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【黒田騒動】新・白縫物語【栗山大膳】  作者: 足音P
第二部 勘解由脱出行
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第九十四回 黒田二十四騎の井上周防が訪れる

 寛永元年の秋まで生きた黒田二十四騎は、翌年に三月に病死するセミリタイア状態だったであろう桐山信行も含めて、十二名。

 分封問題について意見は割れていた。


 秋月藩に引き続いて東蓮寺藩に独立されると、毛利左近の領地替えがある。

 毛利左近が大変なことは無論であるが、将来に小倉藩細川家と争いが生じた場合には、井上家の負担が大きくなる。

 秋月藩や東蓮寺藩の対応次第では、井上家が最前線で孤立する。

 福岡藩と小倉藩との対立を考えれば、井上之房(道柏老人)が寛永元年の勘解由への諫書に署名したことは理解できる。

 また、毛利左近は母里太兵衛の子である。

 母里太兵衛は、伊丹城に黒田官兵衛が荒木村重によって幽閉された折、栗山利安(卜庵老人)と井上之房(道柏老人)とともに黒田官兵衛の救出活動に奔走した。

 それに協力した加藤重徳は黒田一也(黒田美作)の父親である。

 栗山利安(卜庵老人)も黒田一也(黒田美作)も勘解由に対する独立反対の諫書に署名している。

 黒田二十四騎の中で明確な分国反対派は、栗山利安(卜庵老人)、井上之房(道柏老人)、黒田一也(黒田美作)の三名。


 しかし、何と言っても、分国反対派は黒田長政の遺言に背くことになる。

 毛利左近の叔父であるのにもかかわらず、野口一成(野口左助)は、愚直にそのことを問題にした。

 それが黒田忠之を感激させたのか、寛永二年に黒田忠之は江戸から筑前に帰国すると、野口一成(野口左助)の知行を二千五百石から三千石に加増している。

 掘定則(堀平右衛門)は、分封がなされなければ、何の罪なく陪臣の座に落ちることになる。これは当然に分国賛成派である。

 毛屋武久(毛屋武蔵・毛屋主水)について言えば、栗山大膳が分国反対派であれば、分国賛成派にまわる。

 その親友である菅正利(菅和泉)も、息子が黒田忠之から分国賛成派として信用されていることから、分国賛成派に加わる。

 黒田二十四騎の中で明確な分国賛成派は、野口一成(野口左助)、掘定則(堀平右衛門)、毛屋武久(毛屋武蔵・毛屋主水)、菅正利(菅和泉)の四人。


 残りの五名、桐山信行、衣笠景延、原種良、林直利。吉田長利については不明。

 ただ、吉田長利について、寛永二年に筑前に帰国した黒田忠之は、毛利左近から没収した鞍手の七千石の領土のうちの四千石を長利の子である重利(吉田壱岐)に与え、重利(吉田壱岐)を萬吉付きの家老(東蓮寺藩の筆頭家老)にしている。二千石の加増である。

 その加増からすれば、吉田長利・重利の親子は、新藩主の黒田忠之から信頼を受ける分国賛成派だったのかもしれない。 

 また、黒田如水『家中間善悪之帳』における【黒田美作 よく候は】の項目に、毛利左近の他に、桐山信行と林直利の名前があることから、桐山信行と林直利の二人は黒田美作との人間関係上に分国反対派にまわったかもしれない、


   *  *


 福岡城下の卜庵老人の屋敷に一人の男が訪れる。

 もとは黒田二十四騎の一人、井上周防。

 道柏老人。

「分国の理由も明らかでなく、黒田に大功のある母里の子の領地替えすることはよろしくない」

 しかし、と卜庵老人は指摘する。

「勘解由さまや萬吉さまが分国できなければ、勘解由さま付きの家臣、萬吉さま付きの家臣は何の咎もないのに陪臣にされてしまう。それもまた理不尽」

 お待ちなされ、と道柏老人は唇をとがらせた。

「卜庵さまは、今さら勘解由さまや萬吉さまの分国にご賛成なさるおつもりか?」

 いいや、と卜庵老人は首を横に振った。

「分国をご公儀(徳川幕府)に願い出て失敗してから、平右衛門らを陪臣に落とすというようなことになれば、どうなる?

 藩主になったばかりの忠之さまの御威光は地に落ちる。国の乱れが収まらなくなってしまうわい。  

 這い上がれない奈落に落ちることを避けるには、いろいろな理不尽も腹の中に呑み込んで、勘解由さまと萬吉さまに分国をおあきらめいただくべきじゃ」


   *  *


 寛永の福岡藩の分封問題においては、栗山大膳がほぼ完全に孤立した黒田騒動時とは違って、多くの人士が分国反対派に参加している。

 それなりの者たちがそろって愚かな選択をするようなことがあるだろうか?

 あえて言おう。

 当時の筑前における分国反対には、多くの人士が参加するだけの合理的な理由があった。分国反対は相当程度に蓋然性の高い未来予測に基づいた一つの正義だった。

 史実の流れとしては、勘解由少年は夜の海を丸木舟で渡る脱出行を寛永元年の暮れに敢行し、さらに、江戸の福岡潘の桜田屋敷が幕閣への政治工作に成功して寛永三年に分国を成立させてしまう(桜田屋敷にいた倉八長之助はこの年の暮れに新知の一千石でもって自分の家を立てることになるのだから、長之助が相当の役割を演じた可能性もある)。

 現場に偶然にも有能な人材がそろってしまい、一般的な予測をすべて引っ繰り返してしまった。

 無茶苦茶である。

 少なくとも、当時の築前にいれば、分国反対派に加わらなかったと断言する自信は私にない。

 いったん起きてしまえば、何もかも全てが起きて当然のことであるように見えるから、分国反対派がただの愚かな悪のように見えてしまうだけだ。

 不確実な未来の中で、社会全体に対する善意もって、各自が懸命に足掻きながら判断を下したのならば、いずれも正義だ。



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