急いで玄関ホールのところへ出ていった。


プシューケー伯爵が来ている。


「ルシエル」


「お父様」


それと、お義兄(にい)様まで。

細身のお父様の後ろで、お父様の若い頃にそっくりだと言われるほど甘い顔をした義兄(あに)がいた。

なぜここに足を運んだのかと問いかけたいが、もしかしたらレイ様と何か用事があったのかもしれない。


「アフレイド様は今、外出中です」


「そんなことはどうでもいい。お前のことだルシエル」


低い声が降りかかる。

途端に体はブルブルと震えを上がらせた。お父様の冷めきった目が向けられて、また背中に痛みが走っていく。


一つ、二つ、三つ…四つ…


数えるように刻むように。

背中の痛みが広がっていく。


「殿下の側室にならず、まさか公爵家の正妻になろうとは」


ニコニコしながら、お父様が私のことを抱きしめた。動けないまま、その蛇のような締め付けが首筋を舐め取るようだ。

気分は悪くなり、今朝食べたものを吐きそうになる。


「可愛い私の娘。可愛い可愛い娘を、公爵家に取られるとは悲しいなぁ。これは輿入れ金を貰わねば気が済まない」


お父様の大芝居の演技が始まる。

私を今までその手でムチ打ったくせに、彼は私を大切な娘と言い張る。

ケルベロス公爵家という、圧倒的なまでの魔力と剣才をもつ家系。魔物を代々倒し、王族に古くから使えてきた彼らの財産は莫大だ。

公爵の領土は広く、そして豊かな作物が取れる。

父はその、財産を目当てにこちらに来たのだろう。

私を妻にするというレイ様から、お金をふんだくるために。


「ああ、ルシエル。僕の可愛い妹が、人に恐れられている公爵家に嫁ぐなんて。可哀想だ、慰謝料も取らなければね」


兄がそう言い、ニチャァと笑う。不気味な猫が口を割くほど笑顔になっているような、冷たいものを感じた。

それから、父様は私の背中の傷を爪で引っ掻くように手の力を強めた。


「逃げれると思うなよ」


「っ」


ヒソヒソと呟かれる耳から、全身に震えは行き渡る。

もう立っていられそうもない。

いくら逃げようと、追ってくる。

お父様は私を非嫡出子にも関わらず育て上げた恩を返せとせがむだろう。

私を政略結婚のコマとしている限り、夫となる人の財産を食いに来る。

お兄様は私を舐めるように相変わらず見てくる。

兄の気持ちの悪い愛は、受け取りたくもない。けれど私が生きている限り、ずっとその機会を伺っているに違いない。


「や、やめてください」


「あ?」


「もう止めてください。私につきまとうのも」


レイ様が私を好きだと言ってくれた。あの方へ迷惑をかけたくない。

財産など一編たりとも彼らに取られたくない。あの方が単身で魔物を倒し、人々に恐れられながらも稼いだものだ。

孤独に戦い続けてきたもの。公爵家が代々、その力を王に忠誠を誓ったからこそ成り立った財産。


それをこのような者たちに渡したら、汚されてしまう。


「お前、誰に向かって言っているのかわかっているのか?」


「っ!!」


父様の爪が食い込み、背中の傷の痛みが増した時だった。


「俺の妻に、何をしている」


真っ黒な影が私達を覆うように、彼が父様から私を引き離した。

爪が食い込んでいた背中から、お父様の手が離れていく。

レイ様が外出から帰ってきたのだ。

私の背中に温かく大きな手が添えられて、傷の痛みが引いていくようだった。レイ様に睨みつけられた父と兄は、負け犬のように縮こまっていく。

