第八十八回 仕掛けられていることにさえ気づけず
安川兄弟たちから疑われているという話を稽古場で三笠山伊達五郎は聞かされた。
耳に入れたのは、相撲の弟子である者たち、畑地山と細石である。
伊達五郎も面白くなかった。
稽古場で溜め息。
「俺は星野さまには義理はあるが、安川の御兄弟には義理はねえんだよ」
畑地山は言う。
「関取の値打ちを落とさないようにしながら負けるというのは、どうでしょうか? 押し込みながらも勇み足とか」
なるほど、と伊達五郎は唸った。
「悪くねえな」
展開次第でわざと負けてやってもいい。
それぐらい安川兄弟に対しては、三笠山伊達五郎は腹を立てていた。
欲しい掛け軸を買えなかったというだけで、切腹して死んだ安川平兵衛も馬鹿野郎。
安川の家のお取り潰しを避けたいと言う理由だけで、刀をもって店に押し込んで老夫婦を滅多切りにして殺したという安川兄弟はろくでなし。
それでも、安川平兵衛は福岡藩の大目付の星野宗右衛門の従兄弟。
安川の家を絶やすのは哀れということで、すべて鷲羽屋が悪かったという話にしい福岡藩のお裁きは結着がついた。
とんだ片手落ち。
殺され損の屋の老夫婦は、近ごろにひょんなことで大金を手に入れ、その金で博多の貧しい者たちを救っていた。
無責任な博多すずめたちの間の世評では、鷲羽屋は善玉。
悪玉の安川兄弟の縁者である星野宗右衛門に対する個人的な借りが伊達五郎にあった。そして、伊達五郎と同じに相撲取りの大熊手の手に問題の掛け軸が最初に渡った。
問題の掛け軸を伊達五郎は手に入れるという仕事を引き受けたのは、浮世の義理。
別に、伊達五郎は好き好んでやっているわけではない。
そのあたりのことを、どうも安川兄弟は勘違いしている。
畑地山は続けた。
「どうにも暮れの猿田彦大神の勝負は、関取にとってわりがあいません。
相手が大熊手でならば、とにかく、素人よかたの四郎丸とかいう奴と言うのでは、困りますな。
素人と同じ土俵で向かい合って、まともに関取が勝ちに行こうとするだけで、関取が悪役にされてしまうかもしれません」
「だろうな」
絵面を思い浮かべて、伊達五郎はげんなりした。
どうして、こんな取り組みを受けた?
「すみません」
と頭を下げるのは、細石であった。
彼が言うには、
「豊前の玄海屋のお燐っていうのが、その四郎丸とやらの伝言だってものを言うんですが、『素人相手に逃げるのか』『掛け軸なければ安川が怒るだろ』とか言いやがるので、つい」
と言うことだった。
畑地山の意見。
「開き直ればよかったのさ。
後知恵だが、『三笠山は素人相手に相撲は取れない』『星野宗右衛門さまに掛け軸の入手を頼まれているのだが、もう無理』とか言って、掛け軸の入手の仕事を他の者に投げる」
いくら何でも、と伊達五郎は苦笑した。
「開き直りすぎだ、そいつは。星野さまの名前を、こちらが正直に出してしまうと、面倒なことになる」
「面倒なこと?」
「星野さまは安川平兵衛さまの従兄弟ということで、安川の御兄弟のお裁きに、大目付の役職を使って相当に手をお入れなさった。
そういうときに、安川の御兄弟が例の掛け軸を手に入れるのに、星野さまが手を貸そうしていると、俺たちが口にすれば、『やっぱり』とみんな思うだろ?
言わぬが花。
安川の御兄弟の鷲羽屋殺しについて大目付の星野さまが不正な扱いをなさったという話が、伊達五郎とその弟子のせいで広まるというのは、うまくねえ」
* *
安川兄弟が居丈高になって土俵で戦う伊達五郎に圧力を加えるほど、伊達五郎の意欲は低下し、使う技術の幅も狭くなる。
すでに勝利に向けた仕掛けを始めているのは、阿修羅丸の側。
伊達五郎の側は、伊達五郎本人が勝ちたいという意思も固めきれない状況。




