第九十回 大蛇川の燐太夫は晴れやかに笑ふ
暮れの猿田彦大神の祭りでは、お燐に手妻を演ってもらいたい、とのこと。
祭りを盛り上げる。
それは表の目的である。
裏の目的は、非日常の空気感をつくること。
人々から考えようという意欲を奪う。
考えてもわからないことがあると相手に思わせて相手をすくませる。
恐慌状態をつくるための下準備。
意識しがたい薄い無力感に包まれる中に、こちらの切り札である体長が五丈から六丈(十五メートルから二十メートル)の土蜘蛛を放り込む。
わけがわからなくなるだろう。
考えない者は時として思いもよらないことを思いつく危険があるにせよ、一つの型に嵌はめやすく、一つの型に嵌めてしまえば扱いやすい。
この策を提案したという白縫は、地獄を創り出す気に満ちていた。
底知れない悪意。
お燐は怖かった。
しかし、同時に奇妙な解放感をおぼえた。
男でも女でもない半陰半陽の身体に生まれたお燐は、既存の普通の型になかなか自分を嵌めることができなかった。
くだらない。
馬鹿らしい。
そう思うことはあったけれど、自分でどうすることもできなかった。
ずっと悩んでいた。
でも、
┅┅白縫さまのような意地の悪い人がみんなを操るために型を用意するというのならば、誰かに用意された普通の型に何も考えず嵌まるのが良いことなのかどうか、悩んでしまってもいい。悩むことは恥ずかしくない。
と素直に言えるような気がする。
自分が自分でなければ、悩むことさえできやしない。
私は私だ!
* *
玄海屋の奉公人の仕事が終わった夕暮れ時、お燐はシャボン玉を使う手妻の練習をした。
シャボン玉液を入れた水桶に、輪っかをつくった紐を入れて振る。
輪っかの数だけシャボン玉がふわふわと宙に舞う。
そんな輪っかつきの紐を間に何本も渡した二本の竿を用意し、その紐の部分をシャボン玉液を入れた水桶に浸し、両手で二本の竿を一気に広げると、大量のシャボン玉が発生する。
それは幻想的な光景であった。
この手妻のタネはシャボン玉液。
シャボンの語源は十六世紀のイスパニヤ語のxabón。
十六世紀末に中国に上梓された『本草綱目』にあるようにシャボンは石鹸を意味している。
ただし、寛永年間の日本では石鹸は高級品であった。
お燐は無患子や芋殻やタバコの茎などを焼いて粉末状に加工したものを水に混ぜてシャボン玉液をつくっていた。
お燐がシャボン玉を撒き散らしながら舞っていると、いつしか勝烏の黒八がやってきていた。
「ずいぶん楽しそうだな、お燐」
博多のスリ師であった老人は忍者顔負けの気配の消し方をする。
根来忍者としての顏を持つお燐も驚いた。
「いつの間に?」
その問いに黒八は答えなかった。
代わりに、
「生きていることを楽しめばいいのさ。今、お前はいい顔をして笑っていた。それでいいんだ」
と言った。
妙に照れ臭い気分になって、お燐は文句を言った。
「ちょっと、黒八さん、今、お燐なんて言われたら、こちらの気分が壊れます。見世物芸人をやる時の私の芸名は、大蛇川の燐太夫です。お忘れなく」
「すまねえ」
黒八は笑いながら謝った。
小さく溜め息。
「いや、お見逸れした。
ここまで燐太夫さんの芸が大したものだと、囃子や音曲をつけないと何かもったいないような気がするわい」
「是非にもお願いします」
と、お燐。
自分の手妻が一国の命運に絡むようなことが、二度もあるとは思えない。
大蛇川の燐太夫にとって一生の晴れ舞台。
願わくば華やかに。