レイ様と貴族たちの接触は意外にも少ないのだろう。恐れられているといっても、どのくらい怖いかなんて本人を目にしなければ分からない。

視界の端で彼の頭からメラメラと炎が出ていた。


「わ、わ、私は、そ、その娘の父親で」


「ほおう。お前が彼女に、ムチを打っていた親か」


「は、はひっ…い、いえ、私はその子を、可愛がって」


「嘘もいい加減にしろっ」


冷酷に放たれた怒りの声が、ぴしゃっと冷水をかけられたように父様の言葉を止めた。

レイ様が私の腰を抱き寄せながら、赤い炎を出してお父様のことを見下ろす。

その勇ましさはまさしく、地獄の番犬だった。


「彼女がどれだけお前に傷つけられたか。我が子であるのに、お前は何とも思わずムチを手にしたのか」


「こ、こいつは!娼婦の娘だぞ!!僕とは違う、娼婦の」


「黙れ。彼女を娼婦の娘だと、差別するな」


兄が口を開きかけるのを、またしてもその一言で彼は黙らせた。

レイ様の冷たい殺気が漂い始める。

赤い炎はいつしか、火山のように勢いを増しながら青くなっていく。

真っ青になるのは、父も兄も同じだった。


「ルシエル、覚えていろ。私はお前を恨んでいる」


お父様が何とか振り絞るような声で捨て台詞を吐く。兄を連れて、彼はすぐに玄関から出ていった。


お父様が私を恨んでいる。


どうしよう、もしかしたらまたここに来てしまうかもしれない。

そう思うと震えがまだ止まらなかった。背中の痛みがジンジンと痛くなって、指先は冷たくなる。

また来たら、また何度も来たら。

たくさんレイ様に迷惑をかけてしまう。そしたらレイ様に、捨てられるかもしれない。


「ルシエル、震えが止まらないのか」


「いいえっ、これは…これは大丈夫です」


引きつった顔で笑いながら、今日の夕食はなんだろうと話題を振った。その日の会話は何をしたのか覚えていない。

それほど、レイ様に捨てられるのが怖かった。


あの父親が生きている限り。

あの兄が生きている限り。

私は私の夫を困らせる。

あの執着気質のある彼らの手を免れるには、方法はない。生涯私を伴侶とする人はあの人たちを毎度追い返さなければならなくなる。

迷惑をかけてしまう。


「ルシエル」


自室で眠ろうとしていた私に、レイ様が廊下で声をかけてきた。いつものように寝室ではなく、他の部屋に行こうとする私に気づいたようだ。


「君が寝る場所は、そっちではないだろう?」


どこか悲しげに彼は言う。子犬のように目を伏せて伺ってくる。


「はい。ですが…」


彼は私のような人と関わること、本当は嫌なのではなかろうか。

私を好いてくれたこと。そして今も、私が褒めたり触れるたびにたくさん照れてしまうこと。どれだけ彼が思ってくれているのかよく分かる。

けれど、よく分かるからこそ、距離を置かなければならないと思ってしまう。

父と兄のことを知ったからには、彼も今まで通り私を好きでいてくれるとは限らない。互いを深く知れば知るほど、好きでなくなることだってあるのだから。


「私は今晩、こちらで寝ることにしますね」


「今日のことか」


「そうですね」


「忘れてくれないか」


忘れるって、彼が私の親族へ怒りをあらわにしてくれたことだろうか。

怒りすぎて髪が青く燃え上がったレイ様を見るのは初めてだった。

でもそれを忘れてくれというのは、私を捨てるからか。私が娼婦の娘だと侮蔑されるのを庇い、守ってくれたこと。

もうお前は妻じゃなくなるから、忘れろと?


「嫌です」


レイ様が怒ってくれたことだけは忘れたくない。たとえこれから、彼に捨てられようと。


「忘れられない…よな。すまない、俺は君を怯えさせて」


「レイ様が守ってくれたこと、忘れたくないです。紛れもない貴方の思いだけは、この胸に刻ませてもらいたいのです」


私はすがるように言っていた。

レイ様の袖を掴みながら、あの父親のおぞましい言葉が耳を突く。


「私は貴方だけの妻でいたいと、そう心から思ってしまっているのです」


これほど心から相手に願うことなど、初めてだった。

母にだって生き続けろなんて、闘病生活の中で言わなかった。誰かにすがり、願うのは、相手の首を締めること。分かっていながら、私はレイ様に救いを求めていた。


「こんな妻、お荷物なんてわかっています。ですけど、私はレイ様のお側にいたい。あなたの隣が一番、落ち着いてしまうから」


低い声で、私の耳を落ち着かせてほしい。あの父親とは違う、深い愛情と優しさのこもった彼の言葉をいつまでも聞いていたい。

願うように言うと、ボーボーと炎が音を上げた。


「俺は責任を取ると言っただろう」


「はい。ですから、私もこの件について責任を」


「じゃあ、今晩も一緒に寝てくれないか」


「ですが、私は貴方には相応しくないほどいろんなものを抱えているのです。自分でそれを分かっていながら貴方の妻でいたいと言うのですよ。どれだけワガママなんでしょう」


自分のあさましさが恥ずかしいほど見えてくる。

歴代の公爵家の中でも強く、国の英雄である彼。きっとその最恐という誤解が解けた時、彼はもっと素敵な女性に言い寄られるのだ。

親族の強欲さもなく、血筋も完璧な器量のいい女性に。


「恥ずかしいですね。過去から今の人間関係というものを知られるというのは。嫌いになったでしょう?」


「嫌いか…」


「娼婦の娘、ドブネズミ。伯爵家の中ではずっとそう呼ばれていました。私は確かにそちらのほうが相応しい」


母の白雪の花嫁の名よりも、私にはそのぐらい汚い名前が合っている。

レイ様はそのまま立ち尽くしながらも、炎の勢いだけは止めなかった。闇をさくように、少しずつ 少しずつ彼は私へ近づいてくる。

その大きくて優しい手。

私の心を何よりも落ち着かせてくれる大きな手が、ゆっくりと背中へ回ってきて抱き寄せた。


「俺が君を嫌いになるなんてありえない」


「レイ様……?」


「言っただろう。俺は君の心が好きなんだ。強い意志のある目に惚れた。ただ少し、君が今こうして弱っている姿も可愛いと思ってしまう俺を許してくれ」


耳元で力強いほどに響いていく低い声。穏やかな深海よりも深い暗闇。深淵のように、でもとても優しい闇で彼は包んでくれる。

炎が赤く、静かに燃えて揺れ続ける。


「ルシエル、いくらでも頼っていい。いくらでも守ってやる。それが夫の役目であり、俺が君に惚れた時から願っていたことだ」


レイ様が抱きしめてくれた。優しい手が背中に回り、いたわるように何度も撫でてくる。あの父親に呪いのようにつけられた傷跡が、少しずつ洗われていく。呪いのような過去が、少しずつ変わっていく。


「一番安心してほしいのは、俺は君に何をされようとも嫌いになれないことかもしれないな。髪の炎を笑われても、これっぽっちも怒る気にならないんだ」


「それは、私がとても意地悪だからかもしれませんね。レイ様の炎は、私の前でだけよく燃えますもの。私だけが触れていいとばかりにいじってあげたくなるのです」


「ははは。それは困るな、俺も君を恥ずかしがらせてやりたい」


すでに恥ずかしいと、心臓の高鳴りがうるさいのを彼は気づかないのだろうか。

包まれるだけで落ち着くけれど、同時に体中に熱が回って顔が暑くなる。

きっとこの照れ顔に気づかないのは、彼がそれほど強く私を胸に抱きしめてくれるからだろう。


「レイ様、大好きです」


小さな声で呟いた。

まだこの言葉を言うには、自分がとても弱かった。

大切な人ほど、自分の元から離れるのはあっという間だ。母さんがそうだったように。

母さんよりもかけがえのない存在になりつつある彼に、好きだといえばきっともう手放したくなくなってしまう。魔物を狩りに行く彼は、いつ死んでしまうやもしれないほど命の危険を自ら背負っている。

もう一度、心に穴がぽっかり空いては、私はもう二度と、強く生き抜く意思をもてないかもしれない。


「大丈夫だ。君のことは必ず守る」


「はいっ」


背中を撫でられ、頭までも優しく撫でてくれる。今日の抱擁は物足りなくなってしまうほど、長くて優しかった。抱きしめてくれる中、その髪の炎は怒りの青い炎ではなく、熱い情熱の太陽の色であった。

金粉すら舞う炎が愛おしくて、彼の髪を目を細めて眺めた。




「ずっと怖がられているのかと思っていたが、君は俺が恐ろしくないのか」


寝台に横になり、レイ様の金色の目が優しくなる。赤い髪を絶えず燃やし続けながら、彼は私の顔を眺めていた。

向かい合い、囁くように夜を過ごすのがとてもこそばゆい。

死んだ母と最後にできなかったことを、今の私はたくさんできるのだ。


「レイ様って、意外と全然怖くないのですよ」


「そんなことないだろう?俺の顔を見て失神するやつがたまにいる」


「私は違いますもの。あなたの妻ですから。ほら、赤い炎が真っ赤で」


クスクス笑うと、彼が炎よりも頬を赤くする。髪が燃え上がるよりも、その様子がとても愛おしい。


私を好きでいてくれてありがとう。

私を守ってくれてありがとう。


何度も感謝しながら、心の傷は癒えていく。化膿していたドロドロの心が、彼によって少しずつ洗われていく。


「レイ様の意外な一面を、他の人にも知ってもらいたいです。あなたは怖がられるべき人じゃなくて、本当はとても優しくて温かい」


「君だけでいいさ。俺はルシエルにだけ怖がられないでもらえるなら、それで構わない」


この人はどれだけ私を気遣ってくれるのだろうか。

嬉しくて、彼のゴツゴツした手を包み込んだ。手のひらから森のような爽やかな香りがする。

彼自身の匂いは、とても落ち着かせてくれる。

手のひらに口づけをすると、また赤い髪が燃え上がった。


「それに、き、君にだけだ。こんな魔力制御ができないのは」


可愛い人。

そう思いながら目を閉じた。

もっと彼のこと知りたい。

どうやって最恐とまで言われる騎士になったのか。

レイ様の過去を、私はもっと知りたくなった。

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